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「ジェンダーとは何か?」をあらためて考える [多様なセクシュアリティ]

ジェンダーとは何か?」。

…………いやぃやいゃいや!
な、何をいまさらっ!?
(^o^;)

たしかに「ジェンダー研究所」を名乗って延々とさまざまな薀蓄を重ねてきたwebサイト上で、この期に及んで、まさかそんな基本的な大前提を再確認されても困るというものです。

今どき大学の廊下を少し歩けば、社会学系の学生どうしが、
「卒論テーマ、決まったん?」
「ぅん、やっぱり[ジェンダー]にしょうかなぁって思うねん」
……なんて会話をこともなげにしていたりさえします。

少なくとも、教養科目のどこかあたりでこの言葉を知る人は、もはや少なくはないでしょう。
ワタシが学部学生だったン十年前にくらべれば、「ジェンダー」も随分と人口に膾炙したものです。

ですから、
社会的・文化的に 構築・強化された 性別・性差 】、
ジェンダーとは何かと問われれば、このあたりの「教科書的な意味」については、相当数の人々の間で共有されていると考えるのも、そうそう差し支えのある話ではないでしょう。


しかし、そのような状況だからこそ、逆になんとなくわかったつもりになっているだけということもありえます。
人によって捉えている意味がまちまちで、そのバラつきに結構な幅があったりする可能性も高まっているでしょう。

だいたい、「社会的に強化」されるとか「文化的に構築」されちゃうというのはどういうことなのか、はたまたそもそも「性別」とは何のことで、「性差」とは何を指すのかなどなど、つきつめだすと、たしかによくわからない。

上述の大学の廊下での学生の会話にしても、「ジェンダー」が社会にあまねく張り巡らされている性別にまつわる秩序であり体制であるとすれば、それは当然に世の中のありとあらゆる物事と関わってきますから、たとえ「卒論を[ジェンダー]にする」と決めたところで、それは調査や分析の観点が性別・性差に着目したものになるという方針が決まっただけで、では具体的なテーマとして何を研究するのかという点は、じつは未だほとんど何も決まっていないようなものではありませんか。

そういう意味では、むしろここらへんで今一度、「ジェンダーとは何か?」について、軽く再考しておくのも悪くないはずです。

もちろん本記事が、読めば「ジェンダーとは何か」についてのすべてが理解できる、そういうものとしてまとめられるわけでもありません。
……例によって、むしろよけいに「わけがわからなくなる」かもしれません(^o^;)。


とはいえ、それこそ大学の「ジェンダー論」の授業の序盤3回分くらいに相当する内容をガッツリ叙述するのは、この場ではダルすぎます。

なので、

→元々は「男性名詞」と「女性名詞」の区分がある言語圏で、その名詞の「性別」概念を表す語が「ジェンダー」だった

→20世紀のフェミニズムの進展の中で、生物学的な男女の差異とは別に、それを補完・強化するものとして、社会的につくられた人を男女で分けて捉える体制・文化として規範化された性差意識等々が存在することが可視化され、生物学的性別「セックス sex 」に対して「ジェンダー gender 」と呼ばれはじめた。

……といった(超ザックリした概論)あたりは、もう飛ばしてイイですね? (^^ゞ

思えばシモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれない、女になるのだ」という言葉は、後年において「ジェンダー」の語が充当されることになる概念を、その「女」の立場から先見的に言い表していたと言うこともできるでしょう。

ただ、gender の概念と語の使用に関しては、細かく見ると各分野ごとに相応の異なった経緯もあるようです。
また、例えば英語圏での[ gender ]と日本語圏での「ジェンダー」では、やはり意味合いが必ずしも完全一致しない現状となっていて、「誤訳だ」との指摘も出ています。
実際には、日本に移入された時点以降、さまざまなところで使用され普及する過程で、日本語(の外来語)として独自に発展を遂げたというところでしょう。
同様の用法の変化が欧米でも起こっている可能性もまた否めません。

また、生物学的な「セックス」としての性差以上に、「ジェンダー」として社会的・文化的に構成されている性別制度のありようや規範化されている性差の、具体事例としてどのようなものがあるのかについても、本記事ではあらためてとりあげることは省かせていただきましょう。

◎1点だけ、前記事(およびそれに連なる6記事)などとの整合性で補足しておくと、テレビの子ども番組なども、対象を男児女児で分けて制作され、各々が異なる内容となることで、結果的に男児か女児かで異なるメッセージを受け取ることで性差が社会的文化的に構築・強化される状況のもとにある、という「ジェンダー」問題の典型例でした(が、近年は「ジャンル・プリキュア」とでも呼べる作品群らによってそれが撹乱され、さまざまな変化も起きているのは時代の流れでしょう)



  


いずれにせよ、生物学的に明白な身体的な性別である「セックス sex 」がまずプラットフォームとして存在し、それに対して、そうした基盤上で展開する「社会的・文化的」な要因によって後天的に構成される性別にまつわるあれこれが「ジェンダー gender 」……という認識は、ここまでの「基礎的なレベルの説明」としては定石となっています。

このテーマについて語る際に共有される、いちおうのコンセンサスとして無難な基本線と言ってもよいでしょう。
これを守っていれば、初学者がいきなり「わけがわからなく」なったりすることも避けやすくなるというものです。

問題はここからです。

はたして それでよいのでしょうか?

「セックス sex 」と「ジェンダー gender 」は、本当にそういう位置関係なのでしょうか??

つまり、「社会的・文化的」な性別にまつわるあれこれであるジェンダーの問題は社会や文化のありように応じて可塑的なものであり、それゆえにフェミニズムなり男女共同参画なりのテーマに応じた議論の俎上に乗せうるものである一方、生物学的に女であったり男であったりすること自体は確固として存在する事実であって疑う余地がない……という前提には間違いはないのだろうか!? ということなのです。

生殖にかかわる身体のタイプというものはたしかにあります。

しかしそれはあくまでも「タイプの違い」。
有性生殖において、小さい配偶子を出すほうか、それとも大きい配偶子を担うほうか。
あくまでも、それにまつわる「タイプの違い」
それ以上でもそれ以下でもありません。

なのに、その違いを「オスとメス」と概念化し、さらにはそれをヒトの社会生活にとっても重要な「男と女」という性別の区分にまで発展させているのは、結局は人間による後天的な解釈ではないでしょうか。

だとしたら、それも――「生殖にかかわる身体のタイプ」を基に分かたれる「男と女」もまた「ジェンダー」ということになります。

だいたい生物学的性別とか言っても、そもそも「生物学」だって人間社会の文化の所産のひとつです。
そこでの知見が人類による解釈をまったくまじえない純然たる普遍的真理(というものがありうるかどうかは問わないにしても)であるかは大いに疑わしい。

こう考えると、「セックス sex 」と「ジェンダー gender 」を二項対立的に対等なものとして並列的に配置して認知するのは、大変に誤りだということになります。

すなわち、「生物学的に明白な身体的な性別」とされるものもまた、べつに人が生まれつきその「性別」で生まれてくるわけではなく、出生時に「生殖にかかわる身体のタイプ」にもとづく身体の特定部位の差異を目視で判断(が可能でないケースももちろんあるが)した結果を根拠として、社会が、その文化の基準に則して各人に付与していたものにすぎなかった、と考えることができるのです。

まずは人間社会に、「性別」を「男と女」として認識する文化的な価値体系があり、それを概念化している言語体系があり、それに基づいた現実認知のプロトコルが敷衍されているがために、それを通して見たときには、じつは単に「生殖にかかわる身体のタイプ」による差異にすぎないものを、「男と女」という「性別」であるかのように捕捉することが、あたかも真理であるように見えるだけ――と言い換えてもよいでしょう。

少しばかり「応用編」なジェンダー論の講座になると、元はジョーン・スコットの論考に起源する「ジェンダーとは『身体的差異に意味を与える知』」という定義が紹介されることもあるかもしれませんが、この言葉などは、このような考え方をふまえて初めて腑に落ちるものとなります。

ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』――非常に難解な本で、バトラーの論を正確に理解するには哲学などの知識も必要になりますが――に記した「セックスは、つねにすでにジェンダー」という知る人ぞ知る言葉もまた、この系譜に連なるものです。

そうして多くの人がこれらにインスパイアされ、今日では、こうした考え方も相応に広まってきているところです。

このように、「セックス sex 」か「ジェンダー gender 」か……ではなく、「なんだ、全部ジェンダーだったんじゃん」と解することで得られる視点の転換の意義は、ひとつ大きなポイントとなるのではないでしょうか。

◎なお、人は「性別」が身体的に確定した状態で生まれてくるのではなく出生後の解釈によって「男」or「女」という社会的属性=ジェンダーが付与されるのだ……という考え方に沿って、このように各人に(社会によって)付与されている「男」or「女」という「性別」属性自体のことを「ジェンダー」と呼ぶような表現も存在します。
例:「女というジェンダーを生活する」/「男ジェンダーに対して特に…」


「ぃや~、そうは言っても、やっぱり男と女では、まずは身体から違うし……」

たしかに、このあたりでそういう感想も出る頃合いかもしれません。

しかし、だからこそ、なおのこと私たちの社会における「男女」という指標を相対化する意義があるのです。

現に私たちが生きる社会システムが「男女」を区別する前提で構築されている以上、あらゆる物事を「男と女」という補助線に沿って捉えるほうが、理解しやすいのも事実です。

しかし、それこそがまさに物事の別の見え方を見えなくしているとも考えられないでしょうか。

ニクラス・ルーマンが言うところの観察上の盲点ということになりましょう。

ルーマンの「社会システム論」の言を借りるなら、ジェンダー問題においても、何がシステムで何が環境かは相対的なはずです。
単純に切り分けることは、むしろ複雑に絡み合った本質を捨象してしまうことになるでしょう。

結局のところ、「ジェンダー」にまつわるあらゆる事物は社会のシステムであり、「生物学的に明白な身体的な性別」とされるものであっても、その外部にアプリオリな環境として存在するわけではないと考えられます。


◎ルーマンの名が出たところで、ついでに言及するなら、本来はひとりひとりの性のありようは多様で混沌としているのに、ソコを「男女」という二元的性別制度に回収し、その男女間で恋愛や性行為をおこなうことを規範化する異性愛主義が、この社会でシステム化されていることには、ひとつ「複雑性の縮減」の機能があることは考えられます。
たしかに、それによって多すぎる可能性が整理され、選択肢が選びやすく提示されて助かっているケースも少なくないかもしれません(じつはそのように「複雑性が縮減されている」状態こそが、まさにルーマンが「複雑性の縮減」で言うところの「複雑性」だというのが後期ルーマン理論の核心なのでは……というような話は、とりあえず置いといて;)。
ただ、その「縮減」のされ方に不合理があると判明したならば、何らかの改良が施されることもまた不可能ではないはずです。社会のシステムであって、アプリオリな環境ではないのですから。


   


さて、ここで「ジェンダーとは何か?」について、もうひとつだけ、重要な観点を挙げておきましょう。

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の要諦として、先の「セックスは、つねにすでにジェンダー」と、表裏一体的に双璧をなすのが、「ジェンダーはパフォーマティブ――行為遂行的なもの」ではないでしょうか(これもまた難解なせいで各所にて誤解もあるようですし、ワタシ自身キチンと理解しているかはアヤシイですが;)。

人間は社会的な動物ですから、個々人のさまざまな特性に対する意味付けも、社会のいろいろな場で交流する他者とのやりとりのうちにおこなわれます。
必然的に「性別」にかかわることも。

そして、ここでアーヴィング・ゴッフマンらの相互行為論などもふまえれば、社会関係の場で呈示される自己というのは、他者に認識され解釈されてはじめて意味を持つわけですから、各人の性別についての自己表現の呈示もまた、互いにやりとりする相互作用の中にのみ成立することになります。

例えば、社会通念に則して「男らしい」あるいは「女らしい」行動をとった際、それが社会的に意味を成すのは、そのことを周囲がその意図どおりに受け止めて解釈してくれるからです。

周囲に自分の行動を解釈する他者がいてこそ「男らしさ」も「女らしさ」も成立するのです。

だから無人島でサバイバル生活をしているロビンソン・クルーソーには、いわば性別がないのです(無人島に漂着する以前の社会生活での知識に基づいて「男らしい」「女らしい」と自己解釈することは可能であっても、仮想的な他者の視点を設定し、それを通して解釈していることには変わりない)。

「ジェンダーは行為遂行的」というのは、概ねこういうことを言っていると解釈できるはずです。

上述したボーヴォワールの「人は女に生まれない、女になるのだ」になぞらえるなら、このバトラーの「ジェンダーは行為遂行的」というのは、いわば「人は女になるのではない、女をするのだ」と言っているようなものと考えられるでしょう。

私たちは日々の生活の中のさまざまな場面で、各自それぞれの場面に「ふさわしい」立ち居ふるまいを心がけることが社会生活上の配慮として求められます。
ゴッフマンらの論における「相互行為秩序」と呼ばれるものです。

これをみだりに乱すことは、「空気の読めない奴」等々の烙印を押されることにもつながるわけですが、そうならないように各々が注意を払うことで、実際には各場面がスムーズに進行し、全体がうまく行っているという現実もあります。

そして、この「ふさわしいふるまい」に性別がかかわるということは、各人が、その出生時に割り振られた「性別」に応じた行動を求められることとなり、多くの人がそれに従った行動をくり返すことで、その行動の「性別」に応じた「ふさわしさ」が意味付けされ直され続けるということでもあります。

主流化された「ジェンダー」規範情報に基づいて、その場の相互行為秩序を乱さないと思われる適切な自己呈示を互いにおこない、解釈し、評価しあう。
そうした、日々の社会生活の中で、行為され、演技されながら、再生産され続ける、性別にかかわる規範情報の大系が、まさに「ジェンダー」だと言うこともできるのです。

もちろん、これらに従うことで社会関係が円滑に動く側面もあるでしょうが、やはりこれもまた、本質的に固定されているものは何もなく、全ては社会における約束事なのであれば、時宜に応じて不都合を改めていくことは決して不可能ではないことでしょう。


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