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「LGBT」「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

「女の子にもオチンチンはある」話 [多様なセクシュアリティ]

「性別」の基準を「身体」に置こうとする考えは、いまだに根強いです。

それが誤りであることは、すでにさまざまな論者が述べていることなので、あらためて言うことでもありませんし、このブログ内でも、もうかなり以前に記事にしています。

 → 「ジェンダーとは何か?」をあらためて考える
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2014-07-28_gender


それでも「外性器こそが性別の核心だ」と信奉する人々は、なかなか多数派の地位を譲ってくれそうにありません。

外性器を基準にして人に男女いずれかの性別属性を割り振るのも社会的な営為であって、すなわち「身体性別とされているものも含めて、すべては《ジェンダー》だ」……というのは、そんなに受け入れがたいことなのでしょうかねぇ;

まぁ、このあたりは一筋縄ではいかないところなのでしょう。


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 (画像はイメージです。出典:いらすとや


しかし、そのデンで言うと、ワタシなんぞは相当に幼い頃から、私たちの日常生活における「性別」とされているものの本質は、身体ではなく、社会的・文化的な決まりごとのほうに重心があることを、直観的に見出していたほうなのかもしれません。

拙著『女が少年だったころ』を読みなおしても、幼少期から性別違和に起因するさまざまな理不尽に苛まれているものの、その多くは社会生活における周囲の他者との関係性のなかで生じるものです。

その一方で、身体に対する認識はといえば、「女の子にはオチンチンがないって本当!?」の項にあるとおり、男女の差異は身体に絶対の根拠が存するのではなく、社会的・文化的な約束事によって構成されているものなのだと理解していたわけです。

当該箇所を簡単に要約すれば、小学校の高学年になるまで「女の子にもオチンチンはある」と思っており、女の子が「立ちション」をできないのはパンツに小用のための穴が設けられていないせいであり、女の子がそういうパンツをはかないといけないのは、そういう決まりであるからだ、というロジックです。

ぃや、まさに後年におけるジュディス・バトラー的な意味あいでの「セックスは、つねにすでにジェンダー」を先取りしていた形だと言えるかもしれませんね。

……もしかしてコレ、ちょっと自慢してイイ!?

ともあれ、ワタシが性別移行をおこないトランスジェンダーとして生活するうえで、身体改造が必ずしも必須ではないと考えるようになっていったことには、こうしたことが重なりあって影響していたであろうことも想像に難くないでしょう。

このような、「女の子にもオチンチンはある」に端を発した、男女の差異はすべてが社会的・文化的な約束事である、すなわちジェンダーだという発想、コレにもう少し多くの人が賛同してくれれば、この世の中はもうちょっとラクになると思うのですが、さて、いかがでしょうか。


 


せっかくなので、佐倉智美著『女が少年だったころ』作品社刊 より、前述の箇所「女の子にはオチンチンがないって本当!?」の項のところを、以下に抄録しておきますノ

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「女が少年だった頃」第1章・幼少のみぎり
<女の子にはオチンチンがないって本当?>

思春期の話に入る前に、もうひとつだけここで語っておくべきことがある。
(中略)
なんと私は、小学校の高学年になるまで、女の子にもオチンチンがあるものと思っていたのである。
たしかに、女性と男性とのちがいには身体的特徴も含まれることは、認識していなくはなかった。大人の女性のおっぱいなどはそのさいたるものだと言えるだろう。
しかし、オチンチンという決定的な外見的特徴があるということまでは、迂闊にも知らずに成長したのである。
小学校高学年になり、学校では性教育の一環として、第二次性徴や男女の内外性器の機能のちがいなどを習い、小学館の学習雑誌でも、そうした内容の記事が増え、そこで初めて「あれっ?」と思うまで、女の子にはオチンチンがないなんて、想像だにしなかったものだ。
当然、ここで疑問を抱かれる方も、おられるかもしれない。
例えば、女の子にもオチンチンがあると思っていたのなら、男の子にはできる立ちションが女の子にはできないことを、どのように理解していたのか。
じつは私はこれを、女の子のパンツには穴が開いていないためだと解釈していた。
女の子用のパンツには“ホース”を通すための穴が開いていないために、立ちション時には支障をきたしてしまう。
だからパンツをずり下げて、ああいう座った姿勢でしか用が足せないのだ。
逆に女の子だって、男の子用の穴の開いたパンツさえはけば、今日からでも立ちションができるわけである。
ではなぜ女の子は、穴の開いたパンツをはかないのか。
それは、それが“男の子用”だから。
女の子は“女の子用”のパンツをはくもので、それには穴なんて開いていないもの。
そして男の子がスカートをはけないのと、またパンツも穴の開いた男の子用しかはけないのと、あるいはその他いろいろある性別の決まりごとと同様に、女の子が男の子用のパンツをはくのはもってのほかのイケナイことで、してはならないこと。
そういうふうに、世の中の決まりが決まっている。そのため女の子は穴の開いたパンツははけないし、だから立ちションもできない。
そう思っていたのである。
これはけっこう深いものがある。
「性別」というものがいかなるものであるかについて、鋭いところを突いていると言ってもよい。
だいたい今の世の中の、男女の間の生態のちがいには、身体的な差異による以上の開きがある。
「男の子は元気に強く」
「女の子なんだからキチンとしなさい」
「女はもっとおしとやかに」
「男のくせに、もっとしっかりしたら?」
そんな世間の風潮の中で、誰もが暮らしているために、男女それぞれが必要以上の「男らしさ」「女らしさ」を身に付けていってしまうのだ。
ようするに、社会的・文化的な性別、つまり「ジェンダー」である。
女の子にもオチンチンがあると思っていたのは、たしかに間の抜けた話かもしれないが、見方を変えれば、男女のいろいろな性別によるちがいが、このように身体的差異よりも、むしろ社会的・文化的要因によるものだということを、私は幼いころから、本能的に感じとっていたということにもなる。
(中略)
考えてみよう。
生まれてきた赤ちゃんに、オチンチンがあれば男、なければ女、そういうふうに性別を判定してしまうのが、現行のシステムである。
だから判定に不服がある場合、それを覆すために、本人のオチンチンの部分を形成外科的に変えてしまうという方法がとられるわけである。一般に言うところの性転換手術を、“性別再判定手術”と呼ぶことがあるのも、そういった趣旨による。
でも、もうひとつ方法がないだろうか。
オチンチンの有無。そう、それによって性別を一方的に決めてしまう、その性別判定システム自体に変更を迫ることである。
「まちがっているのは、オチンチンではなく、それによって性別を決定するシステムのほうなのだ!」
オチンチンのひとつやふたつが、あったってなくったって、本人の希望するほうの性別が認定されるようになれば、話は早いではないか。
ともあれ私がこのような考えなのは、ふりかえってみると、どうもこの、小学校高学年まで女の子にもオチンチンがあるものと思っていたことと、深いつながりがあるのにちがいない。

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………初出はメールマガジンの2000/11/30号だったということなので、なんとほぼ20年前の文章でしたワ;

あと、書き漏らしているようなのですが、それじゃぁ女の子か男の子かがどのように決定されるかについては、出生児に任意に振り分けられるんだと認識していましたね。
だからこそ、当時から、ほんの偶然で(いわばその瞬間の大人たちの気まぐれで)自分が男の子のほうに入れられてしまったことに、何やらもやもやしていたものです。


◇◇



共通テーマ:学校

恋のスタンプラリー [今週の佐倉満咲]

◇◇
「恋のスタンプラリー」
あなたは参加する?
◇◇

我が娘・満咲も、はや大学3年生。

………とはいえ今年・2020年度の前期授業は新型コロナウイルス感染症[ COVID-19 ]の流行拡大を受けてすべてオンライン遠隔授業となり、キャンパスも立入禁止が原則となって、何やら新学期になったのかなっていないのか、すこぶる曖昧なまま過ぎてしまっていました。

後期になって、ようやく通常のオフラインでの対面授業も再開して、このところは登校して久しぶりに顔を合わせた友人たちと、いろいろ話もはずんでいたりするようです
(とはいえ、まだ一部を除いて多くの授業はオンライン遠隔方式なのですが)。


◎満咲さんの同世代の子たちによる今年度前期のオンライン遠隔授業についてのレポートはこちら
 [ 新学期!→まさかのオンライン遠隔授業の日々 ]
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2020-05-19_RemoteOL


◎ここまでの満咲さんの大学生活関連記事はこちらなど
 [ 佐倉満咲、大学でジェンダーを学ぶ ]
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2018-12-09_MUs-GS


で、そんなわけで、従前のとおり「ただの友達の男子」も相変わらず多いようで、帰宅後に報告してくれる当日の出来事に関するエピソードでも何人かの男子学生の名前が挙がることは続いています
(当然にかなり「親には言わないフィルター」がかかってはいるようですし、そこからさらに個人情報への配慮に念を入れると、ここにはたいした詳細は書けないのですが)。

高校までと同様に、「男女なら恋愛」という社会通念を超克して、互いに一番心地よい関係性を実践している様子は、なかなか微笑ましくもあり、また頼もしいことでもあります。
相手のほうも、満咲と波長が合うのでしょう。すこぶるナチュラルに日々接してくれているようで、まことに尊いことです。

もちろん、男女で親しげにしている様子に対しては、他の友人らから時折「付き合ってんの?」と問われるのは従来と同様で、やはり鬱陶しくはあるようです。
また、男子と仲良くしている現場に対しては、他の友人らがどうしても遠慮してしまうようなことも起こるようで、気を利かせた女友達が近寄ってこないということもありがちらしいです。
それで女友達とはなかなか距離を近づける機会が逸失し、余計に友達の男子率が上がる、とも。

ただ、そうはいっても、そういうときこそ高校までの経験値が生きてきたりもするのでしょう。
「男女でただの友達」の関係性のマネジメントは、それなりに上手くおこなっていると見受けられます。
本人もですが、相手も同様に、一般的には「異性と親密になっている」とされる状況が、こうした形になっていることに対して、10代の頃よりは安定して納得できるようになっているのかもしれません。


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 (画像はイメージです。出典:いらすとや

そんなこんなで、昨今は状況を社会学的に見極めるセンスも上がった満咲さん、「男女でただの友達」の困難について、先日ふと次のように表現したのです。

「男女だと、恋人って関係をべつにめざしてなくても、どうしても『恋のスタンプラリー』になっちゃうねんナ」

「え、何? スタンプラリー!? 恋の??」

曰く、男女の関係性には親密度を上げていくためのモデルコースが設定されていて、あたかもスタンプラリーのようなそれに、油断するといつのまにか参加させられてしまっている……のだというのです。

つまり、例えばスタンプカードに「初デート」「手をつなぐ」「初キス」などの枠があって、順次達成し、その証の押印で埋めていくことが促されるようなイメージなのでしょうか。

そしてスタンプカードの受領や使用を拒否するには相応のエネルギーが必要だとも。

あるいは「手をつなぐ」カードにスタンプが5個溜まったら「キス」カードにランクアップ。さらに「キス」カードにスタンプ10個で性行為が可能になる……ようなシステムだったりするというのもあるかもしれないですね。

なるほど!

「恋のスタンプラリー」!!

たしかに言い得て妙でしょう。

性の多様性に明るく、決まりきった「恋愛の常識」とは距離を置くことができている今どきの若い世代である満咲さんとしては、まさに、このような生活実感をともなって状況が透徹できているのかもしれません。

社会の中での人々のコミュニケーションにおいて、男女の親密性にかかわる相互行為が、「恋愛」と定式化された社会的なコードによって見事なまでにパターン化されていることを表現する比喩としては、なかなか秀逸だと言えます。

「恋愛」なり、よりよい「男女の関係性」などについて議論するときには、コレを少し頭の隅にでも置いておくと、そこはかとなく有用かもしれないですね。

さあ、「恋のスタンプラリー」、
あなたは参加する?
それとも参加しない!?


◇◇





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