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ようこそ美少女動物園へ(または「かばんちゃんには性別がないし、ジャパリパークには性別概念が存在しない」) [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「日本のアニメは《美少女動物園》だ!」といった、誤解と偏見に基づく悪意に満ちた言説は、しばしば聞かれるところです。

この場合《美少女動物園》とは、「男性にとって都合が良い ただ単に可愛いだけの主体性を持たない美少女キャラがたくさん登場し、それをキモいオタク男性が性的な目線で視聴するために作られているようなアニメ作品」といった意味あいなのでしょう。

むろん、そうした批判が妥当する要素が部分的に含まれるケースは、皆無であるとの断言まではできませんが、しかしそれはあらゆるメディアにおける各種表現についても同様であって、ことさらにアニメというジャンルを名指して狙い撃ちするのは穏当ではありません。

(あるいは、タイトルやキービジュアル等について、視聴者への訴求性を上げるための一種の「釣り」として、一見すると《美少女動物園》であるかのような何らかの修辞・修飾が用いられることもあるでしょう。
また主要なターゲット層を絞って制作された表現物であれば、必ずしも万人向けになっていないことはありえることで、ゾーニング等の観点から問題が起きていないのであれば、これもまた認められるべきものでしょう)

その作品がアニメであることをもって、すべからく《美少女動物園》であるとレッテルを貼る行為は、あまりにも雑駁に過ぎると言わざるを得ません。

例えばいわゆるフェミニズムの観点から大いに評価できる点を数多くともなった作品群も珍しくない現状においては、そこのところを正当に評価しないのはむしろはなはだもったいない

仮に問題と思われる描写に出くわしたとしても、表面的に一瞥しただけで全体のありようを決めつけてしまわずに、きちんと総体的な把握をしたうえで、問題箇所のみをピンポイントで指摘するのが公正な批判というものです。
そこをジャンル包括的にアニメ作品群とそのファンを口汚く罵るのは、カテゴリーのみを指標とした属性に対する差別。まさに醜いヘイトスピーチに他なりません。


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※本記事中、画像は放送画面や公式のサイトからキャプチャしたもの

さて、そんな《美少女動物園》というような謂れのない言いがかりに対する、ある種の絶妙の頓知が効いた返答とも言えるアニメ作品が登場しました。

そう、2017年1~3月期の本放送で話題となり、人気を受けた先月半ばの平日毎朝の再放送では夏休み中の子どもたちの多くを夢中にさせた、かの『けものフレンズ』ですね。

公式サイトでのイントロダクションによると、

この世界のどこかにつくられた超巨大総合動物園「ジャパリパーク」。
そこでは神秘の物質「サンドスター」の力で、動物たちが次々とヒトの姿をした「アニマルガール」へと変身――!
訪れた人々と賑やかに楽しむようになりました。
しかし、時は流れ……。
ある日、パークに困った様子の迷子の姿が。
帰路を目指すための旅路が始まるかと思いきや、アニマルガールたちも加わって、大冒険になっちゃった!?

……とあります。

 → アニメ『けものフレンズ』公式サイト


これだけを読むと、たしかに本当にズバリ文字どおり「美少女動物園」な設定ですし、前述の《美少女動物園》だという批判がもしかしたらそのまま該当する内容であるかもしれない疑惑も浮上します。

しかし蓋を開けてみれば、なかなか深遠な舞台設定を背景に、ストーリー自体はほのぼのとした空気感のうちに含蓄のある寓意も織り込んだ、誰もが安心して視聴できる非常に秀逸なエンターテイメント作品として成立しているものでした。

ビジネスモデルの面からは元々は深夜帯のアニメとして制作されたものの、内容的には放送時間帯を問わない内容なのは、朝の時間帯での再放送が子どもたちにも好評だったことからも明白でしょう
(そういう事例は他作品でも多々ありえることであり、今日の多くのアニメ作品が深夜帯放送なのは主としてビジネスモデルの事情によるもので、内容がアダルトかどうかとは実際のところ無関係です)

むしろそのままNHK教育テレビの道徳番組にしてもよいくらいだ……なんていう意見も、あながち大げさではないことは、「互いの得意分野を活かしあってみんなで協力すれば課題は解決する」というエピソードがシンプルに描かれた第5話「こはん」などを見ればわかりやすいです。

無生物系のモンスターである「セルリアン」を除くと、誰も悪意を持ったキャラクターはおらず、アニメ作中では「フレンズ」と呼ばれるアニマルガールたちが、和気あいあいと仲良くする様子を軸に展開する物語には、現実世界の私たちが平和な社会を築いていくためのヒントが満ちているとも言えるでしょう
(主題歌『ようこそジャパリパークへ』では「笑えばフレンズ」「けものは居ても のけものは居ない」などと歌われます[作詞:大石昌良])

そのあたり、詳しくは実際に作品に触れてみるのが最善かと思いますので、ここでは個々の細かい内容紹介は省くこととします。


  


一方、この『けものフレンズ』において、このブログとして特筆すべき点については指摘しておかねばなりません。

いろいろな動物が「サンドスター」なる物質の超常的な作用によって「フレンズ(アニマルガール)」化したキャラクターが大半の登場人物を占める中で、「この子は元は何の動物なのだろう? ……もしかして人間!?」という位置づけで登場するのがかばんちゃん」です(イントロダクション中の「迷子」)。
「かばんちゃん」がヒトならではの知恵を発揮して各回の課題解決を導くプロットもまた作品の見どころになっています。

と、この「かばんちゃん」。
じつはアニメ作中では、なんと一貫して【性別不詳に描かれているのです。

容貌も服装も中性的。
体型には女性っぽい特徴が見受けられるという意見もある一方で、一人称が一般的には男の子が用いるとされる「ボク」。
演じるのは女性声優ですが、声変わり前の少年の役を女性声優が担当する慣習もまた一般的です。

断片的な情報を現実世界の通念と照合して、かばんちゃんが女の子なのか男の子なのか、一定の推論を立てることはできるけども、いずれも反証可能で決定的なものを欠きます。

終盤で明らかになるかばんちゃんの秘密を含めて、制作サイドが持っている裏設定もあるにはあるでしょう。
それでもアニメ作中に表れる描写だけでは、性別は判然としないのです。

そもそも何よりこのアニメ、作中でのかばんちゃんの性別を特定しなくても物語が破綻しないように組立てられています。

たとえかばんちゃんの性別を女の子と解釈しても男の子と判断しても、作品のストーリーを読み解くうえで特段の支障はない。
つまり、かばんちゃんの性別を特定する必要ナシに物語が構成されているわけです。

極論すれば、『けものフレンズ』の「かばんちゃん」には性別がない。
そういうふうに出来ているのです。

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コレはスゴいです。

だいたいにおいてわたしたちは、登場人物の性別を特定しないと落ち着かないというオブセッションのもとにあります。
いわゆる「ゆるキャラ」には公式に性別不詳とされている事例もありますが、人間に近い造形のキャラクターになるほど、そういう措置も困難度が上がるでしょう。

だからこそ、本来は生物学的な性別がないロボット系のキャラクター、例えば鉄腕アトムやドラえもんやアラレちゃんのような存在にも、通常は性別属性が付与されるわけです。

あるいは何らかの形で性の多様性の体現者となっている登場人物が描かれる際にも、性別の基準点としての[男/女]概念の桎梏からは、完全に自由になっているとは限りません。
プリパラのレオナのような先進的な設定の登場人物であってもソコは然り。

その意味で、今般の『けものフレンズ』の「かばんちゃん」は、べつにキャラクターの性別を特定しなくても物語は描けるんだということを、ごくナチュラルにさりげなく示した点で、大いに意義があったのではないでしょうか。


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さらには、動物がサンドスターの作用でアニマルガール化したというフレンズたちも、元の個体の生物学的性別にかかわらず、フレンズ化する際には強制的にもれなく女の子の姿になるという設定だったりします。
それがサンドスターの神秘の力であるという説明です。

それゆえに、その動物のオスの特徴を持った美少女キャラが現出することにもなります。

それもまた非常に性別撹乱的でオモシロイのでありますが、何よりも、フレンズ化した後はもれなくみんな女の子の姿になる……ということは、逆説的に性別がない、性別は重要ではない、どうでもいい。
やはりそういうことにもなります。

……否、あのアニメ作中のキャラクターたちの間には、まずもって「性別」という概念がないのではないでしょうか。

フレンズたちは動物がサンドスターの力で擬人化した意識を持っているにすぎません。
かばんちゃんもまた、突然ジャパリパークに出現した、それ以前の記憶がないために、人文社会系の知識は必ずしも視聴者がいる現実世界の人々と同等ではありません。

そうしてジャパリパーク内には、男女の差異を認知させるモデルが存在しません。
フレンズたちの個体はサンドスターの作用で維持されるサイクルにあるので、生殖もありません(ちなみに食料供給もパークのシステムによってもたらされるので、フレンズどうしで捕食のようなことは起こらない)
これでは誰も性別という概念を持ちえませんし、持つ必要も発生しないではありませんか。

すなわち、フレンズたちが美少女の姿をしている……とはいうものの、それはあくまでも現実世界の視聴者が現実世界の解釈コードに沿ってそのように捉えているにすぎなくて、アニメ作中では誰もそういう認識は持っていないのではないか、ということになります。

しばしば言われる「ドイツ語には肩こりという概念がないからドイツ人は肩がこらない」的な言説になぞらえるなら、誰も性別という概念を持たなければ、誰にも性別はないわけです。

社会的には性別・性差は対人関係の中で他者がそう認識してはじめて成立する……という観点は、今こそ重要なものとして顧みられたいところです。


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性別二元論や異性愛主義から距離を置いたアニメは今どき多々あるとはいえ、それでも性別概念自体は存在する世界観なのが通例です。

そんな中で、この『けものフレンズ』が、性別概念なんてナシでも物語は支障なく描けると示したことは、現実世界の社会生活では性別から逃れることが難しい中では、やはり非常に有意義だったと思われるのですが、いかがでしょうか。


◇◇


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オーバーロード

 「日本のアニメは《美少女動物園》だ!」という言説は、確かに対象をアニメ一般ととらえると、範囲が広すぎ妥当ではないと思います。しかしながら、一方で全面的に否定できるものでもないと考えます。
 なぜなら、深夜枠のアニメの中には異性愛男性の性的視線に奉仕することを第一目的にしているような作品は珍しくないからです(近時の例では『sin七つの大罪』がいい例)。この種の作品はほとんどアダルトアニメまがいであり、AT-XのようなCSのアニメ専門チャンネルでは年齢制限がかかり、それ以外の局では女性キャラの裸体に不自然なぼかし付きで放送されています。このような作品が跋扈している以上、厳しい視線が向けられるのも無理はない。いくら積極的に評価できる部分があっても、過激な性的表現が第一目的である作品の場合、作品全体を否定せざるを得ないこともあるのではないでしょうか(「積極的に評価できる部分」は結局は批判をかわす言い訳に過ぎない可能性がある)。

 ただ、深夜枠の作品が全てどうしようもないわけではありません。なにせ昔ならば夕方に放送されていたような内容の作品が、「仕方なく」深夜で放送されている場合も少なくないからです。実際、「これはもっと一般的に視聴できるような時間帯に放送すべきでは?」と思える内容のアニメはけっこう多いです。

 『けものフレンズ』もそんな作品の一つであり、私も好きですね。血しぶきが飛び散り、陰惨な物語が展開される作品や、上記したようなアダルトアニメまがいの過激な作品が少なくない深夜帯で、なぜ『けものフレンズ』のようなある意味「他愛もない」ような感じのアニメが大受けしたのか?たぶんストレスなしに誰もが安心して観ることができる内容ががマニアでない視聴者の琴線に触れたのだと思います。
by オーバーロード (2017-10-02 23:15) 

 
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