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「LGBT」「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

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「女の子にもオチンチンはある」話 [多様なセクシュアリティ]

「性別」の基準を「身体」に置こうとする考えは、いまだに根強いです。

それが誤りであることは、すでにさまざまな論者が述べていることなので、あらためて言うことでもありませんし、このブログ内でも、もうかなり以前に記事にしています。

 → 「ジェンダーとは何か?」をあらためて考える
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2014-07-28_gender


それでも「外性器こそが性別の核心だ」と信奉する人々は、なかなか多数派の地位を譲ってくれそうにありません。

外性器を基準にして人に男女いずれかの性別属性を割り振るのも社会的な営為であって、すなわち「身体性別とされているものも含めて、すべては《ジェンダー》だ」……というのは、そんなに受け入れがたいことなのでしょうかねぇ;

まぁ、このあたりは一筋縄ではいかないところなのでしょう。


 BL202017SexIsAwArGn.png
 (画像はイメージです。出典:いらすとや


しかし、そのデンで言うと、ワタシなんぞは相当に幼い頃から、私たちの日常生活における「性別」とされているものの本質は、身体ではなく、社会的・文化的な決まりごとのほうに重心があることを、直観的に見出していたほうなのかもしれません。

拙著『女が少年だったころ』を読みなおしても、幼少期から性別違和に起因するさまざまな理不尽に苛まれているものの、その多くは社会生活における周囲の他者との関係性のなかで生じるものです。

その一方で、身体に対する認識はといえば、「女の子にはオチンチンがないって本当!?」の項にあるとおり、男女の差異は身体に絶対の根拠が存するのではなく、社会的・文化的な約束事によって構成されているものなのだと理解していたわけです。

当該箇所を簡単に要約すれば、小学校の高学年になるまで「女の子にもオチンチンはある」と思っており、女の子が「立ちション」をできないのはパンツに小用のための穴が設けられていないせいであり、女の子がそういうパンツをはかないといけないのは、そういう決まりであるからだ、というロジックです。

ぃや、まさに後年におけるジュディス・バトラー的な意味あいでの「セックスは、つねにすでにジェンダー」を先取りしていた形だと言えるかもしれませんね。

……もしかしてコレ、ちょっと自慢してイイ!?

ともあれ、ワタシが性別移行をおこないトランスジェンダーとして生活するうえで、身体改造が必ずしも必須ではないと考えるようになっていったことには、こうしたことが重なりあって影響していたであろうことも想像に難くないでしょう。

このような、「女の子にもオチンチンはある」に端を発した、男女の差異はすべてが社会的・文化的な約束事である、すなわちジェンダーだという発想、コレにもう少し多くの人が賛同してくれれば、この世の中はもうちょっとラクになると思うのですが、さて、いかがでしょうか。


 


せっかくなので、佐倉智美著『女が少年だったころ』作品社刊 より、前述の箇所「女の子にはオチンチンがないって本当!?」の項のところを、以下に抄録しておきますノ

▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽

「女が少年だった頃」第1章・幼少のみぎり
<女の子にはオチンチンがないって本当?>

思春期の話に入る前に、もうひとつだけここで語っておくべきことがある。
(中略)
なんと私は、小学校の高学年になるまで、女の子にもオチンチンがあるものと思っていたのである。
たしかに、女性と男性とのちがいには身体的特徴も含まれることは、認識していなくはなかった。大人の女性のおっぱいなどはそのさいたるものだと言えるだろう。
しかし、オチンチンという決定的な外見的特徴があるということまでは、迂闊にも知らずに成長したのである。
小学校高学年になり、学校では性教育の一環として、第二次性徴や男女の内外性器の機能のちがいなどを習い、小学館の学習雑誌でも、そうした内容の記事が増え、そこで初めて「あれっ?」と思うまで、女の子にはオチンチンがないなんて、想像だにしなかったものだ。
当然、ここで疑問を抱かれる方も、おられるかもしれない。
例えば、女の子にもオチンチンがあると思っていたのなら、男の子にはできる立ちションが女の子にはできないことを、どのように理解していたのか。
じつは私はこれを、女の子のパンツには穴が開いていないためだと解釈していた。
女の子用のパンツには“ホース”を通すための穴が開いていないために、立ちション時には支障をきたしてしまう。
だからパンツをずり下げて、ああいう座った姿勢でしか用が足せないのだ。
逆に女の子だって、男の子用の穴の開いたパンツさえはけば、今日からでも立ちションができるわけである。
ではなぜ女の子は、穴の開いたパンツをはかないのか。
それは、それが“男の子用”だから。
女の子は“女の子用”のパンツをはくもので、それには穴なんて開いていないもの。
そして男の子がスカートをはけないのと、またパンツも穴の開いた男の子用しかはけないのと、あるいはその他いろいろある性別の決まりごとと同様に、女の子が男の子用のパンツをはくのはもってのほかのイケナイことで、してはならないこと。
そういうふうに、世の中の決まりが決まっている。そのため女の子は穴の開いたパンツははけないし、だから立ちションもできない。
そう思っていたのである。
これはけっこう深いものがある。
「性別」というものがいかなるものであるかについて、鋭いところを突いていると言ってもよい。
だいたい今の世の中の、男女の間の生態のちがいには、身体的な差異による以上の開きがある。
「男の子は元気に強く」
「女の子なんだからキチンとしなさい」
「女はもっとおしとやかに」
「男のくせに、もっとしっかりしたら?」
そんな世間の風潮の中で、誰もが暮らしているために、男女それぞれが必要以上の「男らしさ」「女らしさ」を身に付けていってしまうのだ。
ようするに、社会的・文化的な性別、つまり「ジェンダー」である。
女の子にもオチンチンがあると思っていたのは、たしかに間の抜けた話かもしれないが、見方を変えれば、男女のいろいろな性別によるちがいが、このように身体的差異よりも、むしろ社会的・文化的要因によるものだということを、私は幼いころから、本能的に感じとっていたということにもなる。
(中略)
考えてみよう。
生まれてきた赤ちゃんに、オチンチンがあれば男、なければ女、そういうふうに性別を判定してしまうのが、現行のシステムである。
だから判定に不服がある場合、それを覆すために、本人のオチンチンの部分を形成外科的に変えてしまうという方法がとられるわけである。一般に言うところの性転換手術を、“性別再判定手術”と呼ぶことがあるのも、そういった趣旨による。
でも、もうひとつ方法がないだろうか。
オチンチンの有無。そう、それによって性別を一方的に決めてしまう、その性別判定システム自体に変更を迫ることである。
「まちがっているのは、オチンチンではなく、それによって性別を決定するシステムのほうなのだ!」
オチンチンのひとつやふたつが、あったってなくったって、本人の希望するほうの性別が認定されるようになれば、話は早いではないか。
ともあれ私がこのような考えなのは、ふりかえってみると、どうもこの、小学校高学年まで女の子にもオチンチンがあるものと思っていたことと、深いつながりがあるのにちがいない。

△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△


………初出はメールマガジンの2000/11/30号だったということなので、なんとほぼ20年前の文章でしたワ;

あと、書き漏らしているようなのですが、それじゃぁ女の子か男の子かがどのように決定されるかについては、出生児に任意に振り分けられるんだと認識していましたね。
だからこそ、当時から、ほんの偶然で(いわばその瞬間の大人たちの気まぐれで)自分が男の子のほうに入れられてしまったことに、何やらもやもやしていたものです。


◇◇


クィアリーディングのその先の「もっと違う設定」 [多様なセクシュアリティ]

2019年の大晦日が例年どおり紅白歌合戦などとともに終わり、新しく始まった2020年。
そんなお正月気分もおおむね抜けた1月半ば、我が娘・満咲から、ちょっとしたタレコミ情報がもたらされました
(ちなみにその間に満咲さん、成人式を迎えたりしとります。早いものですワ;)

「ヒゲダンの『Pretender』ってクィアリーディングができるらしいデ!」

「え、ひげだん……!? る、ルネッサ~ンスっ!!」

「いゃぃゃぃや、ソレやのぅてw(ソレは「髭男爵」!)」

という、全国でも同じような親子のやり取りがおこなわれてるっぽいわりと普通の会話をいったん経た後、本題に入ります。

「Official髭男dism が紅白歌合戦でも歌ってた『Pretender』の歌、同性愛解釈がバッチリ上手いことハマるらしいん」

「ほほぉ!」

そうして満咲が示してくれたスマートフォンの画面にあったのは以下の記事。

 → Official髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解く
  ~JPOPと「クィア・リーディング」の可能性/現代ビジネス
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66965


なるほど。

今注目の人気バンド「Official髭男dism」の楽曲『Pretender』の歌詞は、ぼ~っと聞いていれば異性愛だと思い込んでしまえるところを、少しばかりもっと違う価値観を当てることによって、同性愛にも聞こえる、むしろ同性愛ゆえの切なさ等々を歌ったものだと解釈するほうが自然だとも思えてくる。

そこから敷衍して、さまざまなジャンルの作品群に対しても、異性愛を当然という「常識」とは異なる解釈コードを用いることで、読解の選択肢は広がって楽しみが増すばかりか、自分が無意識のうちにマイノリティの存在を無視し社会の差別構造に加担してしまう罠からも逃れられる……。

詳しくは、上記のリンク先にあるとおりなので、詳細はくり返しませんが、要はそういうコトですね。

これは、まったくそのとおりでしょう。

ワタシもこのブログでかねてより、楽曲の同性愛解釈については何度か記事にしてきました。

 → ★卒業ソングは本当に男女不平等!?
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2006-04-01

 → いきものがかり「春」に『M教師学園』巻末は【百合】だと叫ぶ
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2015-01-15_haru-maturity


「クィアリーディング」という言葉こそ使ったことはありませんが、これらの内容は今回の『Pretender』の件にダイレクトに連なっているものと言えるでしょう。

特に断りがなければ男女の異性愛なのが普通だといったヘテロノーマティヴィティに拘泥せず、多様なセクシュアリティ、多様な「好き」、それらが存在することこそが《「普通」》だというもっと違う設定に開眼するほうが、楽曲歌詞をはじめ各種の作品の解釈の幅を広げ、ひいては実際の生活におけるひとりひとりの可能性の拡大にもつながります。
因習的な「男女ルール」から脱却した先には、もっと違う関係性のバリエーションの豊穣が待っているのではないでしょうか。


 
 (Official髭男dism - Pretender[Official Video]YouTube

 → Official髭男dism Pretender 歌詞/Uta-Net
https://www.uta-net.com/song/266648/


「……でまぁ元の歌はこんなんやねん」

「なるほどな~♪」

そうして我が娘・満咲がそのままスマホで再生してくれた『Pretender』のミュージックビデオを見終わって、しかしワタシは感心すると同時に、妙に心がざわざわしました。

「もっと違う設定で もっと違う関係で
 出会える世界線 選べたらよかった
 もっと違う性格で もっと違う価値観で愛を伝えられたら…」

そんな歌詞(作詞:藤原聡)が、いわば私の心のどこかに抱えられたルサンチマンにものすごくピンポイントで刺さってきたのです。

もちろん、同性愛解釈と親和性が高いとされる歌詞。
セクシュアルマイノリティの1人として感情移入がスムーズなのは辻褄の合う話でしかありません。

ただ、ワタシの場合、若い頃の恋愛模様、青春時代の忘れ得ぬ出逢いをふり返ったとき、ストレートに同性愛な人から見ると、さらに1周半ほど捻れた厄介な事情にまみれていたのも事実なのではないでしょうか。


  

拙著『女が少年だったころ』や『女子高生になれなかった少年』を読んでいただいた方ならピンとくるかもしれませんが、ワタシの思春期の苦悩に影響した性別違和の諸要素のうち、大きな比重を占めていたのは「女性への親密欲求」をめぐるものです。

いわゆる「恋愛」と呼べるものも「友情」の範疇に収まると言えるものも、ともに「女性への親密欲求」であったワタシにとっては、すべてその成就を、当時の自身に割り当てられていた「男」というジェンダー属性のしがらみの中でめざさないといけない。

そがゆえに、個々の相手との関係性を、本来的には望ましいありようが個別に欲されているにもかかわらず、一律に「男と女の恋愛」モデルに落とし込んで設計せねばならず、そのズレがさまざまな軋轢や不整合を生じていたわけです。

モテるタイプでもないのにモテ願望に苛まれるという無理ゲー感をベースに、叶わない想いには劣等感や自己嫌悪に懊悩することにもなりました。

こうしたものが、好きな女の子への想いをめぐる煩悶の数々の背後にある真相だったわけです。

そんな中では、良い方策を求めて探した各種メディアの情報も、あるいは身近な人に相談して得られたアドバイスも、どこかワタシが実際に直面している困難とは適合しない、何ひとつとしてピンとこないものとなりがちでした。
『Pretender』の歌詞の「まるで飛行機の窓から見下ろした知らない街の夜景みたいだ」とは、今にして思えばまさしく言い得て妙な比喩でしょう。

そして
だからこそ、
もしも、当時からワタシが女の子でいられていた、そういう設定の世界線があったなら……、そんな仮想には心が動かされずにはおれないのでしょう。

『女が少年だったころ』の中学3年生編で描かれている「七森由紀子」と「山野和美」のどちらを選ぶべきかという葛藤は、つまるところワタシが当時から女の子なら3人で親友どうしというところへ落ち着けたはずです。
後の「山野和美」との辛い別れもまた、結局は「男と女で付き合う」という形をとってしまったがゆえの悲劇だと言えます。

「情報通信工科大学付属高校」に進学後の女子がいない環境についても、その当時は「山野和美」と付き合っている形であったにもかかわらず、その不満足感から逃れられないのは、やはり幅広い親交を女子と深めたい欲求であり、そして仮に周りに男子しかいない環境であっても、逆に自分自身が女子ならうまくやっていけたのではないかとは、当時から漠然と自覚していなくもありませんでした。

公立で男女共学の「岩船高校」に舞台を移した『女子高生になれなかった少年』の記述をひもといても、2年生のときのクラスメートとして出会った「瓜野幸子」とは擬似的に女の子どうしの友情のような関係性が紡げたのはむしろ奇跡的な僥倖だったでしょう。

1年生で出会った「岡島麻裕美」の少し影のある魅力に対しては、今からふり返ってもかなりガッツリ「恋に落ちて」いたと思えますが、彼女に何らかの同性愛傾向があったこともまた間違いないでしょう。
当時のワタシが男子であったために、彼女と恋愛関係を深めていく可能性が最初からオミットされていたのだとしたら残念です。
彼女と女どうしで恋人になれた世界線、そんな if は今でも渇望されるところです。

そして3年生のときの運命の出会い「春風桃子」。
ワタシが「告白」してフラれるときの彼女のセリフからは、今日のLGBT用語で言えば(?)彼女にAセクシュアルの傾向があるようにも読み取れます。
しかし、であるならば、例えば「優しい先輩と可愛い後輩」のような関係性のまま親交の密度を上げていくというような道もあったはずなのです。
なのに、それもまたワタシが「男である」という性別属性に基づいた関係性ルールの適用によって妨げられていたのは、少なくともワタシにとっては大きな損失だったと言えますが、さて彼女にとってはどうだったのでしょう。やはり君の運命の人は僕じゃなかったのでしょうか。

この、けっこうイイ感じに仲良くなれたのに相手にどうやらAセクシュアル傾向があるという事情でワタシが告白したらフラれてしまうという展開は、大学4年生編で登場する「若草萌子」との間でもリプライズされます。

思えばワタシが好きになり、かつ相応に波長が合って距離が縮められる相手というのは、なにがしかのクィアネスを抱えた相手ばかりだったということになるのかもしれません。
だとするとワタシが「男として彼女と恋人関係になる」を実現することには絶望的な不可能性があったわけです。

反対にワタシに好意を抱いてくる相手、例えば高校2年生編での後輩「山田和子」や「萩原規世子」先輩はお断りせざるを得なかったのは、タイミングもさることながら、やはり「男として好きになられる」ことへの無意識の拒絶感だったと分析することもできるでしょう。
その後々、幸いにも交際に至りカレシとカノジョという関係になれた相手とも、しだいに綻びが生じ、最終的にはうまくいかなくなるのは、事情は同様だったと考えられます。
自分を異性として好きになってくれる異性とは上手くいかない運命にある。そんな、まるでクリアできないゲームのようなバグは、結局はプログラムの前提を書き換えることでしか解消できなかったのもうなずけます。

大学で同じゼミだった「妹尾梨花」「夏目柚子」「森下春菜」らとは、幸いにも擬似的な女どうしのノリで交流できた仲なのですが、もしかしたら彼女たちは、ともに究めた社会学の知見をもとに、ワタシの人間関係はワタシのジェンダー属性が女であったほうがいろいろスムーズだという真相を、当時すでに見抜いていたのかもしれません。

あるいは……、
ワタシのジェンダー属性が当時からすでに女であったなら、という if に依拠しないとしたら、もうひとつの視角は「男女ルール」の見直しです。

もしも当時から、恋愛は男女でなくてもイイ、男女だからって恋愛でなくてもイイ、そう考えることができていたら。
なにも恋人としての交際が一対一でなくてもかまわない、すなわちポリアモリー的な考え方が獲得されていたら。
そもそも誰がどんなふうに男であったり女であったり、あるいは女や男でなくったってイイ……。

そういう、「誰が男で誰が女なのかは変更できない設定として決められており、そしてその男と女が一対一で恋人関係になることこそが唯一にして至高の関係性なのだ」ではない、まさに、もっと違う価値観でなら、因習を打破した、広い意味での、愛を伝え合うことが、個別の関係性においてできたのかもしれない。

そんな世界線もまた、どこかにあったかもしれないのに、と思えると、悔恨の念もここに極まるところでありましょう。


 →「男女間の友情は成り立つか?」2015
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2015-12-21_friend2015


 → 奥華子「夕立」の歌詞の意味はソレでいい?
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2016-07-08_YdLyc


ちなみに、これら「もっと違う設定」「もっと違う価値観」に寄り添った人間関係については、現在は我が娘・満咲によって、親が果たせなかった実践が試みられる形になっています。
上記リンク先のひとつめには、その片鱗が示されていますし、ふたつめはそうした満咲の実践をふまえて奥華子の楽曲歌詞を再々解釈してみたものです。


というわけで、
このように Official髭男dism の『Pretender』から、ワタシの過去の親密欲求をめぐる複雑な困難や、それを超克した先にある、別のモデルが展望できました。

かように「クィアリーディング」には大いなる可能性が秘められています。

とりあえず初心者レベルでは「同性愛解釈もできるデ!!」から始めるのも順当ではありますが、その水準のその先を究めたいという方は、このように、より深くより複雑に捻くれた「好きの多様性」をも念頭に置いていただくのもよいのではないでしょうか。

このような試みは、必ずや、これからの時代の人と人とのよりよい繋がりの形にルネサンスをもたらすものだと確信できます。


  


「………とまぁ、ざっとこんなあたりが言えるんやないかな」

「なるほどー」

「ところでさぁ、『Pretender』の歌詞の主人公(画像左側)の想う相手が、本当にMVのコノ人(画像右側)なんだとしたら……」

「……たら??」

「コノ人の髪、本当に触ったらチクチクして痛そう」

「は?」

「つまり《その髪に触れただけで痛いや(物理)》www」

「誰がそんなオチをつけろと;」

「ちゃんちゃんノ」

 BL20200124.JPG
 ※画像は公式MVよりキャプチャ

◇◇


トランスジェンダー女子大生がひらく未来への扉 [多様なセクシュアリティ]

「…おはようございます。佐倉智美 著・小説『1999年の子どもたち』登場人物の栗林理素奈です。ふぁ~」

「ぅう~ん……やっぱ、みんなで鍋パーティ、からのオールナイト明けはちょっとツラいねぇ。ということで同じく『1999年の子どもたち』外伝パート登場人物の石橋海素浦です~ノ」

「同じく『1999年の子どもたち』の外伝パートの登場人物、風屋光です。…てか、作中では今朝は神戸の街にも雪が積もってるはずだったんだけど、現実世界では今年も暖冬気味でそうはなってないんだね(いちおー雨なら降ってたけど;)」

「みんなおはよー; …同じく『1999年の子どもたち』登場人物、園田梓です。……昨夜はみんなの話が聞けて、リソナちゃんの高校時代の出来事とか、私達の意外なつながりがわかったりしてヨカッt………むにゃzzz」

「おっと、ここへ来てアヅサちゃんに《寝起きが悪い》設定が追加ですと」

「まぁまぁミズホちゃん、眠いのは確かだし、もうちょっと寝かせといてあげようよ。アヅサちゃんもこれから警察に行ったりいろいろ大変だろうし…」

「そうだね……。そういえば現実世界ではこの西暦2019年の12月、注目を集めた性暴力事件の裁判の結果が出たけど」

[参考]
伊藤詩織さんの「勝訴」になぜ世界は騒ぐのか
日本人に感じる当事者意識の低さ
(東洋経済オンライン) https://toyokeizai.net/articles/-/321942


「ヒカリちゃんが言うとおり、作中の私たちから見るとタイムリーだよぉ。作者もまさか現実の西暦2019年12月にこういう話題が出るとわかって入れたエピソードではないんだろうけどさ」

「でも作中の当該翌日のリソナちゃんの対応は、なかなか行き届いてたって、巷で評判だよね」

「うーん、そだね。
 いちおう
*本人を責めない。「あなたは悪くない」
*とにかく本人の気持ちを受け止める
*速やかな受診と事後避妊薬・アフターピルの処方を提案
*しばらくしっかり見守る・寄り添う
*専門の相談機関なども紹介する
 ……あたりは心がけたつもりなんだけど」

「ぃやさコレなら神ってたと評価してもよい水準だよぉ。さすがリソナ」

「おだてても何も出ないよ; あ、アフターピルの効果を考えるとリミットは72時間以内ね」

「ともあれ女性として生活してると、性加害を被る心配は身近な実感として、確実に男性のときよりも大きいよ…」

「そういう不安のない社会にしていくことが期待されますなぁ、皆の衆」

「でもヒカリちゃん的には、だからと言って何でもかんでも《男女別》で運用されるのが、逆にストレスになったりもするよね」

「……そのへんの話は昨冬にも私が風邪ひいてるときにしてたんだよね?」

 → 女性用トイレを使える人が女性なのである
 https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2019-01-26_RelationMtF


「そういえばこのトランスジェンダー女性の女性用トイレ使用についても、やっぱり現実の西暦2019年の12月には、ひとつ裁判の結果が報じられて話題になってたね」

[参考]
「LGBT配慮はもはや先進的ではない」。
経産省のトイレ使用制限問題、性同一性障害の女性職員が国に勝訴(判決詳報)
The Huffington Post Japan https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5df1fd73e4b01e0f295a4b15

「うん、この報道には私も勇気づけられた。自分も間違ってなかったんだって、あらためて思えた」

「いゃぃや、この判決内容っていろいろ優れてますゾ。てゆーより、なんか私たちの作中よりも現実が一歩先へ進んだ感;」

「だから私も微力ながらこの時代を生きるトランスジェンダー女子大生のひとりとして、いろいろ実践を続けていきたい。たくさんの扉を開けて、新しい未来を拓いていきたい。それが自分にとっても心地良い世界につながるだろうし、さらには次の世代をエンパワーすることにもなると思うから」

「スバラシイ心意気ですゾ、ヒカリちゃん。……それに我が六麓女子大学でも作者が初出執筆時に考えてた以上に《LGBTに理解がある》子は増えてますゾよノ だからヒカリちゃんのトイレや、さらには更衣室とかも、もうウェルカムなのがスタンダードになってきてるというか……。ね、リソナ?」

「そうだね。……で、そのうえで《何でもヤミクモに男女で分けるという措置が、逆に男女で分けることが望まれるような社会状況を作り出す原因になってしまう》という視点も、もうちょっとメジャーにしていかないとねぇ」

「男女各々の生活実感を分断し、相互理解を妨げ、さらには男性から女性への誤った性的アプローチが跋扈する現状も、主因はソコにある……等々含めて、そのへんは佐倉先生がだいぶ前から訴えておられるのに……」

 →「男と女は違うから別々に取り扱えばよい」…で本当にいいの!?
 https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2014-12-18_GenSeg


「リアル満咲ちゃんがまだ高校受験の最中の記事かぁ;」

「でも、このあたりと連なる事案、つい先日も作者、ツイッターで何か言ってたよね」

「……コレかな」




「ぁぁあ、『それなっノ』って感じ」

「まさしく『それなっノ』」

「それなっノ」

「あっアヅサちゃんが起きた」

「………ぅん、それでさ、六麓大学に行ってる友達が【性別とは、互いに相手をどう認識し、その解釈に基づいていかにふるまいあうかという、社会的相互行為というコミュニケーションの場で有効化されているにすぎない。いわば性別とは個々人の身体や、あまつさえ心の中ではなく、人と人の間にしかないものなんだ……みたいなことをジェンダー論の授業で習った】って言ってたナ」

「…ってか今年もやっぱり、その授業の担当の先生って、もしや作者なのでは!?」

「あと【「身体は現実世界用のアバターだ」とかいろいろ印象深かった】らしいよ。それから、授業の途中でアニメを抜粋した動画とか見せられたらしい。名探偵じゃないほうのコナンとかプリパなんとかとか…」

「……だからやっぱり作者じゃんw」

「佐倉先生、新刊の執筆の進行にともなって、去年までの授業内容と比べて新刊の内容を大量に先行投入してバージョンアップしてはるみたいだね」

「作者の《新刊》ねぇ…、でもソレいったいいつ出るんだか」

「ソコが問題だね;」

「できたら私の卒論の参考文献にするのに間に合うように出版されてほしい」

「作者ぁ、聞いてるか~!?w」

「ちなみにリアル満咲チャンも同様に卒論の参考文献にしたいからって、昨今は作者をせっついているとか……」

「リアル満咲チャンも社会学系の学部なんだよね。会いたいなぁ」

「それで、卒論といえば、私たち4人とも3年生の来年度から同じゼミ……って設定だったよね」

「そうそう、いわゆる《クサレ縁》なのですゾよw」

「うんwww、でも嬉しい」

「私も嬉しい。みんな本当に……これからもヨロシク」

「……というわけで、小説『1999年の子どもたち』の最後のリアルタイムな西暦2019年の12月ももう過ぎるということで、私たちももう自由の身なのね。肩の荷が降りたような、ちょっと寂しいような」

「もう今後はこんな形でのブログ出演はないのかな??」

「たぶんないんじゃない? たぶん…」

「ギャラよこせ~っ」

「これからは作中から現実世界の進展を見守ることになるのね」

「さしあたり来年・西暦2020年は東京オリンピック。訪日する諸外国の人たちにも誇れるような社会状況にしておけるといいよね」

「そうだよねー………って、待ってリソナちゃん!! 私たちの世界観では来年・西暦2020年のオリンピックはイスタンブールだよっ!」

「そうだった;」

「そういや、あれってなんでなん??」

「まぁざっくり言うと作者は《大規模イベントを開催して経済効果って発想自体が古い。もっと生活者の視点でのさまざまな小回りが利いた施策こそが望まれる》というスタンスなので東京オリンピックや大阪万博には批判的だってことらしい」

「なるほど~」

「……というわけで」

「この機会に小説『1999年の子どもたち』を読んでみようという方は、まずは第7巻収録のこの《外伝3》から」

「次いで本編はいきなり第4巻を読むというのが作者のオススメです」

「それでは皆さま」

「また作中でお会いしましょうノ」


  
◇◇


「……で、関係ないけどヒカリちゃんってさぁ」

「ん?」

「かつて男の子のときは《ひかる》だったって設定あるでしょ」

「うん。女の子に性別移行するにあたって読み方を《ひかり》にしようと思ったんだ」

「まぁ戸籍には読み方は登録されてないから《光》をどう読むかは、せいぜい住民票のフリガナ欄の訂正だけでできるもんね」

「子どもの頃、親に隠れて観てた『ふたりはプリキュア Max Heart』でシャイニールミナスに変身するのがひかりちゃんだったから、ちょっと憧れたし、それでなんとなく女の子だったら《ひかる》じゃなくて《ひかり》だよなぁって思い込んだってのもあるかも」

「なるほど。……でも、ちなみに今年度にやってる『スター☆トゥインクル プリキュア』の主人公は[ひかる]やデ(※画像は放送画面からキャプチャ)

「……なかなかいみじい話やねぇ」

「う゛~ん; 生まれるのが16年早かったかなぁ」

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◇◇


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