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本当は恐ろしい「性の賞品化」 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

◇◇
モンゴル民話を元にした『スーホの白い馬』の絵本は、すでに名作の評価を受けて久しいでしょう。
小学校の国語の教科書に掲載されたこともあります。

ただ、これを今日において題材・教材に用いるとすれば、この2010年代に見合った配慮はほしいところです。

具体的にはお姫様が競馬大会の「賞品」に位置づけられちゃってるところ。
ナンですか、競馬大会で優勝すれば姫とケッコンできるって!?

あのくだりは話の本筋ではないせいもあって、わりとあっさりスルーされがちですが、うっかり肯定的に受け取られるのはマズいと言わざるを得ません。

この点についても、「仮に約束が守られてスーホが姫と結婚できて形式上はハッピーエンドになってたとしても、勝手に結婚相手を決められてしまったお姫様の主体性のほうはまったく無視だなんて、その点も現代の価値基準では許されないことだよね」という主旨の、何らかのフォローが切に望まれます。

女性の人格が軽んじられ、あたかもモノのように扱われる社会的文化的慣習は、まさに女性差別構造の根幹を成すものです。
いわゆる性の商品化の問題などとも密接に連関していると考えてよいでしょう。

その意味では『スーホの白い馬』のこのくだりは、逆にそうしたテーマの教材として抜き出して用いてもよいくらいなのではないでしょうか。

そのへんをわかったうえで、あえてサラっと流すという選択もなくはないでしょう。
教科書でも、20年位前のバージョンで、すでにわりと上手にボカしてあったりしました。

とはいえ指導する先生しだいでは、やはりどうしてもミスリードの危惧は拭えません。

作品に多角的にアプローチする姿勢は、やはり心がけたいポイントであります。
◇◇

  


……というような指摘は、わりとかねてよりしばしばしているところです
(本館メディアとジェンダー#015 漂流する名作-Wrong Love Letter」にも少し書いてます)

ただ、この話、入力する際には若干 気を遣うのですね。

上記文中をよく見てもらうとわかるのですが、「賞品」「(「性の商品化」の)商品」と、しょうひん》が2種類登場します。

コレは油断すると変換ミスが起きやすいシチュエーションで、うっかり間違ったままにしてしまうと文意が伝わりにくくなってしまう、地味に致命的な失敗となってしまいます。


…………で、そんなことも考えていて、ふと思い至りました。

「性のしょうひん化」といえば通常は「性の商品化」ですが、もしかしてソレとは別個に、じつはこの社会には性の【賞品】化の問題が存在しているのではありませんか!?

たしかに「競馬大会で優勝すればお姫様と結婚できる」というような意味あいでの「性の【賞品】化」であれば、いわゆるフェミニズムが訴えるところの「家父長制」にかかわる案件でもあり、そこからは「性の商品化」へも地続きであり、その意味では「性の賞品化」という表現は日本語での言葉遊びの域を出ないでしょう。

では、しかし本当に当事者どうしが主体性を持って自由恋愛に基づく意思に従って結ばれる仕組みであれば、みんな幸せになれるのでしょうか?
「愛し合う者どうしの結婚」や「愛のあるセックス」なら、まったく問題はないのでしょうか!?

そう考えていくと、ソコもまたいろいろ疑義が挟まるところだと思われます。

ざっくり言って、この社会には「男らしさ/女らしさ」規範が強固に敷設されています。

そこでは誰もが「女」「男」いずれかの属性を付与された上で、その付与された属性に応じて期待される役割をプレイすることを強いられています。
いわば「男らしさ/女らしさ」規範という名のゲームです。

そんなゲームのルールのなかで、たまたま資質に恵まれてハイスコアを出した人から順に与えられる prize に位置づけられているのが 恋人~配偶者 ………というふうに、さぁ、なってはいないでしょうか。

それが男女二元的な性別規範異性愛主義に則った現行社会のシステム。

つまり、異性が1人ずつでつがいとなる結婚を自明視した社会通念に則った公の社会制度と、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの悪魔合体で、私たちの「性」があまねく【賞品化】されている……。

換言すれば、この社会では、性愛はすべからく【賞品】として供給されている/性愛の供給はすべて必ず【賞品】としてのものこそが正統で尊いものとされている……。

誰もが社会生活にコミットする限りは、このシステムから逃れられない以上、コレは万人の行動をいつもどこでも規制する結果になっている、けっこう根が深い厄介な問題ではないでしょうか。

この恋人~配偶者という名の賞品としての性にありつくために、誰もが「男らしさ/女らしさ」ルールを遵守するために汲々ととしないといけないのです。

しかも、なんとか上手くやっていける人ならともかく、それが不得手な人にあっては、このゲームをプレイするしか社会に居場所がないという状況は、すざまじい抑圧として機能することでしょう

人文書院「フリーターズフリー 02号に収録されている森岡正博による論考「『モテないという意識』を哲学する」で述べられているような、非モテ男性が人生をネガティブに拗らせていく負のスパイラルに陥る背景などに対しては、まさにこの「性の【賞品】化」概念を当てはめることで適切に名付けができるようにも思えます)

いわゆる非モテの問題はもとより、あらゆるジェンダーやセクシュアリティにかかわる社会問題の源泉がここにあると言っても、あながち過言ではないかもしれないくらいです。


 


というわけで、この「性の【賞品】化」という観点はなかなか有用な気がします。
「家父長制」と重なる部分もあるとは思われますが、そのエッセンスも取り込んだ、より広い範囲を表しうる言葉として、かなり有望なんじゃないかなぁという期待はしてよさそうです。

それに「性の賞品化」の文脈においては、単純に「性の商品化」を問題にする場合には《良いもの》《尊いもの》《正しいもの》の側に回ることが自明視されている「愛し合う者どうしの結婚」や「愛のあるセックス」も無謬ではいられず、その背景としてのロマンティック・ラブ・イデオロギーや、基底にある男女二元制と異性愛主義を覆していく変革の未来さえ展望できそうです。

だいたい、性がもっぱら非売品である「賞品」としてしか手に入らないというのはきわめて封建的だという見方もできます。
近代市民社会であるなら、むしろ性はすべて商品として売買されるのを基本にしたほうが自由で平等で民主的だという考えにも一理あるというロジックも成り立つでしょう。

(「性の商品化」において、セックスワーカーの人権が軽んじられたり、あるいは公の場所で例えば「女性」だけが一方的に「見られる性」と位置づけられた表現物が特段の必要も必然もないのに不特定多数へ向けて掲出されるといったようなことは、やはり不均衡な状況でしょうから、避けるための方策が議論されるべきなのはもちろんですが)

現状をドラスティックに覆すことを実際におこなった際の混乱は斟酌されるべきにしても、少なくとも思考実験のツールとしては、この「性の【賞品】化」概念は、ちょっと普及させてみたいですね。

そこからいろいろなものが見えてくる可能性は、じゅうぶんに秘めているのではないでしょうか。


◇◇


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