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「LGBT」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論、「アニメとジェンダー」など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

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LGBTが「もうあたりまえ」の時代 [多様なセクシュアリティ]

さて、2020年から世を席巻している新型コロナウイルス感染症については、今後も各種の変異株の登場の可能性などに鑑みると、まだまだ油断はできないと言ってよいとは思われますが、幸いにして昨秋、2021年の10~11月前後は、比較的落ち着いた状況ではありました。

そのため、大事を取ってオンライン開催のみとなったものを含めると、講演講師のお仕事も複数こなすことができた結果にはなっていました。
『性別解体新書』刊行記念的な位置づけでのイベントもありましたしね。

 

◇◇
で、あらためて振り返ると、昨秋の講演タイトルには《性の多様性がもうあたりまえの時代》とか《LGBTがあたりまえの社会》といった文言のものが、わりと目立つ印象です。

お知らせブログの[出演・講演講師など]カテゴリを概観すると、2019年頃からそういう方向をめざしたい・めざそうという意味合いのものが登場していますが、2021年の分はソコから1歩踏み込んで「もう」あたりまえに「なっちゃっているヨ!!」という、英文法で言えば現在完了形のニュアンスにしてあるのが、地味にこの分野をめぐる社会状況の進展と連関しているかもしれません。

  → 滋賀県立高校の教職員研修をしました
  https://est-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2021-12-03_eOtsuHSt

  → 芥川高校で特別学習を担当しました
  https://est-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2021-11-20_AktGwHS2021

  ……などノ

◇◇
まぁ講演タイトルというのは多少の「時代の0.3歩先」を提示して、「もはや世の中これからはこうですよ!」「さぁみなさんどーする!?」と煽るようなつけ方も望まれるものですから、その意味でも「もうLGBTはあたりまえの社会」だよと謳うこともあって不思議ではありません。

たとえ実際には、まだまだ遅れた認識・体制の界隈なり分野が残っているとしても、そこにこそ進展を促す意味でも、こうしたプロモーションは意味があると言えます。
いわゆる「予示的政治」のひとつですね。

でも、さりとて、そうは言っても、コレ、時代を1歩も2歩も先取りしすぎてしまうと、タイトルとして、見る人のボリュームゾーンには上手く刺さらないというのも難しいところ。

したがって一般論としても、広告宣伝の業界などではいかに「0.3歩先」にコントロールするか、そこらへんの塩梅には相当に注意を払っているのではないでしょうか。

と、いうことは、逆に言うと、「LGBTはもうあたりまえの社会だよ」が、2021年時点では、おおむね「時代の0.3歩先」あたりまではやって来た、そこまで世の中は進んだ、だからこそ講演タイトルとして穏当なものになってきた、ということでもありましょう。

それこそ、界隈とか分野などによっては、本当に「もうあたりまえ」になってきているケースも、この2020年代には珍しくないとも捉えられます。

そのあたりの実際の様相は、個別に丁寧に見ていかないといけませんし、社会全体の水準と、個々人の生きている現場のリアリティの間にもギャップはあることでしょうから、もちろん早合点は禁物です。

それでも、かつて自分が性別移行を始めた頃の手探り感、今よりも乏しいネットの情報を苦心して集めた日々、さらにおそらくはそれ以前にはもっと孤独に血の滲むような苦労をされてきた先人のみなさんの取り組み…、そうした歴史に思いを致すなら、かように社会情勢が遷移してきた、その事実ははかりしれず感慨深いものとなります。


 BL220129_AlreadyLGBT_KieHK.JPG ※テレビ朝日公式サイトからキャプチャした画像
◇◇
そして、そうした「LGBTはもうあたりまえ」を、象徴的に反映するものとして、ひとつテレビドラマでの描かれ方も見逃せません。

アニメに限らず、実写作品でも各種のクィアセクシュアリティを当然のフツーなこととして描いたタイトル群が台頭してきている件については、2018年時点でも概観してみました。

  → 2018年は「2014年のアニメが変態すぎる…」どころぢゃナイ!
  https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2018-12-10_QueerAnimndSo

◇◇
2021年にあっては、そのあたりが、いっそうさらにナチュラルになった印象があります。

例えば『消えた初恋』。

ひねくれ渡による漫画作品が2021年秋にテレビドラマ化されたのですが、同性愛的な親密感情の取り扱い方が、非常に上手い具合で、配役されたジャニーズのイケメンタレントたちも、そのあたりものすごく適切に演じている。

ジャニーズタレントのプライベートでもファンであり、また研究対象にもしている我が娘・佐倉満咲も、これを絶賛していました。

  → テレビ朝日公式『消えた初恋』サイト
  https://www.tv-asahi.co.jp/kietahatsukoi/

◇◇
すなわち、同性愛は当然にあるものであって、なんらオカシなことではない、という前提のうえで、物語が架構されており、いちおうの作劇上の「お約束」として主人公らが「もしみんなに(男どうしで付き合ってることが)バレたら……」のように悩む展開が最低限は入ってはきていましたが、結局のところ本当に「みんなにバレ」た暁には、誰もがヨカッタじゃんと祝福してくれるという、なんという優しい世界ノ

つまるところ「禁断の同性愛をめぐる苦悩を赤裸々に描いた問題作!!」みたいなレギュレーションでないと同性愛が真面目に描けなかった時代では、もはやなくなったということです。


 BL220129_AlreadyLGBT_KomCom.JPG ※NHK公式サイトからキャプチャした画像

あるいは『古見さんは、コミュ症です。

原作はオダトモヒトによるマンガ作品で、アニメ化もされていますが、2021年秋にはNHKで実写ドラマ化されており、これが全体としてもなかなか秀逸な仕上がりでした。

  → NHK『古見さんは、コミュ症です。』サイト
  https://www.nhk.jp/p/ts/EYMZ6JJWVM/

◇◇
そんな中で、主人公の幼なじみという設定の登場人物(その名も「長名なじみ」;)が、いわゆるトランスジェンダーの高校生であり、主人公が記憶しているのは男の子だった時代なものの、高校で再会すると女子としてふるまっていて制服も女子用でスカートを履いている……というような設定で描かれていました。

しかも、そのことはまったく特別視されず、何のモンダイにもなっていない。
誰からも、その点を、指摘されず、ソコがフォーカスされるストーリーの回もない。

徹頭徹尾、「そりゃ学校には性別違和傾向がある生徒、何人かは在籍してるヨ! その中には性別移行を実践してる生徒だって、当然におるやろ!?」という感じのスタンスで扱われているわけです

(あまつさえ「長名なじみ」は、作品タイトルが「コミュ症」なとおり対人コミュニケーションにモンダイを抱えるキャラクターがこれでもかと次々登場するのが面白さのストーリーの中で、逆に誰ともすぐに打ち解けられるコミュニケーション能力の抜群に高い存在と位置づけられてさえいます)。

演じる俳優は「ゆうたろう」だったのですが、その演技も秀逸で、じつに自然にバランス良く、そうした為人を体現していたと言えます。

たしかに他の「女子生徒」と比べると、いささかの違和感も醸し出されていましたが、それはドラマ描写上の適正に演出された結果でしょう。
まったく違和感ナシに描いてしまうと、そもそも視聴者に性的少数者の登場人物なんだと伝わらないですから、因習的な「オカマ描写」は慎重に避けつつも、何らかのクィアネスを可視的にキャラに盛り込むことはいたしかたありません。

…ぃや、ソコをモンダイ視するなら、まずもって特に何も示されていなければその登場人物がシスジェンダーかつヘテロセクシュアルだろうと読み取ってしまう解釈コード・それでヨシとされる社会習慣こそが問い直されないといけないのですが、そうなるとソレは「時代の2,3歩先」の話になっちゃいますしね。

ともあれこの事例も、トランスジェンダーが登場するテレビドラマ作品として、「性同一性障害者の苦悩に真摯に迫った意欲作!!」とは対極の位置にあり、それが可能になった2020年代の社会自体が、「LGBTはもうあたりまえ」になってきている、そのひとつの指標なのだと言えます。

まとめるなら、「性同一性障害者の苦悩に真摯に迫った意欲作!!」とか「禁断の同性愛をめぐる苦悩を赤裸々に描いた問題作!!」にでもしないと、「ホモ・レズ・オカマを普通でない変態として嗤いものにして消費する」構造とは距離を置いて、真面目に取り組むことができない、そういう状況が30年、20年前には、あるいはもしかすると10年前にさえ卓越的だったのが、近年はようやく、しかしめざましく変わってきた……ということではないでしょうか。

  

◇◇
というわけで、性的エモーションの感じ方は様々だし親密欲求も多種多様なので(「好きの多様性」)、「恋愛(や性行為)は男女で」に限るのは窮屈すぎる。

そもそも社会関係の場にどのような自己呈示をおこなうかも個々人の個性の豊穣を尊重すべきなわけなので、性器のタイプを指標にして人を男女2つのジェンダー属性に分断するのも横暴にすぎる。

……そういう認識が、今後ますます「もうあたりまえ」のこととして人口に膾炙していけばいいなと思います。

◇◇

◇◇



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「性別はサンタクロース」最新バージョン [多様なセクシュアリティ]

お知らせブログのほうではすでにご案内済みなとおり、長年にわたって執筆が難渋していたワタクシ佐倉智美の新刊が、去る9月、性別解体新書 ~身体、ジェンダー、好きの多様性』として、ついに上梓の運びとなりました。

詳細はこちらの記事にあるとおりです。

 →『性別解体新書』2021年刊行
  https://est-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/auth_RestrD-2021

皆さまゼヒ手にとってみてください。
…さぁ! 解体ショーのはじまりだ!!

 


とはいえ、執筆が長引いた分、無駄に大作になってしまったというきらいもなきにしもあらず;

じつは著者の手元での完成原稿では、実際に本になった以上の分量があったというのも知られざる事実です。
すなわち、編集段階で泣く泣く削った小ネタなども多数。

そのうちのひとつに標題の「性別はサンタクロース」もあるのです。

「性別はサンタクロース」の趣旨については、すでに2006年にこのブログで紹介していなくもありません。

 → ★性別はサンタクロース
  https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2006-12-26
◇◇
 BL211227_SantaGender.png
 (画像はイメージです。出典:いらすとや)◇◇

このあたりを元に、執筆をつうじた各種の研究考察を経てブラッシュアップした最新テキストが、つまり、じつはひそかに存在するのですね。

というわけで、西暦2021年のクリスマスも過ぎたことですし、この際、ソレをここで大公開しちゃうことにします。


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性別はサンタクロース

実際には具体的な存在としては虚構であるのに、実在するという前提に合わせてみんなが言動を調整したために、あたかも本当に存在しているかのような社会的効力が発生する、という意味では、性別はサンタクロースと似ている。そう、クリスマスイブにやってくるというあれである。
多くの人々がサンタクロースが本当にいるという前提にコミットしたふるまいを行為する結果、仮にサンタクロースが実在しなくても、実在の根拠がたとえ疑わしくても、そのことは問題とならなくなる。多くの人々がサンタの存在を前提として共有して行動する、それこそがサンタが実在するという事実そのものになるわけだし、そのようにふるまうことが結果的にサンタクロースの存在に社会的実効性を生じせしめることになるわけだ。
そして「性別」もそれと同じなのだ。
「性別はサンタクロース」などと聞くと、ついあの松任谷由実の名曲の節で替え歌を歌いたくなるかもしれないが、これはあながちネタに終わらない、重要な理解なのではないだろうか。
なお、大人による子どもたちに対する「良い子にしてないとサンタさん来ないヨ」というような物言いは、「男の子がそんなんじゃ笑われるよ」や「女の子らしくしてないとお嫁に行けないヨ」等々と、もちろん基本的にも極めて近接した軸線上にある。
そしてこれらは、そもそも架空の設定に基づいて語られる内容が、語られることで実効性を与えられるという点でも共通している。これを見ても、やはり「性別はサンタクロース」なのではないだろうか。
(佐倉智美)

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ちなみに、これだけ読むと前後の文脈がわからないというか、前後で説明されている知見が省かれている感がモヤる、とかがあるやもしれません。

その場合は『性別解体新書』と合わせてお読みいただき、第4章の第2節、250ページのあたりに挟まる話だと思っていただけると幸いです。


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「女の子にもオチンチンはある」話 [多様なセクシュアリティ]

「性別」の基準を「身体」に置こうとする考えは、いまだに根強いです。

それが誤りであることは、すでにさまざまな論者が述べていることなので、あらためて言うことでもありませんし、このブログ内でも、もうかなり以前に記事にしています。

 → 「ジェンダーとは何か?」をあらためて考える
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2014-07-28_gender


それでも「外性器こそが性別の核心だ」と信奉する人々は、なかなか多数派の地位を譲ってくれそうにありません。

外性器を基準にして人に男女いずれかの性別属性を割り振るのも社会的な営為であって、すなわち「身体性別とされているものも含めて、すべては《ジェンダー》だ」……というのは、そんなに受け入れがたいことなのでしょうかねぇ;

まぁ、このあたりは一筋縄ではいかないところなのでしょう。


 BL202017SexIsAwArGn.png
 (画像はイメージです。出典:いらすとや


しかし、そのデンで言うと、ワタシなんぞは相当に幼い頃から、私たちの日常生活における「性別」とされているものの本質は、身体ではなく、社会的・文化的な決まりごとのほうに重心があることを、直観的に見出していたほうなのかもしれません。

拙著『女が少年だったころ』を読みなおしても、幼少期から性別違和に起因するさまざまな理不尽に苛まれているものの、その多くは社会生活における周囲の他者との関係性のなかで生じるものです。

その一方で、身体に対する認識はといえば、「女の子にはオチンチンがないって本当!?」の項にあるとおり、男女の差異は身体に絶対の根拠が存するのではなく、社会的・文化的な約束事によって構成されているものなのだと理解していたわけです。

当該箇所を簡単に要約すれば、小学校の高学年になるまで「女の子にもオチンチンはある」と思っており、女の子が「立ちション」をできないのはパンツに小用のための穴が設けられていないせいであり、女の子がそういうパンツをはかないといけないのは、そういう決まりであるからだ、というロジックです。

ぃや、まさに後年におけるジュディス・バトラー的な意味あいでの「セックスは、つねにすでにジェンダー」を先取りしていた形だと言えるかもしれませんね。

……もしかしてコレ、ちょっと自慢してイイ!?

ともあれ、ワタシが性別移行をおこないトランスジェンダーとして生活するうえで、身体改造が必ずしも必須ではないと考えるようになっていったことには、こうしたことが重なりあって影響していたであろうことも想像に難くないでしょう。

このような、「女の子にもオチンチンはある」に端を発した、男女の差異はすべてが社会的・文化的な約束事である、すなわちジェンダーだという発想、コレにもう少し多くの人が賛同してくれれば、この世の中はもうちょっとラクになると思うのですが、さて、いかがでしょうか。


 


せっかくなので、佐倉智美著『女が少年だったころ』作品社刊 より、前述の箇所「女の子にはオチンチンがないって本当!?」の項のところを、以下に抄録しておきますノ

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽

「女が少年だった頃」第1章・幼少のみぎり
<女の子にはオチンチンがないって本当?>

思春期の話に入る前に、もうひとつだけここで語っておくべきことがある。
(中略)
なんと私は、小学校の高学年になるまで、女の子にもオチンチンがあるものと思っていたのである。
たしかに、女性と男性とのちがいには身体的特徴も含まれることは、認識していなくはなかった。大人の女性のおっぱいなどはそのさいたるものだと言えるだろう。
しかし、オチンチンという決定的な外見的特徴があるということまでは、迂闊にも知らずに成長したのである。
小学校高学年になり、学校では性教育の一環として、第二次性徴や男女の内外性器の機能のちがいなどを習い、小学館の学習雑誌でも、そうした内容の記事が増え、そこで初めて「あれっ?」と思うまで、女の子にはオチンチンがないなんて、想像だにしなかったものだ。
当然、ここで疑問を抱かれる方も、おられるかもしれない。
例えば、女の子にもオチンチンがあると思っていたのなら、男の子にはできる立ちションが女の子にはできないことを、どのように理解していたのか。
じつは私はこれを、女の子のパンツには穴が開いていないためだと解釈していた。
女の子用のパンツには“ホース”を通すための穴が開いていないために、立ちション時には支障をきたしてしまう。
だからパンツをずり下げて、ああいう座った姿勢でしか用が足せないのだ。
逆に女の子だって、男の子用の穴の開いたパンツさえはけば、今日からでも立ちションができるわけである。
ではなぜ女の子は、穴の開いたパンツをはかないのか。
それは、それが“男の子用”だから。
女の子は“女の子用”のパンツをはくもので、それには穴なんて開いていないもの。
そして男の子がスカートをはけないのと、またパンツも穴の開いた男の子用しかはけないのと、あるいはその他いろいろある性別の決まりごとと同様に、女の子が男の子用のパンツをはくのはもってのほかのイケナイことで、してはならないこと。
そういうふうに、世の中の決まりが決まっている。そのため女の子は穴の開いたパンツははけないし、だから立ちションもできない。
そう思っていたのである。
これはけっこう深いものがある。
「性別」というものがいかなるものであるかについて、鋭いところを突いていると言ってもよい。
だいたい今の世の中の、男女の間の生態のちがいには、身体的な差異による以上の開きがある。
「男の子は元気に強く」
「女の子なんだからキチンとしなさい」
「女はもっとおしとやかに」
「男のくせに、もっとしっかりしたら?」
そんな世間の風潮の中で、誰もが暮らしているために、男女それぞれが必要以上の「男らしさ」「女らしさ」を身に付けていってしまうのだ。
ようするに、社会的・文化的な性別、つまり「ジェンダー」である。
女の子にもオチンチンがあると思っていたのは、たしかに間の抜けた話かもしれないが、見方を変えれば、男女のいろいろな性別によるちがいが、このように身体的差異よりも、むしろ社会的・文化的要因によるものだということを、私は幼いころから、本能的に感じとっていたということにもなる。
(中略)
考えてみよう。
生まれてきた赤ちゃんに、オチンチンがあれば男、なければ女、そういうふうに性別を判定してしまうのが、現行のシステムである。
だから判定に不服がある場合、それを覆すために、本人のオチンチンの部分を形成外科的に変えてしまうという方法がとられるわけである。一般に言うところの性転換手術を、“性別再判定手術”と呼ぶことがあるのも、そういった趣旨による。
でも、もうひとつ方法がないだろうか。
オチンチンの有無。そう、それによって性別を一方的に決めてしまう、その性別判定システム自体に変更を迫ることである。
「まちがっているのは、オチンチンではなく、それによって性別を決定するシステムのほうなのだ!」
オチンチンのひとつやふたつが、あったってなくったって、本人の希望するほうの性別が認定されるようになれば、話は早いではないか。
ともあれ私がこのような考えなのは、ふりかえってみると、どうもこの、小学校高学年まで女の子にもオチンチンがあるものと思っていたことと、深いつながりがあるのにちがいない。

△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△


………初出はメールマガジンの2000/11/30号だったということなので、なんとほぼ20年前の文章でしたワ;

あと、書き漏らしているようなのですが、それじゃぁ女の子か男の子かがどのように決定されるかについては、出生児に任意に振り分けられるんだと認識していましたね。
だからこそ、当時から、ほんの偶然で(いわばその瞬間の大人たちの気まぐれで)自分が男の子のほうに入れられてしまったことに、何やらもやもやしていたものです。


◇◇



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