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[1:男の子プリキュアへの中間回答]女の子は誰でもプリキュアになれるのか? [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「女の子は誰でもプリキュアになれる」。

元々は2012年3月公開の劇場版映画 プリキュアオールスターズ NewStage みらいのともだち』のキャッチコピー的な位置づけの言葉でしたが、その後も1映画タイトルの枠を越え、プリキュアシリーズ全体に通底するコンセプトとしても通用している言葉です。

番組を提供しているスポンサーの立場からすれば、テレビの前のチビっ子たちが「自分もプリキュアになれるかも!」と思ってくれるほうが関連商品の売上が伸びて都合がいいのです………などと言ってしまうと身も蓋もないですが、他方、子どもの発達課題として、テレビのヒーローに憧れ、自分もなってみたいと夢想する体験は、いろいろ得られるものも多く、望ましくもあるでしょう。

プリキュアシリーズ各作品の内容もまたそれに応えていて、各作中でプリキュアに変身することになる登場人物もバラエティに富んだチーム編成になっています。

見る前に跳ぶタイプの元気印を筆頭に、知性派お嬢様、武闘派や体育会系、引っ込み思案にツンデレさん……。

いろいろなキャラクターに、さまざまな個性が揃っているので、これならテレビの前の個々のチビっ子がどんな性格であれ、たいていの子には、その感情移入先として対応できるというものでしょう。

また、主人公らがプリキュアになるきっかけも、ひょんなことからしかるべき場面に出くわし、そこで「友だちを助けたい」とか「大好きなものを守りたい」といった気持ちを体現することに由来するのが、シリーズ各作にあてはまる通例となっています。

作劇上は番組開始時点で誰がプリキュアになるかは決まっているとはいえ、物語世界の中では、決して「前世の因縁」などによってすでに運命づけられていたりするのではなく(この点は「セーラームーン」先輩にくらべたときにプリキュアシリーズが進化していると言える大きなひとつでもあるでしょう)、あくまでも本人の行動が決め手となり、かつ本人の意志で主体的に選び取ったものとして描かれているのです。

すなわち、プリキュアになれるかどうかは、個々人が心に持っている気概、ないしは日頃からの心がけのようなものがポイントとなっており、これは誰にでも可能性があるものです。

こうした点は基本的に現在放送中の2017年度の最新作『キラキラ☆プリキュアアラモード』にも、もちろん継承されています。


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※本記事中、画像は放送画面や公式のサイトからキャプチャしたもの


そうしたことゆえ、やはり作品を視聴している子どもたちもまた、自分のココロザシしだいでは自分もまたじゅうぶんにプリキュアになれると考え、そのことが作品内容を通じて否定されることはないという仕掛けになっているのです。

まさに、プリキュアに憧れる子どもたちには、誰でもプリキュアになる可能性が保障されているわけです。

ただひとつの、重大なモンダイを除いては――。

そう、「女の子は誰でもプリキュアになれる」とはいうものの、「女の子は」と言ってしまっていることによる、じゃあ例えば「男の子はプリキュアになれないのか!?」案件ですね。

 


もちろん、そもそも30年ほど前には基本的に女の子はヒーローになることから排除されている状況にあったことは踏まえられなくてはなりません。

息をするようにプリキュアシリーズを見て育った今の若い人にはピンとこないのかもしれませんが、当時のテレビの子ども番組では、変身して悪者と戦う主人公は男性に限定され、女性の登場人物はその周縁に存在するのみに留められるのが常識だったのです
(首尾よく5人チームの1メンバーとして入り込めたりしても、他の男性メンバーよりは一段低めに置かれるなど、実質的には同様の問題がありました)。

そんなこともあって、本来の語義的には「ヒーロー」の女性形である「ヒロイン」は、シンプルに「女性のヒーロー」を意味することにはならず、根本的な役割・物語中での存在意義が異にされていたという事実も見逃せません。

ありていに言って男性主人公の恋愛相手として意味づけられ、主人公の補助・ケア役割を担い、作劇上はしばしば敵に捕縛されて人質となりヒーローの足手まといになる役目を負っている、それが「ヒロイン」というわけです。

そういう状況は、21世紀の今日にあっては、ずいぶんと覆ったものです(そんな変革に至るプロセスにおいて「セーラームーン」先輩が果たした功績の大きさは正当に評価されないといけません)。

建前上は男の子向けとして制作されるヒーロー作品――戦隊ヒーローや仮面ライダー、あるいはウルトラマンなど――にあっても、今ではプリキュアシリーズで定石となった諸設定を逆輸入するなど、相互作用は小さくありません。
変身アイテムや武器アイテムの本質的な相同性や、ストーリーについても然り。

ただそれでも戦隊ヒーロー・仮面ライダー・ウルトラマンなどが、過去のフォーマットを改廃しきれずに、いまだに男性中心の構造をまとったまま続いていることもまた否定はしきれません。

現実世界の全体像に目を移せば、今なお女性を周縁化しようとする権力構造は社会の主流です。

そんな中での、いわばアファーマティブ・アクションとして、プリキュアのような女子限定ヒーロー番組は、たしかに現在でも存在意義を有しているのです。

そこを理解せずに「戦隊ヒーローには女性もなれるのにプリキュアが女子限定なのは男性差別!」などと叫ぶのでは、短絡的な女性専用車両叩きと同様に、あまりにも狭い視野での議論だと言わざるをえないでしょう。


しかし、そうは言っても《プリキュアに憧れる男の子》は、すでに現実にいます。

そこを「プリキュアは女の子だよ。男の子には戦隊やライダーがいるでしょぅ?」とばかりに性別を基準に仕分けして、そうした子たちの願いに応えないのもまた、ジェンダー規範に立脚して人を抑圧する構造であり、それを無批判なまま採用し、改革しないでいるのも不誠実なことです。

プリキュアシリーズも、ここまでこの点から逃げずに、いろいろな取り組みはしてきたのは認められるところです。

女の子が男性に頼らず自分たちでがんばるというアファーマティブ・アクションとしての意義を損なわずに、作中にどのように男の子たちを配置するかの工夫には、いろいろと苦心の跡も見て取れるというものです。


~~↓(2018/12/04)↓~~~~~~~

なお2017年度の後半『キラキラ☆プリキュアアラモード』の終盤近くになると、いろいろな経緯の末に(主人公らの近くにいる男子キャラだった)妖精ピカリオの人間態・黒樹リオがプリキュアと同等の変身態になって敵と戦うシークエンスが実現します。
「キュアワッフル」という名前こそ作中で公式に言及されるに至りませんでしたが、これもまた「男の子プリキュア」のひとつの到達点が示されたものと捉えられます。

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さらに翌2018年度の同時期になるとプリキュアシリーズの当該年度作品である『HUGっと!プリキュア』において、やはり主人公らの近くにいた男子キャラの若宮アンリが、元々もフィギュアスケーターであり中性的な為人なうえに、自分が良いと思ったものは女性向けとされるファッションであれ何であれ躊躇なく取り入れるスタンスの人物像の描写が重ねられた末に、相応の必然性のあるドラマを経て、プリキュアと同等の変身態を獲得します。
こちらは「キュアアンフィニ」という名乗りが作中で正式におこなわれた形がとられたため、「初の男子プリキュア」の誕生として一般紙報道でも取り上げられるなど話題になりました。

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~~~~~~~↑(2018/12/04)↑~~


それでも2017年現在、やはりいろいろ難しいのでしょう、男の子がテレビシリーズ本編レギュラー枠でフツーにプリキュアになるケースは、(『俺、ツインテールになります。』のように)変身したら性別が変わるような方策や、あるいはプリキュアへの変身者が男の娘であることも含めて、いまだ実現していません。

せいぜい、ハートキャッチプリキュアでキュアサンシャインに変身する明堂院いつきが普段は男装をしているというのが、性別撹乱的な前例として数えられるていどです。

 


ただ、この2017年度、この明堂院いつきの新たなる進化形が登場しました。
最新作『キラキラ☆プリキュアアラモード』の主要登場人物のひとり剣城あきらです。

その変身後の姿である「キュアショコラ」ともども、見てのとおりとても中性的で性別不詳感が漂っていま……

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………と言うよりは、むしろ非常にボーイッシュなキャラ造形で、積極的に男性であると誤認させようという方向性です。

演じる声優として元タカラジェンヌ男役の森なな子が配役されているのも、そういう制作側のねらいを反映していると推察可能です。

普段の服装も基本的にボトムはズボン。
私服ばかりか、他のメンバーとお揃いとなるべきパティシエ服もまた1人だけそうなっています
(他にも茶席で着物を着るシチュエーションや、海水浴での水着描写でも、あからさまに女性性を表象する装いは避けられている)。

学校のシーンでは所定の女子制服を着用していますが、そのスカート姿に激しく違和感を禁じ得ないのは、『プリパラ』のアニメでのレオナ・ウェストの男子制服姿と双璧を成すレベルでしょう。

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作中では実際に、筆頭主人公・宇佐美いちかから出会った当初はイケメンお兄さんだと間違われていたりもしました。
あまつさえ、あまりのイケメンぶりに軽く一目惚れ状態になっていたのが、ほどなく女性だと判明して「失恋」する展開も形式的には用意されていましたが、そこは2017年仕様、同性どうしの恋愛が自動的に否定されるような描き方にならないように最大限に配慮されていたのには、時代の進捗が伺えます。

加えて、キュアマカロンに変身する琴爪ゆかりと並んでいると、道行く人々等からはゆかりの「彼氏」だと認識されるという描写も複数おこなわれます。
いやはや「異性愛/同性愛」という軸線すら揺らぎますね(*^^*)。

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あきら自身、「よく(周囲からは男性だと)間違えられる」と説明していますが、その口ぶりはまんざらでもない様子で、「男っぽいこと」「女っぽくないこと」がコンプレックスになっているといった因習的な設定は取り入れられていません。

むしろ、自分はありのままの自分でいるだけなのに、見た目を根拠に勝手に性別を判断し、
それが生物学的な根拠と異なることに無駄なリアクションをおこなう周囲のほうが悪い……というスタンスでいるふうです。

明堂院いつきには、ある種のイクスキューズとして採用されていた「家庭の事情によって男装している」「じつは女の子らしいカワイイものが好き(だけどソレを我慢している)」といった設定もまた今般は導入が見送られています。

まさに【トランスジェンダーに理由は必要ないし「本当の性別」は存在しない】が、プリキュアシリーズにも採用された形になっており、おそらくは直接にはライバル番組である『プリパラ』におけるレオナ・ウェストや紫京院ひびきについての取り扱いを、制作側が相当に念頭に置いたのではないでしょうか。


  


そんなこんなで、この剣城あきらは、性別越境的な属性を持つプリキュア変身者として、すこぶる新しいキャラとなっています。

これは制作側が「男の子はプリキュアになれない」モンダイに対して、現時点において可能な範囲で最大限誠実に応えたものと捉えてよいでしょう。

すなわちキュアショコラは、プリキュアシリーズの枠内での「男の子プリキュア」のありようとして、この2017年度の現時点で暫定的に示された、中間回答のひとつだと言えるでしょう。

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さて、ということなので「男の子はプリキュアになれない」問題については一旦ここで置くとして、ではそれなら女の子なら本当に「女の子は誰でもプリキュアになれる」のか、について、ここで少し話を進めてみましょう。

まずは次記事に続きますノ


◇◇


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共通テーマ:アニメ

本当は恐ろしい「性の賞品化」 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

◇◇
モンゴル民話を元にした『スーホの白い馬』の絵本は、すでに名作の評価を受けて久しいでしょう。
小学校の国語の教科書に掲載されたこともあります。

ただ、これを今日において題材・教材に用いるとすれば、この2010年代に見合った配慮はほしいところです。

具体的にはお姫様が競馬大会の「賞品」に位置づけられちゃってるところ。
ナンですか、競馬大会で優勝すれば姫とケッコンできるって!?

あのくだりは話の本筋ではないせいもあって、わりとあっさりスルーされがちですが、うっかり肯定的に受け取られるのはマズいと言わざるを得ません。

この点についても、「仮に約束が守られてスーホが姫と結婚できて形式上はハッピーエンドになってたとしても、勝手に結婚相手を決められてしまったお姫様の主体性のほうはまったく無視だなんて、その点も現代の価値基準では許されないことだよね」という主旨の、何らかのフォローが切に望まれます。

女性の人格が軽んじられ、あたかもモノのように扱われる社会的文化的慣習は、まさに女性差別構造の根幹を成すものです。
いわゆる性の商品化の問題などとも密接に連関していると考えてよいでしょう。

その意味では『スーホの白い馬』のこのくだりは、逆にそうしたテーマの教材として抜き出して用いてもよいくらいなのではないでしょうか。

そのへんをわかったうえで、あえてサラっと流すという選択もなくはないでしょう。
教科書でも、20年位前のバージョンで、すでにわりと上手にボカしてあったりしました。

とはいえ指導する先生しだいでは、やはりどうしてもミスリードの危惧は拭えません。

作品に多角的にアプローチする姿勢は、やはり心がけたいポイントであります。
◇◇

  


……というような指摘は、わりとかねてよりしばしばしているところです
(本館メディアとジェンダー#015 漂流する名作-Wrong Love Letter」にも少し書いてます)

ただ、この話、入力する際には若干 気を遣うのですね。

上記文中をよく見てもらうとわかるのですが、「賞品」「(「性の商品化」の)商品」と、しょうひん》が2種類登場します。

コレは油断すると変換ミスが起きやすいシチュエーションで、うっかり間違ったままにしてしまうと文意が伝わりにくくなってしまう、地味に致命的な失敗となってしまいます。


…………で、そんなことも考えていて、ふと思い至りました。

「性のしょうひん化」といえば通常は「性の商品化」ですが、もしかしてソレとは別個に、じつはこの社会には性の【賞品】化の問題が存在しているのではありませんか!?

たしかに「競馬大会で優勝すればお姫様と結婚できる」というような意味あいでの「性の【賞品】化」であれば、いわゆるフェミニズムが訴えるところの「家父長制」にかかわる案件でもあり、そこからは「性の商品化」へも地続きであり、その意味では「性の賞品化」という表現は日本語での言葉遊びの域を出ないでしょう。

では、しかし本当に当事者どうしが主体性を持って自由恋愛に基づく意思に従って結ばれる仕組みであれば、みんな幸せになれるのでしょうか?
「愛し合う者どうしの結婚」や「愛のあるセックス」なら、まったく問題はないのでしょうか!?

そう考えていくと、ソコもまたいろいろ疑義が挟まるところだと思われます。

ざっくり言って、この社会には「男らしさ/女らしさ」規範が強固に敷設されています。

そこでは誰もが「女」「男」いずれかの属性を付与された上で、その付与された属性に応じて期待される役割をプレイすることを強いられています。
いわば「男らしさ/女らしさ」規範という名のゲームです。

そんなゲームのルールのなかで、たまたま資質に恵まれてハイスコアを出した人から順に与えられる prize に位置づけられているのが 恋人~配偶者 ………というふうに、さぁ、なってはいないでしょうか。

それが男女二元的な性別規範異性愛主義に則った現行社会のシステム。

つまり、異性が1人ずつでつがいとなる結婚を自明視した社会通念に則った公の社会制度と、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの悪魔合体で、私たちの「性」があまねく【賞品化】されている……。

換言すれば、この社会では、性愛はすべからく【賞品】として供給されている/性愛の供給はすべて必ず【賞品】としてのものこそが正統で尊いものとされている……。

誰もが社会生活にコミットする限りは、このシステムから逃れられない以上、コレは万人の行動をいつもどこでも規制する結果になっている、けっこう根が深い厄介な問題ではないでしょうか。

この恋人~配偶者という名の賞品としての性にありつくために、誰もが「男らしさ/女らしさ」ルールを遵守するために汲々ととしないといけないのです。

しかも、なんとか上手くやっていける人ならともかく、それが不得手な人にあっては、このゲームをプレイするしか社会に居場所がないという状況は、すざまじい抑圧として機能することでしょう

人文書院「フリーターズフリー 02号に収録されている森岡正博による論考「『モテないという意識』を哲学する」で述べられているような、非モテ男性が人生をネガティブに拗らせていく負のスパイラルに陥る背景などに対しては、まさにこの「性の【賞品】化」概念を当てはめることで適切に名付けができるようにも思えます)

いわゆる非モテの問題はもとより、あらゆるジェンダーやセクシュアリティにかかわる社会問題の源泉がここにあると言っても、あながち過言ではないかもしれないくらいです。


 


というわけで、この「性の【賞品】化」という観点はなかなか有用な気がします。
「家父長制」と重なる部分もあるとは思われますが、そのエッセンスも取り込んだ、より広い範囲を表しうる言葉として、かなり有望なんじゃないかなぁという期待はしてよさそうです。

それに「性の賞品化」の文脈においては、単純に「性の商品化」を問題にする場合には《良いもの》《尊いもの》《正しいもの》の側に回ることが自明視されている「愛し合う者どうしの結婚」や「愛のあるセックス」も無謬ではいられず、その背景としてのロマンティック・ラブ・イデオロギーや、基底にある男女二元制と異性愛主義を覆していく変革の未来さえ展望できそうです。

だいたい、性がもっぱら非売品である「賞品」としてしか手に入らないというのはきわめて封建的だという見方もできます。
近代市民社会であるなら、むしろ性はすべて商品として売買されるのを基本にしたほうが自由で平等で民主的だという考えにも一理あるというロジックも成り立つでしょう。

(「性の商品化」において、セックスワーカーの人権が軽んじられたり、あるいは公の場所で例えば「女性」だけが一方的に「見られる性」と位置づけられた表現物が特段の必要も必然もないのに不特定多数へ向けて掲出されるといったようなことは、やはり不均衡な状況でしょうから、避けるための方策が議論されるべきなのはもちろんですが)

現状をドラスティックに覆すことを実際におこなった際の混乱は斟酌されるべきにしても、少なくとも思考実験のツールとしては、この「性の【賞品】化」概念は、ちょっと普及させてみたいですね。

そこからいろいろなものが見えてくる可能性は、じゅうぶんに秘めているのではないでしょうか。


◇◇


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ようこそ美少女動物園へ(または「かばんちゃんには性別がないし、ジャパリパークには性別概念が存在しない」) [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「日本のアニメは《美少女動物園》だ!」といった、誤解と偏見に基づく悪意に満ちた言説は、しばしば聞かれるところです。

この場合《美少女動物園》とは、「男性にとって都合が良い ただ単に可愛いだけの主体性を持たない美少女キャラがたくさん登場し、それをキモいオタク男性が性的な目線で視聴するために作られているようなアニメ作品」といった意味あいなのでしょう。

むろん、そうした批判が妥当する要素が部分的に含まれるケースは、皆無であるとの断言まではできませんが、しかしそれはあらゆるメディアにおける各種表現についても同様であって、ことさらにアニメというジャンルを名指して狙い撃ちするのは穏当ではありません。

(あるいは、タイトルやキービジュアル等について、視聴者への訴求性を上げるための一種の「釣り」として、一見すると《美少女動物園》であるかのような何らかの修辞・修飾が用いられることもあるでしょう。
また主要なターゲット層を絞って制作された表現物であれば、必ずしも万人向けになっていないことはありえることで、ゾーニング等の観点から問題が起きていないのであれば、これもまた認められるべきものでしょう)

その作品がアニメであることをもって、すべからく《美少女動物園》であるとレッテルを貼る行為は、あまりにも雑駁に過ぎると言わざるを得ません。

例えばいわゆるフェミニズムの観点から大いに評価できる点を数多くともなった作品群も珍しくない現状においては、そこのところを正当に評価しないのはむしろはなはだもったいない

仮に問題と思われる描写に出くわしたとしても、表面的に一瞥しただけで全体のありようを決めつけてしまわずに、きちんと総体的な把握をしたうえで、問題箇所のみをピンポイントで指摘するのが公正な批判というものです。
そこをジャンル包括的にアニメ作品群とそのファンを口汚く罵るのは、カテゴリーのみを指標とした属性に対する差別。まさに醜いヘイトスピーチに他なりません。


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※本記事中、画像は放送画面や公式のサイトからキャプチャしたもの

さて、そんな《美少女動物園》というような謂れのない言いがかりに対する、ある種の絶妙の頓知が効いた返答とも言えるアニメ作品が登場しました。

そう、2017年1~3月期の本放送で話題となり、人気を受けた先月半ばの平日毎朝の再放送では夏休み中の子どもたちの多くを夢中にさせた、かの『けものフレンズ』ですね。

公式サイトでのイントロダクションによると、

この世界のどこかにつくられた超巨大総合動物園「ジャパリパーク」。
そこでは神秘の物質「サンドスター」の力で、動物たちが次々とヒトの姿をした「アニマルガール」へと変身――!
訪れた人々と賑やかに楽しむようになりました。
しかし、時は流れ……。
ある日、パークに困った様子の迷子の姿が。
帰路を目指すための旅路が始まるかと思いきや、アニマルガールたちも加わって、大冒険になっちゃった!?

……とあります。

 → アニメ『けものフレンズ』公式サイト


これだけを読むと、たしかに本当にズバリ文字どおり「美少女動物園」な設定ですし、前述の《美少女動物園》だという批判がもしかしたらそのまま該当する内容であるかもしれない疑惑も浮上します。

しかし蓋を開けてみれば、なかなか深遠な舞台設定を背景に、ストーリー自体はほのぼのとした空気感のうちに含蓄のある寓意も織り込んだ、誰もが安心して視聴できる非常に秀逸なエンターテイメント作品として成立しているものでした。

ビジネスモデルの面からは元々は深夜帯のアニメとして制作されたものの、内容的には放送時間帯を問わない内容なのは、朝の時間帯での再放送が子どもたちにも好評だったことからも明白でしょう
(そういう事例は他作品でも多々ありえることであり、今日の多くのアニメ作品が深夜帯放送なのは主としてビジネスモデルの事情によるもので、内容がアダルトかどうかとは実際のところ無関係です)

むしろそのままNHK教育テレビの道徳番組にしてもよいくらいだ……なんていう意見も、あながち大げさではないことは、「互いの得意分野を活かしあってみんなで協力すれば課題は解決する」というエピソードがシンプルに描かれた第5話「こはん」などを見ればわかりやすいです。

無生物系のモンスターである「セルリアン」を除くと、誰も悪意を持ったキャラクターはおらず、アニメ作中では「フレンズ」と呼ばれるアニマルガールたちが、和気あいあいと仲良くする様子を軸に展開する物語には、現実世界の私たちが平和な社会を築いていくためのヒントが満ちているとも言えるでしょう
(主題歌『ようこそジャパリパークへ』では「笑えばフレンズ」「けものは居ても のけものは居ない」などと歌われます[作詞:大石昌良])

そのあたり、詳しくは実際に作品に触れてみるのが最善かと思いますので、ここでは個々の細かい内容紹介は省くこととします。


  


一方、この『けものフレンズ』において、このブログとして特筆すべき点については指摘しておかねばなりません。

いろいろな動物が「サンドスター」なる物質の超常的な作用によって「フレンズ(アニマルガール)」化したキャラクターが大半の登場人物を占める中で、「この子は元は何の動物なのだろう? ……もしかして人間!?」という位置づけで登場するのがかばんちゃん」です(イントロダクション中の「迷子」)。
「かばんちゃん」がヒトならではの知恵を発揮して各回の課題解決を導くプロットもまた作品の見どころになっています。

と、この「かばんちゃん」。
じつはアニメ作中では、なんと一貫して【性別不詳に描かれているのです。

容貌も服装も中性的。
体型には女性っぽい特徴が見受けられるという意見もある一方で、一人称が一般的には男の子が用いるとされる「ボク」。
演じるのは女性声優ですが、声変わり前の少年の役を女性声優が担当する慣習もまた一般的です。

断片的な情報を現実世界の通念と照合して、かばんちゃんが女の子なのか男の子なのか、一定の推論を立てることはできるけども、いずれも反証可能で決定的なものを欠きます。

終盤で明らかになるかばんちゃんの秘密を含めて、制作サイドが持っている裏設定もあるにはあるでしょう。
それでもアニメ作中に表れる描写だけでは、性別は判然としないのです。

そもそも何よりこのアニメ、作中でのかばんちゃんの性別を特定しなくても物語が破綻しないように組立てられています。

たとえかばんちゃんの性別を女の子と解釈しても男の子と判断しても、作品のストーリーを読み解くうえで特段の支障はない。
つまり、かばんちゃんの性別を特定する必要ナシに物語が構成されているわけです。

極論すれば、『けものフレンズ』の「かばんちゃん」には性別がない。
そういうふうに出来ているのです。

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コレはスゴいです。

だいたいにおいてわたしたちは、登場人物の性別を特定しないと落ち着かないというオブセッションのもとにあります。
いわゆる「ゆるキャラ」には公式に性別不詳とされている事例もありますが、人間に近い造形のキャラクターになるほど、そういう措置も困難度が上がるでしょう。

だからこそ、本来は生物学的な性別がないロボット系のキャラクター、例えば鉄腕アトムやドラえもんやアラレちゃんのような存在にも、通常は性別属性が付与されるわけです。

あるいは何らかの形で性の多様性の体現者となっている登場人物が描かれる際にも、性別の基準点としての[男/女]概念の桎梏からは、完全に自由になっているとは限りません。
プリパラのレオナのような先進的な設定の登場人物であってもソコは然り。

その意味で、今般の『けものフレンズ』の「かばんちゃん」は、べつにキャラクターの性別を特定しなくても物語は描けるんだということを、ごくナチュラルにさりげなく示した点で、大いに意義があったのではないでしょうか。


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さらには、動物がサンドスターの作用でアニマルガール化したというフレンズたちも、元の個体の生物学的性別にかかわらず、フレンズ化する際には強制的にもれなく女の子の姿になるという設定だったりします。
それがサンドスターの神秘の力であるという説明です。

それゆえに、その動物のオスの特徴を持った美少女キャラが現出することにもなります。

それもまた非常に性別撹乱的でオモシロイのでありますが、何よりも、フレンズ化した後はもれなくみんな女の子の姿になる……ということは、逆説的に性別がない、性別は重要ではない、どうでもいい。
やはりそういうことにもなります。

……否、あのアニメ作中のキャラクターたちの間には、まずもって「性別」という概念がないのではないでしょうか。

フレンズたちは動物がサンドスターの力で擬人化した意識を持っているにすぎません。
かばんちゃんもまた、突然ジャパリパークに出現した、それ以前の記憶がないために、人文社会系の知識は必ずしも視聴者がいる現実世界の人々と同等ではありません。

そうしてジャパリパーク内には、男女の差異を認知させるモデルが存在しません。
フレンズたちの個体はサンドスターの作用で維持されるサイクルにあるので、生殖もありません(ちなみに食料供給もパークのシステムによってもたらされるので、フレンズどうしで捕食のようなことは起こらない)
これでは誰も性別という概念を持ちえませんし、持つ必要も発生しないではありませんか。

すなわち、フレンズたちが美少女の姿をしている……とはいうものの、それはあくまでも現実世界の視聴者が現実世界の解釈コードに沿ってそのように捉えているにすぎなくて、アニメ作中では誰もそういう認識は持っていないのではないか、ということになります。

しばしば言われる「ドイツ語には肩こりという概念がないからドイツ人は肩がこらない」的な言説になぞらえるなら、誰も性別という概念を持たなければ、誰にも性別はないわけです。

社会的には性別・性差は対人関係の中で他者がそう認識してはじめて成立する……という観点は、今こそ重要なものとして顧みられたいところです。


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性別二元論や異性愛主義から距離を置いたアニメは今どき多々あるとはいえ、それでも性別概念自体は存在する世界観なのが通例です。

そんな中で、この『けものフレンズ』が、性別概念なんてナシでも物語は支障なく描けると示したことは、現実世界の社会生活では性別から逃れることが難しい中では、やはり非常に有意義だったと思われるのですが、いかがでしょうか。


◇◇


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