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「LGBT」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論、「アニメとジェンダー」など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

ヒーリングっどプリキュア、ケアの倫理の意義のその先に踏み込む [メディア・家族・教育等とジェンダー]

◇◇

キュアグレース「ダルイゼン! わたしは
   やっぱりアナタを助ける気にはなれない!!」
視聴者「…あっ、今年はそうなんだ!?」

◇◇
今日のアニメ(等 ←実写もあるので)作品における「変身少女ヒーロー」もののフラッグシップであると言えるプリキュアシリーズについては、積年にわたってこの場でも言及してきました
(※同義の言葉として、「変身ヒロイン」「戦闘美少女」「ガールヒーロー」といったワードは存在し、あまつさえ「魔法少女」にこの意味を充てる用法までが世間にはありますが、いずれも何らかの適切性を欠くと考えられ、特に「ヒロイン」の語には各種のジェンダーバイアスが紐付いているので、ワタシは近年はこの「変身少女ヒーロー」を用いるようにしています)

直近では2019年度に放映された『スター☆トゥインクル プリキュア』について、以下などにて論評しています。

 → プリキュアが宇宙へ進出する意味を探ると顕になる多様性の真髄
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2019-02-02_StarPrecure

 → ウルトラマンがプリキュアとカブる令和
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2020-02-01_CosmicSign


また、2018年度の作品である『HUGっと!プリキュア』に関しては、こちらで総括しました。

 → 輝く未来を抱きしめた「HUGっと!プリキュア」が拓く新時代
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2019-01-27_HugPrecure

◇◇
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 (画像は公式媒体・画面からキャプチャ。以下同様)

さて、これらを受け継いだ2020年度の『ヒーリングっど [正式表記はココにハートマーク(以下同様)] プリキュア』も、このたび、2021年2月21日に最終回を迎えました。
今作は、はたしていかがな具合だったのでしょうか。

『ヒーリングっど プリキュア』の作中設定では、プリキュアは「地球のお医者さん」とされ、地球を蝕み環境を改変しようとする敵「ビョーゲンズ」の魔の手による被害からみんなを守って戦う存在だと位置づけられました。

したがって、今作のモチーフは基本的には「お医者さん」であり、敵モンスター出現への対処は「地球を《お手当》」と呼ばれ、必殺技で敵モンスターを浄化した後の決めゼリフが「お大事に」だったりしました。
実際のところ、スポンサーが玩具化もするところの各種アイテムは、聴診器や注射器の表象をアレンジしたものとなっていたりもしました。

おそらくは、制作陣が熟考した末に「地球の」という若干ふわっとした設定になったものの、元は今作では子どもたちの「お医者さん」ごっこの欲求にコミットして製品をアピールしようといったバンダイの思惑が出発点になっているのかなと想像できます。

敵の設定が、「ビョーゲンズ」という名称から伺えるように《病原》のイメージを反映したものになっているのも、そのからみでしょう。

 →朝日放送「ヒーリングっど プリキュア」公式サイト
https://www.asahi.co.jp/precure/healingood/

 →東映アニメーション「ヒーリングっど プリキュア」公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/healingood_precure/


………なので、なんというかかんというか、あくまでも偶然の符合なのでしょうが、奇しくも2020年度の時事的な社会情勢・新型コロナウィルス感染症[ COVID-19 ]の世界的な流行という事態と、そこはかとない連関を醸し出してしまうこととなってしまいました。

現実の時世とリンクするというのは、場合によっては相乗効果でオイシイこともあるのですが、しかし今般は、事柄が事柄だけに、あまり幸運だとは言えなかったでしょう。

マジ、「お医者さん」に「地球の」を冠せずに、「ビョーゲンズ」の設定ももっとガチな細菌・ウイルス寄りにしちゃってたりしたら、最悪、放送中止を余儀なくされるところだったかもしれません。

そうでなくても、春先の緊急事態宣言などのあおりで劇場版の公開が延期されたり、Stay Home が推奨される中ではステージイベントが思うに任せない、ひいては玩具・関連商品の売上も伸び悩むなど、番組としての商業展開は苦戦を強いられたようです。

加えて、作品の制作現場でも感染対策を徹底した態勢を整える必要から、制作が一時ストップ。
他のアニメ、さらには他のドラマ等々までもがそうであったのと同様、およそ2ヶ月ほどの間、再放送でしのがざるを得ないことにもなりました。
結果、多少の調整はされたものの、当初予定よりは総話数が短縮。
そのため終盤のストーリーが、やや駆け足となってしまい、ちょっと説明不足な展開に陥ってしまったきらいもなきにしもあらず。

しかし、そんな現実世界の逆風にも、作中のプリキュアは負けませんでした。

決して諦めずに、「すこやかに生きる」とはどういうことかを追求し、そうやって過ごす毎日こそが、未来における宝物になるんだという信念。
それを脅かす敵には敢然と立ち向かうその姿。
これらは、感染対策に追われる不慣れな日常の困難に苛まれがちな視聴者を励まし、勇気づけるものでもあったでしょう。

このコロナ情勢の中だったからこそ、『ヒーリングっど プリキュア』からのメッセージが、より鮮明に浮かび上がったという側面も、大いにあったはずです。
ありがとう、ヒーリングっど プリキュア!

  
◇◇
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さて、そんな『ヒーリングっど プリキュア』ですが、話数短縮を受けてかやや駆け足気味で進んでいた最終決戦を控えた終盤、ちょっと物議を醸す展開があったのです。

それが第41話のラストから第42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」にかけての主人公・花寺のどかの選択。

いわゆる「敵幹部」のひとりダルイゼンは、ラスボスである敵の親玉から「貴様も我に吸収されて、我の最終形態への進化の糧となれ!」のようなことを告げられ、激しく動揺します。

嫌だ。
要は自分は消滅してしまうわけですし、つまりは自分の存在意義が単にラスボスの都合のためだけだったことになってしまいます。

人間ならば、そう思うのも当然なところです。

そこでダルイゼンは命からがら脱走。
いつもはラスボスの目的にしたがってモンスターを生成し自分たちに都合のよい環境改変を期して蝕むために訪れる人間界まで逃れてきます。

そうしてはちあわせる花寺のどか。

本作のメインのプリキュアであるキュアグレースへの変身者でもあり、第1話以来、自身が生成したモンスターを尽く浄化される中でさまざまな応酬もあった因縁の相手であります。

ダルイゼンは言います。

助けてくれ。
お前の体内に俺を匿ってくれ。
そうすれば親玉から隠れて、その間に体力の回復もできる……。

そう。
ビョーゲンズはその性質として、人体の中に入り込むことができ、そうすることで力を強めるのです。
しかし、その間は、その入られた人のほうは体調を崩して苦しむことになります。

まさしく「病原」。
実在の細菌やウイルスの性質が、そこに反映されているわけですね。

しかもダルイゼンが幼体だったときに、成長・成熟のために寄生していた人体が、他ならぬ花寺のどかだったという因縁も、中盤過ぎの話数で明かされていました
(その意味でも、ここで体内に匿ってもらう相手として、花寺のどかの身体は「相性がよい」ことになるとも説明されました)。

それゆえに一時期ののどかは、原因不明の体調不良で苦しみ、長らくの入院生活を強いられたということも。

そんなこんなで、
傷つき苦しそうにしながら、のどかに命乞いをするダルイゼン。

しかし、しばしの葛藤の末、花寺のどか/キュアグレースは、これを拒絶します。

それで元気になったらどうするの。
もう悪いことはしないのか。
今までさんざん地球を蝕み人々を困らせてきたことを反省してはいないのではないか。
あなたのせいで以前に自分がどれほど苦しかったか、わかっているのか。
自分はあなたの道具じゃないんだから、都合のいいときだけ利用しないで。
わたしの心も体も、全部わたしのもの!

……かくして、このように毅然と言い放つ花寺のどか/キュアグレースと、その仲間のプリキュアたちが放つ必殺技によって、ダルイゼンは浄化されていったのでした。

が、ここで少なくない視聴者が、若干の違和感を禁じ得ないこととなりました。

「あ゛っ!? 今年は、ここで敵方を助けないのか!」

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プリキュアの戦いが、形式的な正義のみに従うのではなく、むしろ自分たちの平穏な日常の幸福を重んじ、誰もが満たされて暮らせる毎日をこそ守るものであることは、今ではプリキュアシリーズの伝統と言ってもよいでしょう。

こうした価値基準のもとでは、敵ともときに対話し、敵方が悪事に傾く理由や、その背景となった苦悩にも思いを致し、そうして誰も犠牲にしない解決策を模索することも、しばしば見られました。

したがって、敵幹部も救済されたうえで改心に至るケースも珍しくなかったですし、ときには改心した敵幹部がプリキュアの新メンバーになることも何度かありました。
ラスボスについては、文字どおり「諸悪の根源」として打倒される場合もありますが、こちらも救済されたり、和解に至ったりするような結末が、シリーズ中の複数作で見られます。

こうしたプリキュアの姿勢が、かつてキャロル・ギリガンが提唱した「ケアの倫理」に則ったものであることは、すでに別記事にて指摘済みです。
そのひとつの到達点が『HUGっと!プリキュア』での「必要なのは剣じゃない」だったことも、すでにまとめたとおりです。

 → ロボットに乗って戦うプリキュアが明らかにした「ケアの倫理」の意義
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2012-10-09_lag-rin_care-cure

 → 正義の怒りをぶつけろガンダム!? からの「必要なのは剣じゃない」
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2019-04-27_Gundam40J


では、翻って『ヒーリングっど プリキュア』は、この方針を転換し、「ケアの倫理」を志向しない方向に舵を切ったというのでしょうか?

第42話を表面的に眺めただけなら、そう解することもできなくはありません。

しかし、例えば第1話での、花寺のどかが初めてキュアグレースとなるくだりを見ても、敵の襲来で大変な状況になっていることをなんとかしたい・自分にできることがあるなら力になりたいという強い思いに立脚していて、従来作と明確にコンセプトが異なるようにはなっていません。

その後も、花寺のどか/キュアグレースの行動原理は[みんなの日常を守りたい][困っている人がいたら助けたい]などからブレることはありません。

そのあたりに鑑みると、『ヒーリングっど プリキュア』の戦いもまた「ケアの倫理」に該当するところから外れてはいないのです。

では、なぜ『ヒーリングっど プリキュア』第42話では、助けを乞うてきた相手に手を差し伸べるという《相手をケアする》行動を取らない描写が選ばれたのでしょうか?

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思えば、キャロル・ギリガンによる、その要諦を収めた著書『もうひとつの声』の出版(Gilligan,Carol,1982,In a Different Voice: Psychological Theory and Woman’s Development, Cambridge Mass.:Harvard University Press)直後から「ケアの倫理」に対しては、賛否両論がありました。

長くなりすぎるので逐一は拾えませんが、思い切り簡潔に要約するなら次のようになるでしょうか。
それまでいわゆる男性社会の尺度で一段低いものと位置づけられてきた女性性に、対等なオルタナティブとしての見方を示すことは、ある種の女性のアイデンティティの安定をもたらし、女性のエンパワーメントに資するものだというのが肯定的な受け止めのポイント。
一方で否定的な意見としては、「ケアの倫理」を志向する姿勢が女性の本質的な性質のようにミスリードされる、女性の特性として「ケアの倫理」があるという言説が専ら女性にケア役割・ケア労働を割り当てる根拠として悪用されるおそれがある、といったところが代表的な主旨だったでしょう。
日本でも例えば上野千鶴子らは概ねこうした立場から「ケアの倫理」には懐疑的なスタンスだと言えます(上野千鶴子,2011,『ケアの社会学 当事者主権の福祉社会へ』太田出版 など)

当然に「ケアの倫理」を「女性という性別の生得的・本質的な特性だ」と位置づけるのは明確な誤りであり、そうした誤りに依拠して女性のケア役割・ケア労働への従事を称賛することが非常に危険な主張であるのは言うまでもありません。

女性社会では(男性社会の「正義の倫理」とは異なる)「ケアの倫理」という行動理念が基底に置かれるとしても、それはすなわち、相手にかしずき、癒やし、愛おしみ、奉仕し尽くす……といったケア役割を果たすことが、女性に期待されるジェンダーロールだったがゆえに、女性ジェンダーに置かれた人々が結果としてそれに適合的に社会化されてきたことに由来するという理由が非常に大きいだろうという視点は、決して外すべきではないです。

家事、育児、看護、介護……。
「これらは女性のほうが男性よりも得意だから、女性がおこなうに相応しい、女性が取り組むべきものである」と措定されたケア役割・ケア労働の具体例は枚挙にいとまがありません。
そうした風潮の結果として女性社会に涵養された「ケアの倫理」が、たとえ「正義の倫理」が主流化される趨勢へのカウンターとして意義を持つものだとしても、片や性別属性を自明のものとしてジェンダー役割を押し付けるのは不当であり、深刻な人権侵害であるのだという告発もまた重要です。むしろ両者は相補的に両立するものでもあるでしょう。

そして、この点に鑑みるなら、プリキュアが常に「ケアの倫理」で戦うものであるべきだという決めつけも、良くないものであるのは必然です。

変身して戦うのが女の子だというプリキュアの変身ヒーローものとしての特長が、「ケアの倫理」に則った戦いを描くことと相性が良かったというのは、ひとつあったかもしれません。
しかし今日では他のヒーローもの、戦隊や仮面ライダー、ウルトラマンに至っても、ある種の「ケアの倫理」的な行動理念を採用することは珍しくない現状です
(『新幹線変形ロボ シンカリオン』において、主人公陣営とコミュニケーションを重ねることで敵方の立場に疑念を生じた「敵幹部」の「少年」セイリュウの、さらなる改心への契機として描かれたのが「いっしょにケーキを食べること」だったのが、きわめて『キラキラ☆プリキュアアラモード』的だったことも、象徴的な一例として挙げられるでしょうか。……というかセイリュウまわりのエピソードは全体として『フレッシュプリキュア!』でやはり当初は敵幹部として登場し後に主人公らとの交流を経てプリキュアの仲間になった登場人物・イースと同じ文法でつくられていたと言えましょう。そもそも「セイリュウ」という名前のモチーフは《青龍》なので方角は[東]、フレッシュプリキュアのイースも[ east ]から来てるので、制作側がかなり意識的に参照していた可能性も想像できます。他の敵幹部仲間もそれぞれ[朱雀][玄武]や[ west ][ south ]を元にした方角に関係した名前になってるのが共通していたりも;
そのように現に「男女区分」も揺らいでいる中で、仮に逆にプリキュアシリーズが「ケアの倫理」に依らない物語を提示したとしても、そのことにより従来にはなかった画期的な何かを描けるのだとしたら、決してそれ自体は非難されるべき筋合いのものではないはずです。

加えて、たとえ「ケアの倫理」を行動理念とするにしても、それは不当で一方的な要求を拒むこととも両立するものです。

過大なケア役割の要望を甘受することで自己犠牲をも厭わないというのは、決して健全なありようではないでしょう。
誰も傷つかずに、全員の不利益が最小になるようにと、問題解決の方向性を探るのが「ケアの倫理」の勘所なのだとしたら、自分自身をもまた大切にすることはゆるがせにはできないところです。

となると、『ヒーリングっど プリキュア』第41~42話でのダルイゼンの要求は、自身の回復のために必要なケアを求めるということを、それまでの悪行を反省することもなく、花寺のどか側のみに過度の負担を強いるカタチでおこなっているという、相当に自己中心的なものなので、ここをうっかり一見するとかわいそうだからと助けてしまうのも不適切な選択になってしまうでしょう
そこをしっかり読み取るなら、突っぱねるのは妥当な判断だったと評価できることになります。

現実には、このときのダルイゼンのようなノリで都合のよいときだけカノジョにたかる「DVカレシ」の存在もしばしば話題になります
(朝日放送&東映アニメーション的にはプリキュアシリーズの先輩にあたる『おジャ魔女どれみ』シリーズの、その大人向け劇場版スピンオフ映画として2020年に公開された『魔女見習いをさがして』作中では、ズバリそういう「DVカレシ」事例が登場したりもしました)

あるいは「お前の中に俺を入れてくれ」という趣旨のダルイゼンの要求は、暗に(少なくとも大人が連想するに)性行為の承諾を迫っている様子のメタファーだとも受け取れます。

であるならば、これらを毅然として拒否する姿を描いておくことも、プリキュアのストーリーとして重要な役目だということになります。

(子ども向けヒーローものの男女区分は揺らいできているとはいえ、いちおうは番組のマーケティングとして)女児向けで制作されている作品であればこそ、その視聴者である女の子が将来直面するであろう、ケア役割の「不当な要求」、それを不本意のうちに受諾するのではなく、断固として突っぱねる、そのモデルケースを描いて見せておく意義ははかりしれないでしょう。

「都合のいいときだけ利用しないで」
「わたしの心も体も、全部わたしのもの」
このようなセリフは、まさにそういったケースで求められる語彙でもあったでしょう。

そうした観点から第41~42話の花寺のどか/キュアグレースの姿勢を賞賛評価する声、これが少なくなかったのも事実なようです。

いうなれば『ヒーリングっど プリキュア』は今般、プリキュアの戦いが「ケアの倫理」に立脚している点が相応に肯定的に認知度が上がっていることをふまえたうえで、その先で起こりうるミスリードに備えて、必要な注釈を提示して見せることへと、一歩踏み込んだ、そういうことなのではないでしょうか。

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とはいえ、近年では敵幹部とも和解を経てラスボスへの対処に共闘したり、ラスボス自体とも一定の対話の後に共存が模索されるようなことも続いてきたプリキュアシリーズ
(繰り返しになりますが、前述の『シンカリオン』の例をはじめ、各種「男の子アニメ(特撮含む)」にもそれは広がり、むしろ主流化しているとも言えます)。

『ヒーリングっど』での、そんなスタンスとは距離を取ったかに見える展開には、違和感を覚え、戸惑う視聴者もまた大勢いたと思われます。
特にビョーゲンズ3幹部のストーリー上の処遇については、スッキリしない後味の悪さを感じている視聴者の声も、ネット上には目立ちました。

これについては、どのように腑に落とせばいいのでしょうか?

たしかにビョーゲンズが「病原」モチーフであるとしたら、それは人類とは共存不可能です。

新型コロナウイルス対策で各種施設の入口などに設置されたアルコール剤で手を消毒するときに、何か後ろめたさを感じて躊躇するなんてことは、そうそうないでしょう。
「菌やウイルスがかわいそうだ」などと感染を受忍してしまう人がいたとしたら、公衆衛生の観点からは困ったことです。

その点ではビョーゲンズ陣営に対しては逡巡も葛藤も必要ないという理屈は、いちおう通ります。
躊躇なく浄化するに異論はないという建前は盤石なのです。

実際『ヒーリングっど』作中でも、ビョーゲンズ陣営は、ただ単にそうするのがあたりまえだからといわんばかりの理由で地球を蝕んでしました。

シリーズの他作品のように、敵方にも何らかの義があったり、敵キャラがいろいろな斟酌されるべき事情を抱えていたり、敵幹部といえどもラスボスに唆されて真実を誤認していただけなんてこともありませんでした。

なので「和解フラグ」も、どこにも立ちようがなかったのです。
落ち着いて各話を追っていくと、描写はきちんとそうなっているのです。

であるからして、『ヒーリングっど プリキュア』の作劇上の瑕疵が、もし何かあったのだとしたら、やはり話数短縮の影響でクライマックスの展開がやや駆け足を強いられたことで、終盤の描写が多少は説明不足になったということになるでしょうか。

新型コロナ情勢を受けて、何か時世柄なまなましく感じられてしまうような内容を避けたストーリー変更も、もしかしたらあったのかもしれないというのも、部外者の推測のレベルではありうる説かもしれません。

そのうえで、ビョーゲンズ陣営を躊躇なく殲滅すべき対象として描くのであれば、まずもって、もう少し無機質な無生物的な存在にしておくべきだったのではないか……ということも言えてきます。

実際、花寺のどか/キュアグレースと同じく悠木碧が担当声優だった『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズの主人公・立花響の、変身少女ヒーローとして直接の戦う敵であった「ノイズ」が、本当に本能のままただ単に人を襲う怪物であり、作中の公的機関からは「認定特異災害」と呼ばれていたように、意思も人格もないある種の災害のような存在であれば、容赦なく排除したとしても、特段の感情が視聴者に生ずることも稀でしょう。

しかしビョーゲンズ3幹部については、それぞれダルイゼンの他、シンドイーネやグアイワルといった個性的な名前が付けられ、意思と人格を持った、視聴者視点から見れば、なかなかの愛嬌もある魅力的なキャラクターとなっていましたから、容赦のない退場が惜しまれることも、自然なことです。

主人公サイドと言葉を交わし、互いの主張の応酬をつうじてドラマも深まるので、「擬人化」は作劇上必要とはいえ、そこに視聴者が感情移入するとっかかりとなるスパイクも発生してしまうと、退場に工夫が必要となってくるのは、制作側としては難しい悩みどころかもしれないですね。

『戦姫絶唱シンフォギア』シリーズでも、いわゆる雑魚敵の「ノイズ」とは別に登場する、ノイズを使役して何かを策謀している立場のキャラクターに対しては、立花響はその真意を慮り、相互理解を模索し、なんとか手を繋ごうと腕を伸ばしていたものです。

ちなみに『戦姫絶唱シンフォギア』は、音楽が重要モチーフで響や奏という名前の登場人物がいる変身少女ヒーローものであるのに加えて「敵がノイズ」なところまで、プリキュアシリーズの『スイートプリキュア』となぜか(!?)カブっているのですが、『スイートプリキュア』でも、ラスボスであったノイズの悪行の動機にあった深い悲しみに主人公らは共感し、最後は救済される結末に至ったものです。

『ヒーリングっど プリキュア』がビョーゲンズ陣営に容赦しなかったことで何を描いたのか、逆に何を描けないことになったのか、そのあたりの解釈は、一概には言えません。
最終回(第45話)では、人間もまた(いわゆる環境問題などを念頭に)地球を蝕む存在であると捉えることができることが示唆され、なかなか侮れないメッセージが込められていました。

作品論としての仔細にこれ以上踏み込むと当記事の趣旨が膨らみすぎるので、ソコのところは以下などの「プリキュア考察ブログ」に譲りたいと思いますが、それらも参考に、各自が解釈を深める試みを続けることが、じつは『ヒーリングっど プリキュア』からのメッセージに応えることなのかもしれませんね。

 → ヒーリングっどプリキュア44話感想 ビョーゲンズと和解できなかった理由
https://www.konjikiblog.com/entry/healingood-precure44

 → ヒーリングっどプリキュア45話(最終回)感想「健やかに生きる」を問い続けた集大成
https://www.konjikiblog.com/entry/healingood-precure45

 → ヒーリングっどプリキュア42話感想 ダルイゼンを助けなかったグレースの選択
https://www.konjikiblog.com/entry/healingood-precure42

以上 各「金色の昼下がり ~プリキュアについて割と全力で考察するブログ」

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そもそも、今般は「ケアの倫理で戦うヒーロー」だったプリキュアの作中で、ケア役割が不当に要望されることを拒否する展開があったために、以上のようななかなかめんどくさい案件となっていたわけです。

しかし、じつは「ケアの倫理」の " care " と「ケア役割・ケア労働」の " care " は、同じ「ケア」でも、ニュアンスが合同ではないでしょう。

英語の " care " にも、相応の語義の幅がありますし、日本語に訳す作業を通すとさらなる意味合いの広がりが生じます。

英語圏でも、まずもって看護のような代表的なケア労働の現場へケアの倫理のコンセプトを活かそうなどといった混同が当初からあったらしいのですが、そこらへんに最初のボタンの掛け違いが伺えます。

日本語圏で『もうひとつの声』が出版されたとき(前掲書=1986,岩男寿美子監訳『もうひとつの声──男女道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店)は「思いやりの倫理」と翻訳されていたり、その後も紹介される文献によっては、ズバリ「世話の倫理」などと訳されて(川本隆史,1995,『現代倫理学の冒険──社会理論のネットワーキングへ』創文社)、看護や介護をめぐるテーマに接続されたりもしました

(その意味では、プリキュアシリーズで毎年バンダイから発売される玩具として、何らかの「お世話系アイテム(作中に登場する妖精系のキャラクターを作中設定と同様に食事などの世話して遊ぶというもの)」があるというのも、なかなか根が深い問題です。購買決定権をもつ層が「これを買えばウチの娘に女の子に相応しい素養を涵養できる!」となって売上につながるというわけですから)

ケア役割やケア労働を女性ジェンダーに割り当てがちな現行のバイアスのもとでは、ケア役割・ケア労働の文脈に接続される限り「ケアの倫理」は批判的な俎上に乗せられることが不可避ですが、それはまたもったいないことでもあります。

むろん発端となったギリガンの論考にいろいろ綻びがあることも、指摘する論文はあります(山根純佳,2005「『ケアの倫理』と『ケア労働』――ギリガン『もうひとつの声』が語らなかったこと」『ソシオロゴス』第29号,2005 など)

しかし、そうした議論の混線を越えて、「ケアの倫理」をある種のオルタナティブとしていかに社会改革に役立てていくかは、今後の継続的な課題としていくだけの価値があるはずです。

「ケアの倫理」はケア役割・ケア労働を担うための倫理ではないのです。

林香里による、「介護や育児などの具体的な『世話』の行為を指すのではなく、社会的弱者を取り残さずに手を差し伸べる(中略)抽象的概念」「身近な人間への心配りと相互依存を前提とした人間関係の維持に価値をおく倫理観」という説明(林香里,2011,『〈オンナコドモ〉のジャーナリズム』岩波書店)は、簡潔・明快でわかりやすいでしょう。

プリキュアシリーズなどが、すでに再三描いてきているように、「ケアの倫理」に基づいて行動することで「正義」では解決できない事案に救済をもたらすことがスバラシイことについてはキッチリ評価すべきです。

そのことと、「ケアの倫理に基づくのであれば、いついかなるときも必ずケア役割を担わないといけない……わけではない!」ことは両立するのです。

その点を顧みず徒に " care " の語だけに引きずられた「ケアの倫理叩き」に陥らないためにも、一旦「ケアの倫理」の議論から、ケア労働・ケア役割にまつわる諸問題を引き離して、注意深く考えてみる試みは必要です。

その意味でも、「ケアの倫理」の真骨頂は、ヒーローものフィクション物語の分析の枠組みで「正義」と対置して使用することによって、現実の公的領域における対立や紛争の事案についての理想的な解決の道筋の、ある種のモデルケースを見出すような応用なのではないでしょうか??

であるならば、「ケアの倫理で戦うヒーロー」のトップランナーとしてのプリキュアの果たす役割や意義は、やはり非常に大きいです。

『ヒーリングっど』の後を受けて始まる新番組『トロピカル~ジュ!プリキュア』もまた、もちろん正義の執行を任務とする公的機関の隊員だったりはしません。

おそらくは温暖な地に住む中学生たちが、自分たちの大切な日常を守る戦いをつうじて、思う存分トロピカっちゃう様子が描かれるんだろうと思われます。

きっと今後1年、また新たな「ケアの倫理で戦うヒーロー」像を見せてくれることでしょう。

進化し続けるプリキュアシリーズには、期待しかありません。

◇◇

◎なおワタシ、「ケアの倫理」については、2016年にユリイカに寄稿した論考でも基幹概念に用いてるんですよ;
題して
「『マクロスΔ』の三位一体とケアの倫理の可能性」

 → 青土社「ユリイカ」に寄稿しました (2016)
  /今日も明日も花ざかり(佐倉智美「お知らせブログ」)
https://est-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2016-08-12_eureka

 


§その他「ケアの倫理」関連

  

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