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[1:聖闘士星矢Ωの迷宮]プリキュア時代の「男の子アニメ」の困難 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

2年間にわたってオンエアされた『聖闘士星矢Ω』が、去る2014年3月、最終回を迎えました。

最終話をチラ見した限りでは、新旧キャラ総出演での大団円を迎えた模様。
まずは良い形でのエンディングだったと言ってよさそうです。


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§画像は放送画面より。以下この一連の記事中同じ


……とはいえ、じつはワタシは視聴脱落組
放送開始から半年ほどで視聴モチベーションが切れてしまっており、2012年の10月からの「新十二宮編」よりこちらは要所要所でどんなことをやっているのか確認はしたものの、それが視聴モチベを再燃させるには至らず、そのままオンエアのほうが終わってしまった形です。

なぜ、そんなことになってしまったのか?

細かい点はいろいろ挙げられましょうが、要するに、原因をひとことで言えば、やはりこういうことでしょう。
プリキュアシリーズの盛り上がりで割を食った――。

なにせ同じ日曜日の朝、2時間後には『スマイルプリキュア』や『ドキドキプリキュア』をやっていたわけです。
そこでは主人公たちが「聖闘士星矢」の世界と同じように等身大装着系変身によって悪役とのバトルアクションを繰り広げており、友情・努力・勝利の物語が描かれていました。

つまり「聖闘士星矢」で見たいものは「プリキュア」でじゅうぶんに供給可能であったのです。

実際、『スマイルプリキュア』23話などは、中盤の「暫定最終回」とも呼ばれ、その充実したアクションにも裏打ちされた熱い展開が高く評価されているところですが、この回のシナリオは典型的に、じつは「聖闘士星矢」にも――囚われの身だった妖精キャンディが女神アテナで、それを助けに行くプリキュアたちが聖闘士だと置き換えれば――問題なく流用可能なものでした。

逆に言えば、「聖闘士星矢」的な物語のエッセンスを今の時代に合わせて消化吸収し、発展的に継承するという仕事をもしているのがプリキュアシリーズだと解することもできます。

いわば、本来この時代に『聖闘士星矢Ω』として描くべき物語を、より適切な形で描写してしまったのが『スマイルプリキュア』(およびその後番組の『ドキドキプリキュア』)だったのではないでしょうか。

こうした危惧は、番組開始当初からないではなかったものの、最初期には、いわゆる女聖闘士ユナの仮面問題の扱いなどに代表されるような見どころも少なくはなかったです。
(→「新世代の聖闘士星矢はじまる!」)

しかし、いかんせんプリキュアシリーズを見慣れてしまうと、せっかく集めたコスモクリスタルが、それを収納する「箱型アイテム」のパワーアップアイテムとしての登場(笑)を見ないまま、取り扱いが回収されてしまったのは、何やら肩透かしを食らった気分になってしまうものです。
こうしたことが冗談の域を超えて物足りなさにつながるようなことは、地味にじわじわ効いていたのではないでしょうか?

また反対に、もっとハードな「男の戦い」を期待する層に対しては、『Ω』の展開は何やら生ぬるい・甘いと感じられることもあったやもしれません。
(→「聖闘士星矢Ωがプリキュアみたいなのではない」)

つまるところ、位置づけが中途半端。
むしろ、もう少し思い切ってプリキュア寄りの展開を取り入れるか、さもなくば少年マンガ原作の(例えば『刃牙』みたいな)マスキュリニティをを前面に出した格闘ものと割り切ったテイストに徹するか。
いずれかの道を明確にしないと難しかったのかもしれませんね。


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もとよりオリジナルの原作コミック『聖闘士星矢』は1980年代の作品。
少年ジャンプへの連載開始時期的に見れば、ポスト『キン肉マン』、ポスト『北斗の拳』として期待された作品です。
時代背景的にはバブル経済の絶頂期へ向かって景気がのぼりつめようとしていた頃合い。

そんな当時の少年マンガのトレンドは、戦いが自己目的化した、延々と続く格闘自体を楽しむもの。
当時ワタシが卒論の資料にと読んでいた『新人類がゆく~ニュータイプ若者論・感性差別化社会へ向けて』(アクロス編集室編著 PARCO出版 1985)でも、次のように述べられています。

『キン肉マン』の闘いにも『北斗の拳』の闘いにも目的がない。
……キン肉マン……の闘いはリングの中で繰り広げられ……テレビ中継までされる……。「地球を守るための闘い」という部分には、ほとんど意味がない。彼らは闘うために闘っているのであり、面白いのはどんなキャラクターが登場してどんな技を使うかなのだ。
……『北斗の拳』の闘いもまた、闘いのための闘い。究極的な目的などない。『北斗の拳』の面白さもまた“北斗神拳”というワザそのものの中にある。
(p.171~172)

このような趣向のジャンル自体は、それはそれで面白いものでしょうし、これが1980年代に限られた特色なのかどうかも検証が必要なところです。
とはいえ『聖闘士星矢』もまた、こうした路線の延長上にあるのは否めません。

実際、女神アテナを守って戦う聖闘士といっても、守らなかったらどうなるのかという点は、じつはけっこう抽象的です。
聖闘士となる少年少女たちひとりひとりの戦士である意味・動機付けの部分も、どこか曖昧で漠然としています。
何より聖闘士である少年少女たち自身には「守るべき大切な日常」がありません。

そうしてこの点が、今日における日曜朝のアニメの原作としてはフォーマットが古いという問題を醸し出していたというのは大いにありえます。

先述の『スマイルプリキュア』23話のシナリオはキャラクターを置き換えれば聖闘士星矢としても流用可能という件ですが、その前段、22話の後半に目を向ければ、そこでは主人公たちが一時的な敗北を受けて、自身がプリキュアである意味を問い直し、自分にとって何が大切で、何を守りたいのか、そして今どうしたいのか? そのためには仲間とどのようにつながりたいのか? を内省する展開が時間をとって描写されています。

このことは「守るべき大切な日常」(とソレに立脚した「仲間」)を持つプリキュアシリーズの主人公たちだからこそ可能な描写であり、例えば「聖闘士星矢」の枠組みでは、ちょっと考えづらいプロットだったと言えるでしょう。

これがまた、2012年度という、震災の傷跡も生々しい時代状況の社会において、視聴者のニーズにマッチしていたことは想像に難くありません。


   


むろんこれらは「個人の感想です」の範疇を多分に含むところではあります。

しかし、ひとつ確実に言えるのは、2014年度には10周年を迎えたプリキュアシリーズが、すでに女児向け「女の子アニメ」の既成概念を大きく超え、幾多の「少年マンガ」「男の子アニメ」の要素を取り込みながら成長を遂げ、日本を代表するヒーローものの一角を占める地位に至った現在においては、既存の「男の子アニメ」シリーズも安穏とはしていられないということです。

かたや「女の子アニメ」、こちらは「男の子アニメ」だから……という区分はもはや何の根拠もありません(ので、一連の本稿での当該表現も、あくまでもあえての便宜上のものです)
同じ土俵で競いながら切磋琢磨しあい、プリキュアシリーズの優れた部分は取り入れていかないと「男の子アニメ」も時代から取り残されてしまうにちがいありません。

というわけで、次記事からもしばらく、この問題を順を追って考えていきたいと思います。

◎上述の『スマイルプリキュア』23話付近では、プリキュアに力を与えている源がメルヘンランドの伝説の聖獣「ペガサス」であることが判明し、23話でのパワーアップによる新必殺技では背景のイメージ映像に星座のペガサス座もあしらわれるのですが、これがまた「聖闘士星矢」とモチーフがカブるという事態になっていました。
『ドキドキプリキュア』でも最終回においてキュアハートが変身した最強フォームである「パルテノンモード」というのが、どうやらギリシア神話の女神アテナの鎧に元ネタがあるらしく、同様に「聖闘士星矢」とのモチーフカブりを起こしていました。
このあたり、制作側がどこまで意識的に何かを暗示しようとしていたかなどは不明ですが、結果的には、ある種の象徴的な符合なのかもしれません。

◎『キン肉マン』や『北斗の拳』では、キン消しバトルや「北斗の拳ごっこ」を通じて、作品世界が読者の日常生活と地続きになる現象が読み取れる旨、前掲書では指摘されています。これはまた別口で、今日にも続く興味深い切り口だと言えます。


 
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