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「みんなちがってみんないい」金子みすゞの遺音に触れる [その他雑感つぶやき]

さて、お知らせブログで述べたとおり、今年の夏休みの旅行の中で、山口県は長門市仙崎の金子みすゞ記念館を訪れてきました。


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金子みすゞといえば、奇しくも2011年の東日本大震災という誰も望みはしなかったような災厄をきっかけに(テレビCMがすべてACの無限ループになった際の「こだまでしょうか」で)注目が集まったりもしましたが、ワタシとしては、日頃の講演などの中で多様性を尊重しあえるような社会にしていくことが大切という訴えを象徴するフレーズとして引用する【みんなちがってみんないい】の元ネタ作者として、かねてより関心を寄せるところとなっていたのです。

この【みんなちがってみんないい】は、もちろん代表作のひとつと認識されている「私と小鳥と鈴と」のシメの言葉です。

三者三様、それぞれできることとできないことはあるけれど、そういう長所や短所をお互いに認め合い尊重し合い補い合うことで、共存共生のみんな幸せな関係性になる」というメッセージに満ちたこの詩は、まさに、お互いの違いを個性として受け入れることで、ともにより心豊かに暮らせる社会を築くことにつながることを教えてくれます。

一部には【みんなちがってみんないい】を、その部分だけを取り出してミスリードする向きもあるようですが、むろんこれは「俺は金持ち、お前は貧乏、でも違いがあるのはイイことなんだろ? だからOK」なんて意味ではありません。

社会的な不公正を生み出す構造が温存されることに免罪符を与えて正当化するためにこのフレーズが悪用されることが、金子みすゞの本意でないのは「私と小鳥と鈴と」全編を一読すれば明らかでしょう。
むしろ逆で、ひとりひとりの差異が不公正を正当化する理由にされないようにすべきというコンセプトに基づいて、そのための有用な視点を提供しているのだと言うべきです。


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金子みすゞの詩は、他にも卓抜したセンスの発露したものが多々あります。

月並みな言い方ですが、「星とたんぽぽ」は目に見えることに惑わされず心で感じることが大切、「ふしぎ」なら常識を無批判に受け入れず常に疑問を持ち続けてみよう……という重要な観点が読み取れます。

あと「大漁」も、大漁にわく人間界の立場を描く一方で、獲られる魚の側の視点を描いているところが、高く評価されるポイントだったりもします。

なんと繊細で複眼的な感性でしょうか。

そうして、みずみずしくも優しさに満ちた言葉で綴られた作品の数々は、21世紀を生きる私たちの心にも深く響くところであります。


   


そんな金子みすゞですが、記念館にはその生涯を紹介するパネル展示もありました。

ただ、現代の私たちが金子みすゞの晩年の展開に触れると、いささかやりきれない気分にもなります。

その生涯が26歳という若さで幕を閉じた経緯を一言で(今の言葉で)言えば「夫のDVに起因する離婚問題のこじれ」。

………なんということでしょう。

まがりなりにも法的には男女同権であり、DV防止法などもいちおうは整備されている現代と異なり、当時はそうではなかったのです。
それゆえ自分を貫く唯一の方法が、命をかけて抗議の意志を示すことだったのでしょう。
そもそも、当時は女性の主体性が顧みられる社会環境ではなかったのです。

多感な少女が長じて自ら死を選ばざるをえなくなる時代背景には、憤りを禁じえません。

せめて100年後であったならば、生きる希望を見失わないで済むこともできたのではないでしょうか。

その意味では、先人の努力の蓄積の上にある成果を享受している21世紀の私たちは恵まれているとも言えますし、そのことを、さらなるよりよい明日を創っていくために活かしていく責任と義務もあるでしょう。
むろん性差別構造はなくなったわけではない――むしろ不可視化された水準で根強く残っているにしても、それを読み解く学問も、抗うための各種のリソースもまた、法的な男女同権とともに、万人に対して性別を問わず開かれているのです。

そうして私は、同行の我が娘・満咲がこれから歩んでいく未来にも、はからずも思いを馳せるのでした。


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で、そんなこんなで、満咲を助手席に乗せ、仙崎を後にしようとした私たちなのですが、そのときまた偶然にもウォークマンのシャッフル再生が選んだカーステの音楽が『ドキドキ!プリキュア』の前期エンディング主題歌「この空の向こう(作詞:利根川貴之)

 この空の向こうには どんな夢がある…
 強い気持ちは この世界を変える…
 夢物語じゃない どこまでも手をつないで…
 果てしなく続いてく未来信じて手を伸ばして…

私はふと、その歌詞に、金子みすゞの「このみち」と相通ずるものを感じました。

「このみち」は知名度ではトップクラスの作品群に一歩ひけをとっているようですが、その内容はある意味まさにみすゞ節の真骨頂とも言えるものです。

 →http://www.misuzu-charagoods.jp/product-group/4
  ↓↑全文が紹介されているサイト一例↑↓
 →http://misuzu.at-mio.com/coment301-400/c323.html

仲間とともに未来へ向かって歩んでいこう。孤独と絶望を越えてみんなで進むその先にこそ希望がある――。

そんな力強さにあふれた詩は、本当に来年のプリキュアのエンディング主題歌にそのまま使えそうなくらいです。
(あるいは昨年度の『スマイルプリキュア』で引用されてもよかったかもしれません)

私はあらためて気づきました。

金子みすゞが遺したものは、世界のあちらこちらに受け継がれ、それがまためぐりめぐってアニメの主題歌歌詞になり、今日の少女たちをエンパワーしているのだと。

そう、21世紀にはプリキュアだってある。

もしかしたら金子みすゞは、100年後のアニメに委託して、生きるのをあきらめるな!と言いたかったのかもしれません。

未来へ向かうタイムマシン、あきらめて降りてしまったらそこが終点なのですから。


  このみちのさきには、
  なにかなにかあろうよ
  みんなでみんなで行こうよ
  このみちをゆこうよ

   


※手元の大修館書店「新漢和辞典」1978年版によると…
【遺音(い いん)】
余韻、悲しい声、古人が後世に残した音調、ことづて・伝言
 …とあります。


◎そういえば『しゅごキャラ!』のエンディング主題歌にもBuono!が歌う「co・no・mi・chi」ってあったナ(2ndアルバム『Buono! 2』に収録されてます)

◎「生きるのをあきらめるな!」はプリキュアぢゃなくてシンフォギア………というツッコミはナシで(^^ゞ

◎『ドキドキ!プリキュア』も総じて高評価の良アニメと思えるのですが、そのあたり当ブログの記事にまとめられるのは、来年の1月ごろになりそう(^^;)


蝉丸、その境界線上のラグランジェ [その他雑感つぶやき]

先日、ひょんな事情で雑誌『ユリイカ』(青土社)のバックナンバーを調べていたら、2013年1月臨時増刊号百人一首特集で、見れば、蜂飼耳「蝉丸の背中は語る」、郡司ペギオ幸夫「蝉丸および蝉丸になれない我々、または、いかにして我々は蝉丸にならんとするか」…と、2つも【蝉丸】を扱ったトピックが収録されていました。

そういえば、松本ぷりっつ『うちの3姉妹』(主婦の友社)6巻の100~102ページ(2006年11月のブログから採録されているもの)にも、坊主めくりに興じる3姉妹たちにとって、蝉丸が異様にツボだという描写があります。

◎『うちの3姉妹』も元々の松本氏の公式ブログは末娘のチーちゃんの小学校入学に合わせて更新が終了し、その後は新しい公式ブログで、『うちの3姉妹』シリーズとは切り離した形で3姉妹の近況が語られていますが、やはり私が見ると、ウチの娘と同学年で、すなわち中学2年生になっているはずの長女フーちゃんにかかわるネタは、思春期の子どものプライバシーに配慮してかなり控えられているように見受けられますネ


……蝉丸は、どうも多くの人の心の琴線に触れるものがあるようです。

いったいどうしてなのでしょうか?


じつは私も子どものころ蝉丸にどこか心惹かれるものを感じていました。

坊主めくりをしているとき、めくった瞬間に坊主だとわかるのではなく、大丈夫、セーフだった! と思ってよくよく見たらじつはやっぱり坊主だという、その意表を突いた存在感が、多くの人にエモーショナルな効果を及ぼしているであろうことは想像に難くありません。

◎今ちょっと【坊主めくり 蝉丸】で検索してみたら、やはり注目度は高いようで、蝉丸の札をめぐるさまざまなスペシャルローカルルールも各所に存在するようです。


加えてワタシの場合、今では次のように説明することもできます。

つまり蝉丸とは、実際にはお坊さんカテゴリーであるにもかかわらず、そのビジュアルが同カテゴリー内の他のお坊さんの平均値と大きく異なっているわけです。
すなわち、内なる属性と見た目が一致せずに、私たちの抱いているイメージに比していちじるしく乖離している、少なくとも坊主めくりのゲームの際にはそういう存在です。

もっと言えば、蝉丸の経歴自体が謎に包まれており、盲目のために捨てられた皇子説なども含めて、正規の過程で出家した僧侶とも言えず、お坊さん扱いは後世における琵琶法師一般とのイメージの混同だとも言われています。

そんな「スッキリ割り切れなさ」、つまり蝉丸の【境界性】のようなものが、後にトランスジェンダーとして生きる私の心に響いてたのだと思われるのです。


そう思って、あらためてよく考えると、百人一首収録の蝉丸の歌というのが、なんと「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」であって、つまり関所という、あっちとこっちの【境界】をモチーフにした作品ではありませんか!

……ふ、深いなぁ(゚д゚)!


    


いずれにせよ、蝉丸の醸し出す【境界性】に、多くの人が惹かれるところがあるというのは興味深いです。

おそらくはすべての人が持つ、何らかの観点における「スッキリ割り切れなさ」が、どこか心の奥底で響きあうのではないでしょうか?

そうして、それが特にマイノリティの場合、日々意識することを強いられている境界線、そのあっちとこっちのいずれにも安住できない不安定感、そんな中でのそれでも自分の立ち位置とする均衡点(いわば「とある境界線上のラグランジェ・ポイント」)を常に探りながら過ごさねばならないストレス、……そういったものに対するやりきれない気持ちと、【境界性】を超越した果てから届いているメッセージにも思える蝉丸の存在とが、激しく共振するのかもしれません。


思えば、「その境界線」は、いつ誰が何のために定めたものなのでしょうか?

本当にそれで「あっちとこっち」を分かつことに合理性はあるのでしょうか?

本当は単純には分けられない、分けてほしくない。
絶対的に固定した【境界】などは幻想です。

境界線上のラグランジェ点探しの毎日に、常に「あっちとこっち」の板挟みになりがちな身としては、単純に分けようとすることこそが、対立と相互不理解の始まりだと思えます。

それよりも、ひとりひとりが異なることを前提に、そのときそのときに応じて相対的に現れる、互いの関係性を測り合うための補助線としての境界線を、そのつど見極めていくことが大切なのではないでしょうか。


素顔のままでもう一度めぐりあいたい [その他雑感つぶやき]

先日カラオケに行く機会があったので、以前から狙っていたある歌を歌ってみる野望に挑戦しました。

それは、TONY『素顔のままで』
ご存じの方も多い………はずはないと確信しますが、これはかの『宇宙戦士バルディオス』の劇場映画版の主題歌だった曲なのです。

そう、つまりアニメ史上に残る伝説の欝エンドとしては『伝説巨神イデオン』と双璧をなす――いゃまだイデオンは輪廻転生という救いがあったことを考えると、もはや唯一無二の最悪のバッドエンド(……出番です、スマイルプリキュア!)な、あのラストにおいて流れる曲なのであります。

※現在はデジタル音源がなく、「ロボットアニメ大鑑」のCDにもテレビシリーズの分は収録されているのに劇場版関連は入っていないので、なかなか簡単には聞けなかったりするのですが、なぜかカラオケでは扱われているという…!

(2015/11/21)
コメント欄で2輪回帰さまから情報提供がありましたように、TONYの楽曲を集めたアルバム『BLUEGRAY』が2013年にリリースされています。
したがって現在ではその中に「素顔のままで」と、やはり劇場版バルディオスのテーマ曲だった「SEAWIND」も収録されており、デジタルデバイスで聴くことが可能になっています。

 

なので当然に明るくノリノリな曲であるはずはなく独特の哀調を帯びた歌なのですが、じつはこの歌、ワタシの場合、個人的な体験とのかかわりでも、非常に切ないものとなっています。

あれは高校生だったころ、当時付き合っていたカノジョと、決して嫌いになったわけでもないのに、やむにやまれぬ事情で別れねばならなくなったことがあります。
(詳細は『女子高生になれなかった少年』参照(^^)v)

そして、そのカノジョと別れる間際のデートのときに観た映画が、じつはこの『宇宙戦士バルディオス』劇場版だったのです。

それゆえにこの『素顔のままで』(作詞:佐藤真紀)のサビの部分

  互いの魂が呼び合う
  この広い宇宙の片隅
  もう一度めぐりあいたい
  ただの男と女
  素顔のままで

…は、まさにそのときの私の心情そのままで、あたかも自分のことのように気持ちに迫ってきていました。

そうして、作中の主人公マリンとヒロインのアフロディアに自分たちを重ねて解釈しながら、映画にも感情移入してたんですねぇ…。

ただ、この「そのときの私の心情そのまま」ってのは、今ふりかえると、少し正確ではないと思えます。

不本意ながら「別れ」を選ばざるをえなくなった問題の根幹は、やはり2人が「男と女」として付き合っていたから――。

すなわち、当時から私が「女」であったなら、2人の間にはもっと別の関係性が育めていたはずです。

やがて恋人どうしとしての蜜月が危機を迎えるとしても、女どうしであれば、現行社会の「異性との付き合い方」「男女交際のルール」は適用されず、しこうして恋人として付き合い続けるにしても、それはやはりもう無理だという結論に達したとしても、「2人」のその後の関係のカタチには、さまざまな可能性が考えられたはずなのですから。

そんな中であったなら、あのような形で悲しい別離を強いられることもなかったことでしょう。

むろん当時は、そうした認識は言語化できず無意識レベルにとどまっており、そのために悩みは解決の糸口すらつかめず混沌と深まるばかりだったのですが…。

ということで、『素顔のままで』の歌詞、往時のワタシの状況にリンクさせる上で正確を期するならば、次のように修正が必要となるわけです。

  互いの魂が呼び合う
  この広い宇宙の片隅
  もう一度めぐりあいたい
  ただの女と女
  素顔のままで

…いゃマジあのころに女として戻ってやり直したい事柄はむろん多々ありますが、そのことによって展開が実際に経られたものとは大きく変わるであろうことのひとつが彼女との関係であることは疑いありません。

もう一度……めぐりあいたいですね、女と女として。


あっ、とりあえず今回のカラオケは修正を施したほう、いわば【セクマイ バージョン】で歌いましたヨ♪
(いっしょに行ったみなさんにはウケてました(^o^;))


 


◎この『素顔のままで』で歌われている内容のうち、「宇宙的規模で離れ離れになっても、また再び会いたい…」というという趣旨にかかわる部分。
これは先日放送されたアニメ『輪廻のラグランジェ』の第12話(第1期最終回)でも描かれていたドラマです。
しかし、そう思って当該アニメのエンディング主題歌・中島愛「 Hello! 」を聞いても、アニメ本編どうしを比較しても、その描かれるディティールの大きすぎる違いには感嘆します。
すなわち『バルディオス』劇場版が、年齢層の高いファンを意識して「壮大なスペースラブロマン」などと銘打ち結局は「男と女」に回収されるエピソードしか描けなかったのに、いまどきの深夜アニメである『輪廻のラグランジェ』(略称ラグりん)は、女の子どうしの友情を超えた友情の物語をいとも簡単に描写しきっています。
30年の間に、時代は着実に進歩したということなのかもしれません。


◎「輪廻」といえば、上で触れたようにかつての『伝説巨神イデオン』のラストが輪廻転生だったわけですが、よくよく考えると、『輪廻のラグランジェ』の主人公側ロボットであるウォクスは、
 ◇古代文明の遺跡に由来する
 ◇搭乗者の精神の高揚に感応してパワーアップしたりする
 ◇それが高じると危険な事態に陥る可能性が懸念されている
などの点が、イデオンと共通してますねー。
……………。
第2期のラストが妙な欝エンドでないことを期待します。


  

  


◎それはそうと、カラオケで日頃(前記事にあるように)百合解釈して萌えている曲を歌おうとしたら、画面のPVが異性カップルで描かれていて激しく萎えるという罠


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