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平成のカーテンコール [その他雑感つぶやき]

今日は世界のデファクトスタンダード・西暦で言うところの2019年4月29日。
そしてそれが「平成最後の昭和の日」なわけですね。

そうして明日で「平成」も終わり。
5月からは新たなる元号令和の時代へと世の中は進むわけです。

ワタシのように昭和に生まれ、そして平成の始まりをリアリタイムで体験した世代には、やはりコレはいささかの感慨は禁じ得ないところです。


◎元号に対して思想的に反対する意見も世の中にはあるようですが、ひとつの文化として元号には相応の意義があるでしょう
(「平成最後の……」とか「昭和という時代を感じさせる◯◯…」とかは、あながち無意味ではない)。
ただもちろん、利便性の高さからすると、もう実用の局面では西暦をもっぱら用いるのがわかりやすく通算にも便利でスッキリするとは思っています。
もはや西暦がデファクトスタンダードとして優位な地位にあるのはいかんともしがたい中で、実用的な面でその軍門に下ることで得られるメリットを優先することは、決して自国の歴史や伝統を蔑ろにすることとイコールではないでしょう。
(キリスト教による世界支配に対してアジアの国としての独自性を打ち出して対抗する……といったことに意義があるとしても、その一環として独自の暦を護持する取り組みは、実用の局面でむやみに拘泥するのではなく、文化の全体像の中で無理のない形で実践されるほうが、むしろスムーズに企図を実現できるのではないでしょうか)。
それでもどうしても自国独自の暦を実用の局面にも使いたいというなら、現在の役所の公文書などで元号を使ってる代替に「皇紀」を使ってほしいですね。
通算性は高いし、西暦と1の位の数字が一致して換算もしやすい。
元号の代わりに持ってくるだけならいわゆる右も左も進退ナシなので、みんなが利便性というメリットの享受が得られるという点では一致できるはずでしょう。
とにかく元号は換算が大変&通算が困難なのは不便でしかないです。
特に「平成」の換算は難度が高い。ズレてる数値が2なので、それを足すのか引くのか間違えると正しく換算できなくて頭が混乱します。
だいたい天皇陛下はかなり以前から生前退位の意向を示してたと言うではありませんか。
せめて西暦2016年から新元号にできていたら、昭和と同じく1の位の数字が西暦と5ズレることになってイロイロ便利だったのに……
(昭和の西暦と5ズレてるのはわりと便利だったのです。現代のことについて語る際に「1970年代の後半から1980年代の前半にかけて」みたいに言わなくても「昭和50年代」の一言で済ませられたり、その前に5なので換算するとき足しても引いても同じ1の位の数字が出るので悩まなくてイイという)。


思えば昭和天皇の崩御が、ワタシがいわゆる社会人1年めだった年度のこと。
なので自分にとってはいわゆる社会人として生きてきた歳月こそが、ほぼまるまる「平成」時代だったことになります。
逆に言えば、学生時代をもっぱら昭和の中で過ごしたということにもなりましょう。

つまるところ、じつは抱えていた性別違和のせいで悶々たる違和感に苛まれていた昭和時代の多感な若き日々。
それが嵩じて大人として人生に行き詰まる平成の初頭。
そんな懊悩を経て性別以降に踏み切って、以降トランスジェンダーとしての生活を築きながら人生経験を積み重ねてきた年月。

そういう経緯の中での、大人として過ごした時代が、ワタシにとっての「平成」だった……と言い換えることも可能です。

ぅうーむ、やっぱりちょっとしみじみしないではおれませんねぇ;


 
 ※浜端ヨウヘイ「カーテンコール」


そんなわけなので、誰もが各々歩んできた平成の日々をふまえ、いわばカーテンコールのごとく平成のあれやこれやを再確認しながら、今は新しい「令和」の時代を皆で迎えるときなのではないでしょうか。

願わくば、古く凝り固まった(とりわけ性的少数者に対する偏見などの)価値観などは、平成の彼方に放置していきたいところですね。



◇◇


正義の怒りをぶつけろガンダム!? からの「必要なのは剣じゃない」 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

今年・2019年は『機動戦士ガンダム』40周年ということで、公式のほうでも記念企画がいろいろ用意されているようです。

若かりし日にファーストガンダムにハマったオールドオタク諸氏にあっては、そのシリーズが40年続くコンテンツとなり、いまだに新作アニメも制作される現在の状況は、なかなかに感慨深いものなのではないでしょうか。

かく言うワタシも、そのひとりなのですが、それにしても40周年ですかぁ;
1979年当時、中学3年生だったワタシにとってガンダムは、そんな青春の入り口で触れた思い出深いタイトルであることは間違いありません。

というか当時中学3年生すなわち15歳だったというのは、私たちは作中の主人公アムロ少年と同い年だったということです。
それだけに、余計に感情移入にも熱が入ったというのはあるかもしれません。

で、まぁ40年も経ってしまっているので、現在の私たちが当然にブライト・ノア19歳とかシャア・アズナブル20歳といった、あの頃は相応に年長に見えた人たちのトシを(とっくに)追い越してしまっているのはいたしかたないことでしょう。
………え゛っ ランバ・ラル35歳!?
(主観のうえではやっとこさああいうシブい大人たりえる年齢になってきたかなという今日このごろなのですが;)


あと中学3年生のときのガンダムがらみのエピソードとしては「集団カンニング事件」もあります。

社会科のテストで「部分的核実験禁止条約」が正解となる出題があったのですが、どうもワタシたちのクラスではたまたま担当の先生が教え忘れていたのか、教科書の隅にチラっと載っているだけだったので、誰も正解に思い至りませんでした。
とはいえテスト中は皆なんとか正答を書こうと頭を捻ります。

「うーん、核を禁止する条約かぁ」
「核兵器、禁止、の条約……」
 「「「「「あっ!!」」」」」

そこで少なくないクラスメートたちの脳裏に浮かんだのが、少し前に放送された『機動戦士ガンダム』第25話「オデッサの激戦」での、勢い余ったマ・クベが発射した核弾頭ミサイルに対して叫んだアムロの台詞。

《核兵器は南極条約で禁止されてるのに!》
※あくまでもリアタイ当時の記憶をもとにして再現するとこうなるのですが、実際には細部は異なります

かくして通常なら「部分的核実験禁止条約」と解答欄に記すべき設問に対する誤答として、そんなにも複数人の間で重複することはありえないはずの「南極条約」という珍解答が続出してしまい、集団カンニング行為が疑われる事態となってしまったのでした。

てか「南極条約」って条約名自体は実在するから余計にみんな正解の候補としてソレっぽさを感じて書いちゃったんですよね、これw


そんなこんなで当時、番組の視聴率やスポンサーが発売した子ども向け玩具の売上が低迷したのとは裏腹に、『機動戦士ガンダム』が中高生の心をガッチリ捉えていたのは紛れもない歴史的事実です。

その理由はと言えば、端的に述べるなら「お子様向けではない」ロボットアニメの可能性を示したから。

精緻で綿密な設定に基づいた周到な描写。
一筋縄ではおさまらない重厚な物語。
そして存在感に真実味がある魅力的な登場人物たち

これら、ご都合主義にはおもねない「リアル」な世界観が、それまでの、主人公が叫んだら必殺武器が発動して敵が吹っ飛んで終わるようなスーパーロボットものを、いくつも視聴してきた果てに、そろそろ卒業しようかと考えていたティーンエージャーには、すこぶる画期的で斬新に映ったわけです。

そうして、そんな作品を通して示される戦争という現実の実相と、その背後にある社会たるものの複雑さ。

これらが、大人の入り口に立つ若者たちの琴線に刺さるのは必然だったと言えるでしょう。

こうしてガンダムが拓いた新路線は、以後「リアルロボットもの」としてアニメの人気ジャンルとして確立していくことにもなりました。


しかし当時その『機動戦士ガンダム』にあって、「いやいゃぃや、ソレは違うやろ!」と、私たちをして盛大にツッコミを入れさせていた事項があります。

それが、そう、主題歌歌詞中のこのフレーズ、
※OP主題歌「翔べ! ガンダム」作詞:井荻麟

「正義の怒りをぶつけろガンダム」!

 BL190400_GundamJts.JPG
§画像は公式のサイト等よりキャプチャしたもの。以下この記事中同じ


……………。

上述したように、ガンダムのストーリーは単純な枠組みに収まらない重層的な展開で戦争のリアルを描き出し、旧来のお子様向けアニメの範疇を超えるものとなっていました。

したがってガンダムを操縦するアムロ少年の戦いが、悪の権化のジオン軍に対して正義の地球連邦軍として怒りの制裁を加えていくようなものでは決してなかったことは、誰の目にも明白だったわけです。

その意味では、この主題歌のココのくだりは明らかにオカシイ(^^;)

まぁおそらくは、従来の慣習を改めるのが主題歌の制作時点には間に合わなかったのではとか、子ども向け玩具を売りたいスポンサーの要望とかがあったんだろうなぁとか、当時の中高生たちは「大人の事情」を慮ってもいたので、こうしたツッコミも、ガンダム視聴に基づくトークの楽しみの一環ではありました。


ちなみに「正義」の文言はやはり根が深くて、ロボットアニメ主題歌からなかなか姿を消せませんでした。

富野監督による次の作品とも言える『伝説巨神イデオン』では「大地割りそそり立つ姿、正義の証か」とギモンを仄めかす助詞が付きつつも出現します(「復活のイデオン」作詞:井荻麟)

『聖戦士ダンバイン』では「伸びる炎が正義になれと」ともはや願望だったり「殺し合うのが正義でない」と明確な否定の文脈に置かれたりしてるのに文言自体は歌い込まれる結果になっています(「ダンバインとぶ」作詞:井荻麟)

今にして思うと「井荻麟」とは富野監督の作詞時のペンネームなので、富野氏としてもいろいろ試行錯誤していたのでしょう。

直接の続編である『機動戦士Zガンダム』の1985年にもなると、ロボットアニメ主題歌がいわゆるイメージソングのような曲である事例も当たり前になるので、この問題は解消されるんですけどね。
「星が降りしきるペントハウスで空のオルゴールひとり聴いてた」で始まる、『機動戦士ガンダムZZ』後期主題歌だった「サイレント・ヴォイス」(作詞:売野雅勇)なんて、戦いやロボットを想起させる印象はきわめて薄く、「正義」も、そして「ガンダム」ももはや歌い込まれてはいません。


話を戻すと、これはすでに1979年の時点で、当時のアニメファンであるティーンエージャーたちは、

正義の胡散臭さ

をこそ、アニメが描いてくれるのを期待しており、『ガンダム』の本編の内容はむしろそれにしっかり応えていた、と言うこともできるでしょう。

実際、アムロが「怒りをぶつけ」るシーンとして最も印象深いひとつは、戦死した仲間に対して地球連邦軍のエライ人が「名誉の戦死でしたので二階級特進しときますヨ~。良かったですねぇ、ハハハ…」みたいな態度をとったときです
(第30話「小さな防衛線」での挿話ですね)

その怒りの直接の対象となっている地球連邦軍のエライ人というのは、本来的には味方陣営なわけですし、背後には、戦争という状況の理不尽さや戦争を引き起こしてしまうような社会状況に内在する不条理さへの嫌厭も積もり積もっていたのが、ここで爆発したと見ることもできるでしょう。

15歳の少年が大人社会の闇に対して抱える感情としては、同年代にとっては非常に共感できるものでもあったと言えます。
……盗んだガンダムで走り出す~♪

いずれにせよアムロの戦いのモチベーションが本来的には悪のジオン軍に対する正義の怒りなどでは決してなかったのは疑いないことです。
(にもかかわらず、上述の同じシーンではアムロ達は正式に辞令を受けて軍の一員としての階級を付与されて組織に組み込まれ、その戦いが公の論理に絡め取られていくことにもなります。それが後のあの悲劇にもつながるわけですが…)

特に第1話「ガンダム大地に立つ!!」を今日において再視聴するとあらためて気づくのですが、アムロがガンダムに乗るに至る経緯が、平穏な日常が侵襲を受けたことに対する憤りや、そんな中での「みんなを守りたい」という気持ちに裏打ちされたものであることは、明確に示されています。

その意味でも「正義」よりも、「ケア」や「キュア」なわけです
(※先ほど「15歳の少年」からなぞらえて尾崎豊ネタを少し入れましたが、よく考えると第1話「ガンダム大地に立つ!!」でのアムロがガンダムに搭乗するプロセス、正規の手続きを経ずに軍の機密物品を奪取していることになるので、厳密にはまさにガンダムを盗んでいるわけですし、その点からも「正義」からは遠い行動だと言えるかもしれません)

ロボットアニメの主人公が、キャロル・ギリガンが言うところの「正義の倫理」ではない「ケアの倫理」で戦うことの意義については、以前に述べました。



しかし、こうしたプリキュアシリーズが長らく継続して女の子たちが「ケアとキュア」を主眼に戦って敵をも救済するストーリーがあたりまえになる時代のはるか前である1979年に、初代ガンダムがその嚆矢とも言える物語を展開していたというのは、刮目すべきことではないでしょうか。

実際、ガンダム第1話「ガンダム大地に立つ!!」のプロットを見比べてみると、プリキュアシリーズの第1話でよくある展開と、かなりの相同性を感じます。

それを象徴する事例については、以前にツイッターで少し触れています。

 



もちろん『機動戦士ガンダム』にあっては、戦争という状況の「現実」を描き出すという側面もまた意義があるものでしたから、一概には言えません。

その後のガンダムシリーズも各陣営が各々の正義を抱えて対立する図式が常態化すると、そがゆえにさまざまな悲劇もそこで繰り返されたりしたものですが、だからこそ描けたドラマもまたあるでしょう。

しかし一方で、今日では「ケアとキュア」の論理が有効に奏功するケースを示すことが多々おこなわれており、そうした作品群が好意的に受容されているのは、ひとつの「理想」を示す実践という観点から、やはり大いに意義があるでしょう。

ガンダムシリーズでも、現実の戦争とは距離を置いて主人公らの日常に根ざした舞台設定で物語を展開する方策はいろいろと登場しています。



そうして何より、主人公らが「ケアとキュア」で戦う作品としてのトップランナーであるプリキュアシリーズは、年々さまざまな試みに磨きがかかってきています。

現時点でのその真骨頂はと言えば、2018年度の『HUGっと!プリキュア』における、第11話「私がなりたいプリキュア!響け!メロディソード!」でしょう。

『HUGっと!プリキュア』が総じて素晴らしかった件については、先日こちらにまとめたとおりです。



そのうえで第11話を振り返ると、これはまずは、ひょんなことから自分に自信が持てなくなってしまった主人公・野乃はなが、仲間や家族の応援で自分を見つめ直して気持ちを持ち直し、心の成長を果たしたことに対応して、プリキュアとしての新しい力、具体的には新アイテムが獲得されるエピソードだというのが大枠です。

野乃はな……が変身したプリキュア・キュアエールの決意に呼応して出現したクリスタルは、そうして《プリキュアの剣》へと形状を変化。
それを手に取ったキュアエールは力が漲ってくるのを感じます。

そうしてキュアエールは《プリキュアの剣》を構えると、力強くジャンプし、決然と敵モンスターへと斬りかかるのでした。

普通ならココでプリキュアは新武器のパワーで敵を一刀両断。
事態は無事に収拾されてめでたしめでたしとなるはずでした。
いえ、むしろ「正義」であれば、そうするより他はないのです
(例えば「ノンマルトの使者」などの『ウルトラセブン』のうちの後味悪い系エピソードというのは、ウルトラ警備隊が公の正義の論理で動く組織であるために「そうするより他はない」がゆえだったとも考えられます)

ところが、剣を振り下ろそうとした瞬間、キュアエール……に変身している野乃はなに、敵モンスターの素体にされてしまっていた敵幹部の本心が見えます。
それは、自分と同じように自分に自信が持てずに劣等感に苛まれていたというもの。

そのことを知ったキュアエールは剣を放棄。
そうして敵幹部の心さえ救済するのがプリキュアであるという理念にあらためて気づくと、敵を優しく抱きしめるのでした。

 BL190427_GundamJts-NoSword.JPG

さらに、なおも存在をアピールする《プリキュアの剣》に対しては、野乃はなが穏やかに諭すように告げます。

「ちがうよ、必要なのは剣じゃない」

こう言われた直後に剣は、なんとバンダイの新商品に形状を変えるので、子どもにプリキュアのおもちゃをねだられた経験がある親世代としては苦笑も禁じ得なかったりしはしますが、しかしソレを割り引いても、この「必要なのは剣じゃない」はものすごく重要なことを言っていますし、今日のプリキュアイズムを象徴するフレーズではないでしょうか
(ちなみに、剣から変化したバンダイの新商品は楽器モチーフです作中ではその新アイテムを使って発動するプリキュアの新必殺技は、プリキュアシリーズの通例にたがわず敵モンスターの凶暴化の源泉である闇のエネルギーを除去して素体となった人を救い出す「浄化技」です)

このような、正義ではなく「ケアの倫理」が世界に相互理解と共生をもたらし、無益な争いの終結が実現されていくモデルケースが描かれることは、近年のアニメではとみに主流となっています。

昨今のこうした方向性の進む先には、ある種のあるべき未来の実現が待っていると期待するのは、はたして楽観に過ぎるでしょうか。


◇◇
  

  
◇◇



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僕らはみんな「社会人」 [経済・政治・国際]

葉桜から芽吹く新緑が眩しい頃合いに、季節が移ってきました。
4月も半ば。
進級・進学・就職・転勤などにともなう新生活も一息という方も大勢おられるかと思います。

ところで、3月で学校を卒業し、この4月から何らかの事業体に就職して仕事を始めた新人職員等々に対して「新社会人」という呼称を用いることも、毎年この時期には目立ちます。

ツイッターなどでは[ #新社会人に送るメッセージ ][ #新社会人へのアドバイス ]といったハッシュタグが賑わいを見せたりするのも例年の慣行でしょう。

「新」に限らず、すでに学生時代を終えて職業人となって久しい人が、自己の身分を「社会人」とイントロデュースすることも、当然に珍しいことではありません。


しかし……、しかしですね。
よくよく見直してみると、この【社会人】という語、いささか引っかかります。

ぃやまぁ、むろん、言わんとすることは伝わりやすいです。
便宜上、こういう表現で言語コミュニケーションがとられている以上、ソコにコミットすることは妥当でしょう。

みんなが使っている言い回しというのは、要は「伝わりやすい」便利な国語的リソースなのですから。

ただ、そうは言ってもこの用語法、本当にモンダイはないのでしょうか。
うっかり無批判に使い続けることで、何か捨象されてしまうものはないでしょうか。

迂闊に用いることで、知らず知らず支配体制に組み込まれてしまうことを是認してしまうような、いわば呪いの言葉ではないのかどうかを、不断に検証するよう努めることは重要です。


あらためてよく考えてみましょう。

修学を終えて会社などに入った人を「新社会人」と呼ぶというのは、つまりは会社などビジネスの場こそが社会だ! という考えに則っています。

人間界の政治や経済を司る権力中枢に連なる領域がもっぱら《社会》なのであって、それに属さない周縁の領域は社会ではないのだという価値規準だと言い換えてもよいでしょう。

ありていに言って、大人の、特に男性がリソースを割り当てられるものとして秩序づけられ成立している、この社会の《ホモソーシャル構造》に準拠した世界観、そういう体制をふまえた用語法が、この「社会人」なわけです。

ということは、この「社会人」を不用意に使用し続けること、これは例えば「新社会人」が3月までいた学校や、あるいは地域社会や家庭などが、「社会」の名に値しない、取るに足らないものに過ぎないという意味付けに暗黙のうちに加担し、支配体制の強化再生産に与してしまうことにもつながりかねません。


もちろん、これは不当です。

社会学的には、人と人とが出会い、そのコミュニケーションをもって成り立っている場はすべて「社会」です。

すなわち、学校も地域も家庭も、その他あらゆる人と人とが何らかのやり取りをおこない相互作用を起こしている現場が、全~部コミコミで【社会】なのです。

であるからして、なんのことはない。

就職以前の学校での友人関係も親子関係もバイト先での人間関係も、あまねくまとめてすべからく「社会人としての経験」なのではありませんか!

「#新社会人へのアドバイス」も何も、すでに積年の経験値が、誰もに社会人としてあるのです。

そう、僕らはみんな「社会人」。
人間は生まれた瞬間から誰もが「社会人」なのです。

ですから、しいて言えば「新社会人」とは、生まれたばかりの赤ちゃん・新生児のことということになるでしょうか。


……そんなわけなので、この「社会人」なる語、深く考えずに安易に使うのは、ある意味ポリティカル・コレクトネスを欠くことになってしまいます。

かといって使用を完全に封印してしまうと、これまた不便なのが悩ましい;

ということで、いわゆる学校を出て働き始めている人を便宜上「社会人」という言葉を用いて呼ぶときには、上記のようなことを頭の隅にでも留めておくとよいのではないでしょうか。


◇◇