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人はなぜスポーツの観客になるのか? [その他雑感つぶやき]

新型コロナウイルス感染症が猖獗を極めた2021年の夏。

そんな中でオリンピック・パラリンピックなどという大規模国際イベントを開催しないといけなかったというのも今般、大きな負担だったというのは否定しきれないものでしょう。

「大規模イベントを誘致して経済効果」的なさもしい発想の政治。
そして実際にこれだけ大変な状況であっても中止にならないことの裏に透けて見える数々の利権の闇。
にもかかわらず少なくない人々が浮かれるほど関心を寄せてしまう「スポーツというものが持つ特権性」。
コロナで大切なものを失った人はたくさんいる。失われた大切なものはたくさんある。
なのに「4年に1度の祭典」「重要な国際的スポーツイベント」、そんなお題目だけで、他より優先的に特別扱いになるというのは、控えめに言って公平性を欠くでしょう。

こうした点は、今後とも不断の検証が必要なのではないでしょうか。


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 (画像はイメージです。出典:いらすとや 以下当記事中同様)◇◇

一方、そんな無理を押して開催された大会ですが、さすがにまるっきり平常どおりとはいかなかったのもさもありなん。

例えば多くの会場における「無観客」での開催。
楽しみにしていた人にとってはさだめし残念なことであったでしょう。

ただ………

ここで、あらためて気付くのですが、

ものすごいそもそも論として、さて、はたしてスポーツに観客って必要なのでしょうか!?

!!

例えば舞台演芸、コンサート等々であれば、これらは根本的に誰かに見せるためにおこなわれるわけで、ゆえに観客がいてこそ成立するものであります。
こうした類の催しもまたコロナ感染症を受けて「無観客」で開催されるケースは散見されますが、さりとてそれは会場には客を入れずにカメラを通して現場の様子を生中継・配信する……というような事例でしょう。
本当に誰も観ていないのに、演者らのパフォーマンスだけがおこなわれるというのは、ちょっと考え難いです
(だからこそ、『ラブライブ!』のアニメ第3話※での「0人ライブ」をめぐってのドラマトゥルギーも成立するわけで; ※シリーズ第1作、いわゆる「無印」の第1シーズン

対してスポーツは、アスリートがプレイ、競技するだけで、もう第一義的には完結しちゃって……ますよね!?

たしかに、観客からの応援を受けて、プレイヤーが発奮し、その結果として好ましい成果が生まれる……みたいなインタラクションにも相応の意義はあるでしょう。
でもそれはあくまでも第二義的なもの。
スポーツにとっては周辺環境に属する事情です。

スポーツの本質は、アスリート自身が、プレイヤーとして競技をとりおこなう、ソコそのものにあるわけではありませんか!

そう考えれば、
「アスリートが勝手にやっていれば、ソレだけですでに《スポーツをした》こととして成立するものを、なんでわざわざ縁もゆかりもない他人が観てあげなくてはいけないのだろう!?」
 のような物言いも、あながちできなくもなくなってきます。

さて、

いったい私たちはナゼ、スポーツなるものを見に行くのでしょうか?


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この、スポーツをするという営為は、第一義的には観客を必要とせず、アスリートが競技をおこなうだけで成立する、という視点の再確認は、今あらためて重要なのかもしれません。
この考え方をあてることで、逆に、私たちがスポーツ観戦に何を求めているのか、人はスポーツをなぜ「観る」のか?? そういったことを詳らかにしうるわけです。

さらには、第一義的には観客を必要としない、にもかかわらず、観客の存在が自明視されているという現状から、この社会におけるスポーツなるものの位置づけがいかようなものであるのかを浮き彫りにすることができる、とまで述べるのは、さすがに言いすぎでしょうか。

ともあれ、スポーツ社会学か何かの分野で、このあたりの研究は、進めてみる価値がありそうな気はします。


本稿は、あくまでも「《スポーツは第一義的には観客が不要》であることを再確認することで、スポーツについて考察する際の視点の広がりが得られるメリットは存外に大きい」ことを述べているものです。
現に広くおこなわれているスポーツ観戦の意義を否定するものではありません。
スポーツ観戦を愛好する方々を非難する意図もございません。
この点、念のため申し添えます。

◇◇
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◇◇
◎例えば何らかのスポーツを観戦に行くことを「参戦する」と言い表すことも界隈によってはあるとのことです。
ここには、見ることをつうじて自分自身もその競技をする(気分になる)という機序が垣間見えなくもないでしょう。
実際にそのスポーツのプレイヤーでもある人が、プロの高度な技芸を観覧することで、そこに理想の自分を重ねるようなこともあるやもしれません。
すなわち、「見る」だけのことが、自身もまた「する」ことへと、わりとシームレスにつながっている、ということになりますが、こうした考察の視角が、上記の「本来はスポーツに観客は不要」という観点によって、よりシャープになるわけです。


◎さらに、この、スポーツを観戦の場合と同様に、歌手・アイドルなどのライブ・コンサートに行くこともまた「参戦する」と言い表しているファンダムが存在するようです。
この場合も、上述のスポーツの場合と同様に、自身とアイドルらとの一体化、自分自身がアイドル活動をしているような感覚を体験する、そういった動機がライブ・コンサート観覧には潜在していることを窺わせてくれます。
「今日ではアイドルは《なる》ものではなく《する》ものになってきている」みたいな仮説は、アイドル研究としては非常に興味深いところです(が、それはまた別のお話ノ)。
そのことと、この「ライブへ参戦」もまた、かなり密な連関があるのではないでしょうか。


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