SSブログ

◎執筆・講演のご依頼はお気軽にお問い合わせください◎
メール案内ページ
「LGBT」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論、「アニメとジェンダー」など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

「こんなの絶対おかしいよ!」翠星のガルガンティア5話問題 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「どんな現実でもそれを受け止めるのは
今を生きる者の特権だ」

フェアロック船団長


 BL130813grt01.JPG
※画像は放送画面より(以下当記事中同じ)

2013年4~6月期に放映されたアニメの中では、『翠星のガルガンティア』が出色の出来栄えの良アニメだったと言えます。

遠い未来、人類の末裔が謎の(その真相は作中9話で明らかになる)宇宙生物ヒディアーズとの戦いに明け暮れる宇宙の彼方で、兵士として戦う以外のことを知らなかった主人公の少年レドが、戦闘中の事故で時空の歪みに飲み込まれ、乗機である(今日の私たちの言葉で言うところの「巨大ロボット(リアル系)」)チェインバーもろとも、氷河期を経て地表の大半を海に覆われ人々は船を連結した船団を都市として暮らしている地球へとやって来る。
そこで船団の文化や人々の暮らしぶり、いろいろな考えや価値観に触れたレドは少しずつ――。

   


というような物語なのですが、既視感があるようでいて、先の展開の読めないオリジナリティの高いだったと言えます。

例えば、主人公レドと絡む役どころのヒロインキャラであるエイミーが、小動物を肩に乗せてグライダーで滑空する様子が『風の谷のナウシカ』を彷彿とさせるのも含めて、遠い未来の地球の架空の社会であるガルガンティア船団の様子の細かな描写などにはジブリアニメに比肩する丁寧なこだわりが感じられました。

また、「遠い宇宙の果てから地球へやって来た少年のロボットに乗った戦い」という設定なら、『宇宙戦士バルディオス』や『合身戦隊メカンダーロボ』といった古い前例もありますし、「異文化接触」をめぐるコンフリクトがストーリーに緊張をもたらすのは『伝説巨神イデオン』ですね。

そうしたものをはじめ、個々のディティールは既視感があるのに、それらが組み合わさってできたものは、前例を感じさせない物語になっている点は、放映期間を通して常に新鮮でした。。
この先いったいどういう落としどころへ向かうのか、いい意味で先の展開が読めない、エンターテイメント作品としても毎回が楽しみなアニメに仕上がっていたと言えるでしょう。

特に先が読めないなりにOPとEDの雰囲気からは、バルディオス・イデオン系の鬱展開はなさそうと察することができたのは、物語が男性的マッチョな世界観ではつくられておらず、その現れとして、多様な女性キャラの活躍があったことも大きいでしょうか。

話の構造の大枠は、男性主人公がヒロインに "Boy Meets Girl" する話だとも言えましたが、男性目線や異性愛至上主義っぽさ、そして強烈なホモソーシャル臭がすることも概ねなかったです。

 BL130813grt02.JPG


特に、この作品が女性のリアリティをきちんと描けているなと感じたのは、第8話でした。

8話では、ガルガンティア船団全体を束ねていたフェアロック船団長が病に倒れて急死。
そのいまわの際に後継者として直々に指名されるのが弱冠22歳という設定の女性キャラで、それまでは船団長補佐の任にあったリジットでした。

必然的にリジット本人はその重責に戸惑い、思い悩みます。

むろん昨今のアニメでは、女性がリーダーとなることが、必ずしも稀有なわけではありません。
例えば『モーレツ宇宙海賊』などは女性のリーダーシップのロールモデルになりうる点がフェミニズム観点から大いに評価できるとは既に述べました。
その後なら『ガールズ&パンツァー』という例もあります。

とはいえ、この2作品とも、じつは主人公が通う学校は女子校。
全員女の子なのならば、リーダーもその中で誰かが担うことになるのは当然っちゃー当然です。

しかしガルガンティア船団の長となると、女子校の部活規模をはるかに超える、当然に老若男女織り交ざった、大都市の市長にも相当する規模の職責です。
巷間には「あんな小娘が…」という声も出てきます。

余談ながら、基本的にリーダーに向いているかどうかは個人的な資質しだいであって、本来は男女は関係ありません。
(若い)女性がリーダーとして不適任だとしたら、それは思い込みから「女性はリーダーに向いてない」「女の言うことなんて聞けるかよ」と反応する人達によって任務遂行が妨げられることが原因であり、じつは因果関係が逆なのです。

一方で、マッチョな男性イメージにも符合する強いリーダー像は結局は「俺についてこい」型の独裁に陥る危険が大で、少数意見も切り捨てられやすく、いわゆる民主的な社会のあり方とは対局にあるわけです。
強いリーダー待望論・強力なリーダーシップが全部解決してくれるのを期待……というのは、じつはかなり危険なのです。

そんな中で、この翠星のガルガンティア第8話、いわば「リジットさん船団長になるの巻」は、男女混成社会の中で若い女性が「長」としていかにリーダーシップを執っていけばいいのかという問題にキチンと向き合って解答を出していました。

それは、お互い強くないことを認め合った上での相互依存を前提に、小分けしたリーダーシップを適材適所に配分するマネージャーとしてのリーダー像。

これを若い女性のリーダー就任をめぐる本人の葛藤を通して描いたことは、まさに「強いリーダー期待」の風潮へのカウンターとしても有意義と言え、とても好感が持てました。

 BL130813grt03.JPG

 BL130813grt04.JPG

 BL130813grt05.JPG


また、この第8話では、亡くなったフェアロック船団長の葬儀の様子も描かれるのですが、私たちの現代の地球とは文化の異なる社会における葬儀の段取りが、丁寧に設定されていました。
あんな遠い未来の地球という架空の世界の架空の習慣を、よくもじっくりと練りあげて考えたものだと感心したものです。

他にもこの作品では、第1~2話あたり、宇宙から降り立ったばかりのレドと、エイミーたちガルガンティア船団の人々との間でのファーストコンタクトで、言語コミュニケーションが不可能な状況下において、描写の視点が遷移するたびに、わけのわからない言語をしゃべっているのがどっち側かも切り替わる……というのも非常に秀逸な演出でした。

あるいは、13話(最終回)のクライマックスでも、主人公レドが搭乗するロボット「チェインバー」のパイロット支援啓発AIシステムの音声インターフェイスは、それまではレドに対する二人称がレド「少尉」とか「貴官」なのに、そこで「軍籍を剥奪」する判断を下して(その経緯は後述:ネタバレ注意からは「あなた」に変わってるところなども、さり気なく細かな描写にこだわったポイントでしょう。

その他、いわゆる「中の人ネタ」によるファンサービスや、そういうものまで意識した上で張り巡らされた伏線など、その周到な構成には感服ものでした。


 BL130813grt06.JPG

13話(最終回)も、各キャラそれぞれにきちんと見せ場があり、「ロボットアニメ」としての側面もいかんなく発揮された盛り上がりで、最後はちゃんとキレイにまとまっていました。

そして何より最終回の刮目ポイントは、クライマックスでのチェインバーのレドへの「最終意思確認」のくだり。

ガルガンティア船団を狙う脅威に対し、チェインバーを操縦して戦うレドは、基本性能で上回る相手よりも優位に立つために「機械化融合モード」を発動するのですが、それはレドの身体に激しい負荷を強います。
そのため、これ以上続けるとレドの生命さえ危険に晒される――というときにチェインバーのAIシステムが、それでもいいのかを問うてくるわけです。

で、従来からよくありがちなパターンだと、ここはレドがエイミーらガルガンティア船団の人々との交流を思い返した上で「そんな大切な人達を守るために俺は命をかけても戦うっ!」……てな感じになるのが普通なわけです。

ところが、本作はそういう安易な少年マンガ的価値観に立脚した「オトコのドラマ」にはしませんでした。

ガルガンティア船団での生活を思い返したレドは、宇宙では戦うことしか知らなかった自分が、さまざまな交流を経て、人が生きるということの意味を少しずつわかってきたことに気づき、そんな人々とともにもっと生きたい、何より自分を気にかけてくれたエイミーともう一度手を取り合いたいという、自分の本当の願いを自覚します。

そのときチェインバーがとった判断が――

「レド少尉の心理適性は兵士の条件を満たしていない。…現時点をもって貴官の軍籍を剥奪する」

えぇ~~っ、何ソノ展開!?

「非戦闘員のコクピット搭乗は許可できない。即刻当機より退去せよ

ど、どーすんだよ??

そうこうするうちにもチェインバーのAIシステムは、頭部の操縦席部分を本体と切り離します。
そして、おもむろにレドにこう語るのです。

「この空と海のすべてが、あなたに可能性をもたらすだろう。
 生存せよ。探求せよ。
 その生命に最大の成果を期待する」


うわあぁぁぁ~~~
チェインバーっ!

 BL130813grt07.JPG


すごい。
これはやられました。

【大切な人達とともに生きたい】と願うこと、それを全面的に肯定した展開がスバラシイです。

そもそも現実には、以前バレンタインデーの起源についての記事で述べたように、「キミも男らしく大切な女を守るために戦え!」は戦争をしたい国家による徴兵のためのキャッチコピーにすぎないわけで、愛しい人がいるのなら、その人とずっといっしょにまったりしていたいというのが自然な人情なのです。

大切な人達とともに生きていくことの価値、命そのものの尊さ……。
それをあそこでああいう形でチェインバーに語らせるというのが、この作品の独自性に基づいた、なかなかオツな演出と言うほかありません。
マジ、泣かされました!

(この後のチェインバーの行動の詳細については、もはや当記事では語りませんので、ぜひ作品を視聴していただくとして)本来、戦いだけが日常であった元の世界では「パイロット支援啓発インターフェイスシステム」であるチェインバーのAIにとってのレドが上げる「最大の成果」とは戦闘を通じた軍功でしかなかったはずです。

それなのに、チェインバーがここで「最大の成果」の意味付けを変えてこういう判断に至るのは、チェインバーもまた地球に来てレドの行動を支援する中で得たデータの学習によって「変わった」証拠だと言えます。

チェインバーにこのようにさせることを通じて、ガルガンティアに来てからのレドの行動・体験・戸惑い・葛藤……そのすべての今までとこれからを肯定する、人間的であたたかい流れだったわけです。

あと、見方を変えると、超管理社会の住人だった主人公が別の社会の自由な価値観に触れて自分を見つめ直し新しい生き方を見出していく……というのは『フレッシュプリキュア』のイースと重なるところもあります。

あるいはチェインバーの台詞は、『スマイルプリキュア』で妖精キャンディが言った「大切なことは自分で考えて自分で決めるクル~」と通底しているとも解せます。

私たち自身、じつは怠け玉の中にいて、戦わなくてもいい対象との戦いを強いられることも含めた「管理された自由」に甘んじているのではないか?――という示唆が、スマイルプリキュアから今般の翠星のガルガンティアへ連なっていたのだとしたら、それは2013年7月の参議院議員選挙の投票行動を考慮する上でも、極めて重要だったのかもしれません。

ともあれ、大義のために命をかけ自己犠牲も厭わずに戦うんぢゃなくて、みんなでいっしょに生きていくことこそが大切、そのために戦う…というスタンスは、プリキュアシリーズではデフォルトなのはもとより、ロボットアニメでも輪廻のラグランジェのような近例がありますが、それを男性キャラが主人公なガルガンティア結末で描いたのは大いに意義深かったと言えるのではないでしょうか。

かくして『翠星のガルガンティア』は、丁寧な演出、細かな描写のこだわり、繊細でみずみずしい人間ドラマ、爽快感のあるメカアクション、結末に込められたメッセージなど、そのアニメ作品としての完成度は高く評価しうると言ってよいものとなりました。

ありがとう、『翠星のガルガンティア』。
感動した!


そして……

 BL130813grt08.JPG


   

………そして、そんな翠星のガルガンティア、

5話問題」だけが残りました。


そう、

『翠星のガルガンティア』5話では、地球での生活にも少し慣れてきたレドが、ガルガンティア船団の中で求職活動をしている折、ふとしたことからニューハーフのお店のある区画に迷い込んでしまい、そこでニューハーフの人たちから「カワイイ男の子」として目をつけられて猛アタックを受ける……という展開があるのです。

まぁそりゃ、相当な人口を抱えているだろうあれだけの大船団。ニューハーフのお店のひとつやふたつあるのが自然なのでソコは悪くありません。

しかし登場するニューハーフの人たちの描かれ方があまりにも類型的で、悪意に立脚した偏見に基づいて巷間ながらく流布してきたイメージそのままのヒドい「オカマ」描写なのです。
むしろ実際のステレオタイプのほうが、今どきならもっとマシだとさえ言えるかもしれないくらいです。

ビジュアル的にも然り、そして「見境なく男を襲う」という行動の面でも。

 BL130813grt09.JPG

 BL130813grt10.JPG

 BL130813grt11.JPG


この描写では、明らかに船団の中でもイロモノ扱いでしかなく、それを安易にああいう形でストーリーに絡ませるのは、ニューハーフをスタジオに呼んでイジって笑いものにして終わるバラエティ番組と同じレベルです。

セクシュアルマイノリティについて最新の情勢をよく調べもせず、ステレオタイプな古いイメージだけで捉えることは、特にメディア表現に携わる人においては、厳に謹んでほしいところなのですが、あれだけ完成度の高い『翠星のガルガンティア』作品中にあって、あの「オカマ」描写だけが、なぜあのようにあまりにも類型的なイメージをそのまま引き写した作劇になっているのか、これはまったくもって理解に苦しむより他ありませんでした。

それでも5話が、他回とは全く雰囲気の異なる独立性の高い完全ギャグ回として割り切られてたならまだしも、あのとき登るクレーンタワーはじつはクライマックスで重要な存在となる「天の梯子」だという重要伏線回ですし、そうとも言えません。

あんなシーンを見せられた直後では、セクシュアルマイノリティのひとりとしては、せっかくクレーンタワーのスプリンクラーの散水で美しく「虹」がかかる描写があっても、虚しく感じると言わざるをえなかったです。

何より、セクシュアルマイノリティの現状についてロクに調べもせず、一昔前の「オカマ」表象を安直に使用して面白おかしいプロットに仕立てることは、差別的なイメージを再生産するという点で人権問題なのに加えて、この作品のテーマからしても大問題ではないでしょうか?

例えば1話ではレドが「生殖の自由」に対してよくわからない旨を発言しています。
なるほど、専ら戦うことだけが全てな中では「性」について考えることも自分のセクシュアリティを追究する機会もなかったでしょう。

戦うことだけが全てな生活だったレドにとって、地球で出会ったガルガンティア船団の人々の暮らしはまさにカルチャーショッキングで、そこから「生きる」ということの喜怒哀楽を学び、少しずつ自分を見つめ直していくのが物語の縦糸だったはずです。

その中にはむろん「性」も含まれうるわけで、6話のお祭りの際に、修理屋を営むピニオンから「(誰かから管理された人生ではなく)自分自身の欲望(が大切)」と言われる背後で、エイミーたちが随分とセクシーな踊りを披露しているのも、そういうこととして意味があるものです。

…であるならば、レドが人間のさまざまなセクシュアリティのありように触れ、この社会では人々は【多様な「性」と生きている】ことを知るということも、この作品が描くべき重要なモチーフであったはずなのです。

戦闘に不適性な者は淘汰されてしまうというレドが元いた社会の設定は、多様性の尊重に対するアンチテーゼでありましょう。
したがってセクシュアリティの多様性、多様な「性」のありようを描くこともまた、このアニメはしなくてはならなかったのです。

あれだけ大きく人口も多いガルガンティア船団。そりゃ一定数のセクシュアルマイノリティもいるだろうしニューハーフの店があっても不思議ではない。
ちゃんと取材した成果を元にその様子を描きレドと絡ませることでテーマをさらに深く掘り下げることもできたのに、なのになぜ、あんな安易でイイカゲンで不勉強な描写に陥ることで、その重要な使命を放棄したのでしょうか!?
もったいない!

とにもかくにも、あれほど演出が丁寧/描写が細かな『ガルガンティア』にあって、5話の「オカマ」描写だけが突出してイイカゲンです。

全体の出来が良いだけに理不尽なものを感じます。

まさか、「オカマ」描写など凝る必要さえない……というわけでもないでしょう。

もしかしたらこれも、最終回までに何らかの展開がある、そのための意味のある伏線なのでは? という可能性も検討しました。

8話でリジット新船団長が受け継いだ謎の鍵アイテムがじつは旧文明の遺跡の何らかの「装置」を起動するためのもの(…というのは、本当にそのとおりだったものの)で、その起動のための「儀式」の際に、あのニューハーフの人たちが再登場して【異世界とつながる巫女】の役目を果たしたりしたら、意味はなくはないでしょう。
現代の地球においても、インドのヒジュラが宗教儀礼に携わることがあるように、女でも男でもない存在に人を超えた人としての神秘性を見出す事例は、世界各所に見られます。

が、実際にはそういうこともあったとは言い難いです。

公式サイトを再チェックしても、やはり深い意図があったようには見えず、3頭身アニメのコーナー「ぷちっとガルガンティア」の5話相当回の内容でも、「オカマは見境なくイイ男を襲いたがっている連中」という偏見が補強されていたくらいです。

そういえば『翠星のガルガンティア』DVD&BDのテレビCMでも、番組オンエア後期では、5話の例の場面が抜き出されて使われていました。
その時点では、すでに多少なりとも批判は出ていたはずなのですが、公式ではこの件についての問題としての認識が未だ甘かったと言わざるを得ないのかもしれません。

てゆーか、このような状況では、テレビオンエア全話を通じた現時点では、元々人間だったヒディアーズはコミュニケーションもできるかもしれない共存共栄可能な存在だけど、「オカマ」は単なるおぞましい化け物……ということになっちゃってますよね?


そんなわけで『翠星のガルガンティア』5話の杜撰さに対してこそ相応しいであろうこの言葉を、今こそ言うべきでしょう。

_人人人人人人人人人人人人_
> こんなの絶対おかしいよ! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄


…そして最後にシメの言葉はチェインバーから杉田ボイス(※チェインバーAI音声役の声優・杉田智和さんも絶妙の好演でした)でw

翠星のガルガンティア5話は、差別的な表現が人権上問題であるばかりか作品全体のテーマ性をも根幹から揺るがしている。DVD&BD収録前に全面的な改訂をおこなうことを提言する

  


なお、以上のようなことをツイッター上で先行してひととおり述べた(→佐倉智美ツイッター →同ツイログ →本件についてのツイートの一部が採用されているtogetterまとめ後に、最終回ラスト事後談パートで例のニューハーフさんたちが、対立陣営だった人々をガルガンティア船団に受け入れる際の案内係として働いてる様子が描写されてたというご指摘をいただき、それにしたがって録画を再確認すると、そのとおりでした。

最終回の最後の最後の、僅か2秒ほどのカットに遠景で後ろ姿のみなので見逃してしまいかねない(実際ワタシ当初は見逃した)し、5話での扱いを考えると、やっぱりこれですべて解決というわけにもいかないでしょうが、さりとて一瞬でもフォローがあったとは言えるかもしれません。

他船団の人たちとの仲介という役どころは、上述したように、女でも男でもない「境界性」を神秘的な特殊能力とみなして異界との接点となる立ち位置を任されていると解釈すれば、ワタシが期待したとおりの描写が入れてもらえたとも言えなくはないです。

 BL130813grt12.JPG


これはまた、一般的な視聴者にどこまで伝わるかは疑問ではあるものの、ガルガンティア船団ではいかなる「オカマ」の存在も多様性の一環として受け入れられている描写だというふうに深読みもできなくはないでしょう。

たしかにトランスジェンダーの「ノンパス」をも許容できる社会のほうが、よりおおらかで生きやすい……ってのは一面の真理です。
「パス」が重要になってしまうような現状があるとしたら、そんな相互行為秩序のほうを書き換えることも、私たちの現実社会には求められているはずなのです。

そして、その意味でも、もしも類型的なビジュアルの「オカマ」を映像作品に登場させるのであれば、私たちの現実社会における偏見とは位相が異なる視点での描き方を、いかに作中で工夫するかがポイントになってきます。
ソコでしくじると単なる偏見の再生産映像になってしまいますが、逆に上手く新しい観点を創造することができれば、それはひとつメディア表現が社会を変える力を持つ瞬間になる可能性もあるのではないでしょうか。


コメント(0)  トラックバック(0) 

コメント 0

コメントの受付は締め切りました

トラックバック 0

 
§ amazon.co.jp へのリンクウィジェット跡について §
佐倉智美の著作や記事中で言及・紹介したコンテンツ等にアクセス・購入される際の便宜として各所に配置しておりました[amazon.co.jp]へのリンクウィジェットが、仕様変更で機能停止して現在はウィジェットがあった跡の枠だけが表示される状態です。ご留意ください(一部については撤去・改修済み)。
なお代替となるリンクウィジェット集も新設しましたのでご活用ください。
→[「佐倉智美の著作一覧」佐倉ジェンダー研究所web令和本館 ]