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ハピネスチャージプリキュア恋愛(異性愛)要素再投入の収支決算 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

今年度はプリキュアシリーズ10周年。
10年の節目だった前作『ドキドキ!プリキュア』の感動を引き継いで始まった、11年目にして9代目のプリキュア『ハピネスチャージ プリキュア!』も、1年間の放映が進み、本日2015年1月25日の先刻、最終回のオンエアが終わりました。

今作でも、主人公ら女の子たちが、相互の友情に裏打ちされた強い意思で行動し、溌溂と物語の主体になっていくという作品の主眼は揺るぎません。

また、自分たちの大切な日常を守るために戦うということが基盤に据えられていることや、敵を正義の名のもとに殲滅するのではなく、愛と癒しのスタンスで昇華し救済して、誰もが尊ばれる共生の大団円が導かれるところなどでも、プリキュアの真骨頂は引き継がれています。
いわゆる『宇宙戦艦ヤマト』の旧作が台詞だけでとってつけていた「僕たちがすべきことは戦うことじゃなかった、愛し合うことだった」を実践するとしたらどういうことなのか……を『ハピネスチャージ』もまた、きちんと体現してくれた、と言ってもよいでしょう。
(いゃまぁプリキュアもアニメ表現上は、さしあたりは戦いますが;)

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§画像はプリキュア・他作品とも放送配信画面より。
 以下この記事中同じ


シリーズが積み重ねられる中で培われてきた定石をしっかり押さえながら、子どもも大人も楽しんで納得できる手堅い仕上がりであったのは間違いないでしょう。

具体的な良かった点、好きなところなど、挙げだすとキリがないほど多数ありますので、本記事ではそのあたりは割愛することにいたします。
もしよろしければ、各位 作品をお確かめいただければと思います。


  

  


ただ、今作『ハピネスチャージ』が、前作『ドキドキ』をはじめとする過去作に比して、これまでにない新しい何かを描き、この2014年度にこそ求められるテーマに斬り込んで、過去作を超える感動をもたらしえたかというと、いささか疑問となる点も少なくなかったのではないでしょうか。

そして、その最たる理由は、恋愛(異性愛)要素の描き方が上手くまとまらなかったことに収斂されると、私は考えます。

当初の触れ込みでは、この恋愛(異性愛)要素こそが、『ハピネスチャージ』のシリーズの他の作品と異なる特長となるようにも読める説明もありました。

むろん過去作でも、主人公らが男性に対して恋愛感情を持つことが皆無ではなかったです。
ただ、どちらかと言えば、そうした恋愛(異性愛)要素はアリバイ的に登場するものの、物語のメインストリームからは後景化されていて、逆に主たる人間関係は主人公たちの女どうしの絆のほうに焦点化されることが通例でした
(その少女たちどうしの親密性の描写がすこぶる濃厚なことをもって「百合キュア」といったスラングもできたほどです)

特に、このところの過去5作くらいはその傾向が強く、主人公らプリキュアチームの誰かが男性に対して恋心を抱くことが(ほとんどなく、あっても)話の本筋に大きく絡むことはありませんでした。
そして、その傾向が極限まで究められることで、むしろ普遍的な「愛」のありようを示したのが、前作『ドキドキプリキュア』だったとも言えるでしょう。

『ハピネスチャージ』は、そういう慣習から一歩踏み出すことで、新たなプリキュア作品としての特長を創ることを期して、恋愛(異性愛)要素を意図的に再投入しようと試みたのかもしれません。
ただ、結果的には、その点については目論見が効果的に奏功せず、どちらかというと蛇の足を描いてしまった形になっているところも多いように見受けられるのです。

 → ハピネスチャージプリキュア朝日放送公式サイト
http://asahi.co.jp/precure/happiness/
 → ハピネスチャージプリキュア東映アニメーション公式サイト
http://www.toei-anim.co.jp/tv/happinesscharge_precure/


念のため確認しておくと、プリキュアシリーズのような「女の子アニメ」に恋愛(異性愛)要素を取り入れることで起きることが予測される(≒プリキュアシリーズ以前には「起き」ていがちだった)問題点は、基本的には以下の2点と考えられます。

1:主人公ら女性キャラの主体性が、恋愛対象である男性キャラに奪われる
2:異性愛を恋愛の標準として規範化してしまう危険性がある

[1]については、恋愛というものは構造的に「惚れた/惚れられた」という権力関係が生じてしまううえに、男女間の関係性というものは意図するしないにかかわらず社会の男性優位構造の影響を受けてしまうので、男性キャラに恋愛感情を持ってしまった女性キャラは、相手の反応に束縛され、主体的に生き生きと行動できなくなってしまうという難点が生じます。

「恋愛」が正面切っての主題であるような作品はもとより、一見するとプリキュアシリーズと同類の作品に見える『セーラームーンでも、タキシード仮面の存在が、今にして思うと主人公らが自ら伸び伸びと思い切り活躍するうえでの障害になっているようにも感じられてしまいます。
特に2014年はちょうど『セーラームーン Crystal』が新たなリメイク版アニメとして公開されましたが、デジタル制作での美麗な画面になって最新のアニメ作品と同じ土俵に乗ってしまうと、月野うさぎがタキシード仮面をめぐって右往左往して泣き叫んでいるだけの惰弱な物語にしか見えず、主人公性が非常に希薄なものとなってしまっています。
これは、例えば同時期放映の「ジャンル・プリキュア」作品であった『結城友奈は勇者である』では、主人公・結城友奈が自らの強い意志で、友だちとともに暮らす世界を守るために行動する様子が明確に描かれていたのと、まさに対照的です。

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§タキシード仮面との恋愛が強調される『セーラームーンCrystal』

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§すぐ側まで迫る怪物。怖い。でも友だちを置いては行けない。
 だから私ががんばる! …な『結城友奈』

 → 『結城友奈は勇者である』公式サイト
http://yuyuyu.tv/


[2]に関しても、異性間の恋愛を当然に価値あるものとして全面に押し出して憚らないプロモーションは、いまだにあとをたちません。『セーラームーン』旧作アニメ中でも「女の子はイケメンに恋心を抱くもの & 格好いいカレシをゲットしたいと思っていて当然」的な価値規準が折にふれてアピールされます。

そのような描写がスタンダードなプロットとなることで、そうした「異性への恋愛感情を持つこと」が半ば義務となり、それができることがある種の資格となり、そこにコミットできない者を社会から排除する圧力となってしまいます。

以前に映画『図書館戦争』の宣伝手法が気になった際にまとめたこちらも参考に
 → 「図書館戦争」はメディア良化委員会検閲済み映画か!?


ただ、では『ハピネスチャージプリキュア』が、そうした「<ヘテロ>セクシズム」とロマンチックラブイデオロギーの陥穽に堕ちてしまっていたかというと、必ずしもそうだとは言えなかったりもします。

上記[1]をめぐっても、最初に述べたとおり、主人公らの仲間としての結束のもとでの自発的な行動は揺るぎがないものです。

メイン主人公・愛乃めぐみには、たしかに「男性」への恋心を自覚する展開が用意されていましたが、それが彼女の行動原理のすべてを支配することにはなりません。
あくまでも、プリキュアとしても、ひとりの中学生としても、それは自分の日常生活の一部分を占める要素に過ぎず、他の何よりも優先すべき事項ではないのです。

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他のキャラについても、なるほど、異性への恋愛が話題の俎上にのぼって何らかの動きが描かれることは、シリーズ従来作よりは目立ったのかもしれませんが、かといって話の本筋に大きく関わる各々のキャラの大きなテーマになるわけでもありませんでした。

[2]のほうも、やはり従来作に比べれば、多少は鼻につくこともないではなかったですが、異性愛だけが絶対の価値であるように断言されることは慎重に避けられていたと見てよいでしょう。

従来作に負けず劣らない「百合キュア」名場面の数々さえ生み出されていましたから、異性との恋愛こそがすべての人間関係の頂点であるかのようなメッセージを発する誤謬は、実際のところ、なかったと言うことができます。

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その意味では、『ハピネスチャージ』が従来作に比して甚だしく趣が変わったわけではなく、特に何らかの深刻なマズい点が顕現したということもないわけです。

もっと言えば、この異性愛要素投入の真意は、一見すると恋愛(異性愛)の称揚のように思わせておきながら、じつは恋愛のあり方をめぐるさまざまな現行ルールの不合理を再考しようという狙いがあるのではないか――、そういう意気込みさえ読み取れる作劇も終盤間際までおこなわれていました。
※個人的希望としては「もぅべつに男女で1対1でなくてもエエやん!」と既存の恋愛規範――ヘテロノーマティビティとかモノアモリーとか――を思い切りチャブ台返ししてくれないかなぁと期待していたのですが、さすがにソコまでは日曜朝の番組の枠組みでは難しかったようです;

したがって、正確を期して言うならば、『ハピネスチャージプリキュア』は、恋愛(異性愛)要素を上手く描けなかった……のではなく、効果的にコトを運べなかったのは、むしろ守旧的な恋愛(異性愛)要素を対照群として見せることを通じて、そうした「男女」二分法に基づく異性間恋愛至上主義に囚われることの愚かさを炙り出してやろう、という企図のほうだったのではないでしょうか。


そう考えれば、『ハピネスチャージプリキュア』のウィークポイントも、おおむね次の2人のキャラをめぐるところへ集約できます。

そう、恋愛(異性愛)要素のために、わざわざ「男性」として設定されたのであろう、相楽誠司と、「地球の神」ブルーです。

はたして、この2者を男性キャラとして設定したことで何が描けたのか、逆に女性キャラでなかったためにどういう支障が出たのでしょうか?


まず相楽誠司。

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彼は、メイン主人公でありキュアラブリーに変身する愛乃めぐみ家が隣りの幼なじみとして設定されています。
飾らない人柄で学業成績も優秀、周囲の誰とも誠実に接するという、まさに今日の理想の草食系人格的イケメン男子です。

めぐみのほか、キュアハニーに変身する大森ゆうことも小さい頃からの仲、キュアフォーチュンに変身する氷川いおなとは同じ空手道場(←いおなの家)に通っている、キュアプリンセスに変身する白雪ひめともめぐみを通じてすぐに打ち解けます。

必然的に、ほどなく4人がプリキュアであることを知るところとなる誠司は、4人を物心両面から後方サポートする裏方を買って出ることになります(空手の腕を生かして、敵の下っ端の戦闘員の何人かくらいならやっつけたりも)

これは昭和の仮面ライダーで言えば立花のおやっさんらのポジションと言えるでしょうか。
あるいは平成ライダーにも引き継がれている「ヒロイン」ポジションのキャラが、プリキュアシリーズであるがゆえに男女逆転していると解釈できるかもしれません。

いずれにせよ、こうしたプリキュアチームを身近なところから支援する役回りのキャラが、主人公らと同年代の男の子というのは、今までになかったことで、『ハピネスチャージ』の斬新なポイントたりえました。

ですから、そのうえでキュアラブリーめぐみとの恋愛関係進展描写も、上手く工夫して織り込めば、非常に興味深い展開も可能だったかもしれません。
実際、最終回のラストなどは、なかなか趣のある良い感じのシメになっていました。

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ただ全体としては、2人の親密性を古典的な恋愛関係としてベタベタに表現するのか、それとも「恋愛と友情の境目」自体を超越した深い関係性に持っていくのか、そのあたりの匙加減が中途半端になってしまったきらいはあります。

そのせいで、終盤の展開において、誠司が敵ラスボスの甘言によって悪堕ちし、敵としてプリキュアに立ちはだかることになったときにも、その理由がいささかピントがボケてしまった感がありました。

はたして誠司が闇堕ちするきっかけとなる、その心の闇の深層は何だったのでしょうか。
めぐみが異性として自分を見てくれなかったから?
めぐみ自身の(他の「男性」への)恋の悩みに手が届きにくい立ち位置のジレンマ??
めぐみたちを守りたいと思ってもむしろ自分がプリキュアに守られる立場???
もしくは誠司がプリキュア4人の絆に加わり難かった疎外感!?
もっと言えば男の子だからとプリキュアにはなれなかったメタ的な不満!?!?

……そのあたりが、視聴者にしっくり納得のいく形で提示されることが、誠司が恋愛要員なのかソレを超越する存在なのかの描写の振れ幅によって、難しくなっていたように思えます。

そう考えると、相楽誠司もまた女性キャラとして設定してあったほうが、例えば『戦姫絶唱シンフォギア』における主人公・立花響のいわば「腹心の友として寄り添う小日向未来の立ち位置のキャラを、プリキュアシリーズにおいても描いてみる機会となり、こちらもまた(仮面ライダーの「ヒロイン」ポジションのキャラをあえて男女逆転させずに変身少女戦士モノに女性キャラとして登場させるとどうなるのか……という実践という意味で)画期的なことだったかもしれません。

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§『シンフォギア』の小日向未来と立花響

『シンフォギア』でも響と未来の仲違いや、未来が「敵として立ちはだかる」展開がありましたが、女性キャラどうしであるがゆえに、異性愛にまつわる厄介な現行ルールに邪魔されることなく、仲直りも、悪堕ちからの帰還も、スッキリと見せることができていました。

誠司の終盤での闇堕ちとそこからの帰還は『ハピネスチャージ』の大きなヤマ場です。
そこを的確に演出するうえで、誠司が女性キャラでなく男性キャラだったことは、やはりマイナス方向に働いていた側面のほうが大きいのではないでしょうか。

また、そもそも誠司が女性キャラであれば、プリキュアの4人の絆から一歩距離が生じてしまうことも軽減できたでしょうし、プリキュアシリーズの定石からすれば誠司もまたプリキュアに変身することになったのではないでしょうか。

あるいは、ソコをさらに逆に考えて、男の子である誠司を、ソレに拘らずプリキュアにしてしまうというような手もあったかもしれません。

途中まで大森ゆうこが変身主であることが秘匿されていたキュアハニーは、制作側からは驚くべき意外な正体であるように語られていたので、視聴者からの「もしかしてハニーは誠司なのでは!?」という予想は、半分冗談ながら少なくありませんでした。

「もしかして相楽誠司と大森ゆうこでウルトラマンエースみたいに2人で変身するんじゃ? …てーか[せいじ]と[ゆうこ]なのはソノ伏線!?(ウルトラマンエースに変身する2人は[北斗星司]と[南夕子])

……なんて意見もあったものです(^^)。
※「ハニー」に寄り添う「せいじ」という点では『キューティーハニー』へのオマージュでもあったという説も

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かくして『ハピネスチャージプリキュア』における相楽誠司という魅力的な男性キャラの動かし方については、いささか消化不良感が残る結果になり、いろいろともったいないです。
それが作品全体のパワーにも負の影響を及ぼしているのであれば、なかなか遺憾なことではあるでしょう。


次に「地球の神」ブルーのほうを見てみましょう。

えぇー、というか、結論から言って、コイツがA級戦犯ですw、いろんな意味で;

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仮にも地球全体を管轄する神様という立場の存在なのに、こんなビミョ~な感じの残念系イケメンに設定されてるせいで、世界が大変なことになってしまったわけですから。

まずは、このビジュアルで思わせぶりな態度をとるもんですから、愛乃めぐみがうっかり恋心を抱いてしまい、それが終盤の相楽誠司悪堕ちの一因につながってます。
めぐみ自身の行動が制約を受けるということも、おそらく閾値以下では頻繁に起こっていたかもしれません。
それでいてブルー氏本人にはあまり自覚がなく、そのあたりの補償となるような行動にも乏しい。
まさに、主人公である子どもたちから見て役に立たない系の大人キャラの典型です。

それから、敵のトップであったクイーン・ミラージュも、やはり(誠司と同様にラスボスからの唆しがあったとはいえ)悪堕ちし、世界を不幸に染めようと画策する悪の帝国を指揮するようになった原因は、このブルー氏との恋がかつて儚くも叶わなかったせい。
まぁ基本的に子ども番組ですから生々しい表現では語られませんでしたが、実態は「ヤるだけヤって捨てた」みたいな印象でもありましたから、少なくともミラージュさんの主観ではかなりブルー氏が極悪非道です。
その後のブルー氏の対応も後手後手で、事態のさらなる拗れを招く結果となっています。

あと、最終的なラスボスとして登場した、ブルー氏と同様に「別の星の神(だった)」レッドさん
この人も、ブルー氏に負けず劣らず面倒くさい人でしたが、憎しみに燃えて愛と幸せを否定し続けたその動機の背後には、どうやらブルー氏への嫉妬とか、もっと言えばブルー氏に対する秘めたる恋心が(え、「男どうし」? それが何か??)あったのではないか? …というような愛憎が行間に垣間見え、でもっておそらくは今までブルー氏がそういうレッドさんの思いに適切に対応してこなかったんだろうなとも推測されるところでした。

もちろん、これらは作中でのブルー氏のヘタレっぷりですし、めぐみが恋愛感情を抱いてしまう展開は本来的にそういうプロットを狙っていた通りのものです。

主人公らの味方サイドの重鎮としての大人キャラには、しかるべき役割を果たしてほしいところではありますが、そこをあえて逆に、そのポジションの存在として相応しくなく造形するというのも、何かを描くためのあえての定石外しならアリでしょう。

しかしブルー氏については、制作側が何を狙ってこのようなキャラ描写にしたのか、その意図が見えにくく、そのために、視聴者はブルー氏を見ていて落ち着かない、居ずまいが悪い思いを強いられたのではないでしょうか。

その点『結城友奈は勇者である』では、主人公たちの住む世界を護持する「神様」は、(「神樹」と呼ばれる)何やら禍々しささえ湛えた巨大な樹木状の存在でしたから、主人公たちの大切な日常を支える恵みの源という側面と、主人公たちに変身能力を与えて戦いに赴かせる真意の謎めいた胡散臭さが、バランスよく成立して、効果的に物語にかかわることができていました。
※『結城友奈は勇者である』も、世界の暗部を仄めかしつつ、途中はかなりの鬱展開に振れ、最後は幾ばくかの謎が残されたままになりましたが、今般のアニメで描かれた範囲では、友だちと、その友だちとともに日常を生きる世界を、自分たちで守るんだという女の子たちの強い願いが一本芯として通った物語でした。

そうなると、『ハピネスチャージプリキュア』で、「地球の神」ブルーを、このように恋愛対象にもなりうるような人間体の成人男性に設定したことは、やはりデメリットのほうが大きかったと思えてしまうのです。

十歩譲っても、光の園のクイーンやメルヘンランドのロイヤルクイーンなど、今までのプリキュアシリーズの前例の中に、倣うべきモデルケースはあったはずです。

百歩譲って等身大の人間体だとしても、あのような残念イケメンではなく、女性キャラであれば、プリキュアシリーズらしくキレイにまとめられる確度は上がったでしょう。

例えば『プリパラ』アニメ第24~25話では、生徒たちのプリパラでのアイドル活動を執拗に校則で禁止し取り締まっていた校長先生――にまつわる演出がプリキュアに登場する悪者っぽく表象されていた――が、なぜそこまでプリパラに否定的な感情を持っているのかが明かされます。
じつは若かりし頃、自分もまたプリパラに出入りしており、そこでは親友と呼べる出会いもあったのですが、ちょっとした行き違いと誤解が重なり、その親友と会えなくなった挙句、裏切られたと思い込んで絶望した校長先生は、プリパラのすべてを憎むようになった……という事情があったのです。
そして、その後ひょんなことから、その親友との再会が果たされ、思いもよらなかった真相を知って誤解は解け、プリパラ活動を通じた友情の素晴らしさをあらためて噛みしめた校長先生は、生徒たちへのプリパラ禁止校則も撤廃するに至るのです。

クイーン・ミラージュさんとブルー氏の過去の経緯とその超克も、これと同パターンであるほうが、「男女の恋愛」のこじれに由来するよりは、プリキュアシリーズ視聴者のニーズに合っていたのではないでしょうか。
あるいは、あえてそのパターンを外したのだとしたら、結果的によりよいものが出来なくてはなりません。

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§『プリパラ』の校長先生、運命の再会で誤解が解けて……


それに、ミラージュさん、つまるところ男にフラれたくらいで絶望してやさぐれてしまう、かよわく哀れな古いタイプの女性像になっちゃってますよね。
これも、21世紀の新しい女性像を提示してきたプリキュアシリーズでは、ある意味異質です。
しかも、近年のプリキュア路線で、最後は浄化され救済されちゃうわけですが、ミラージュさんとブルー氏の場合、別れた男女が元の鞘に収まってめでたしめでたし的なことになってしまうので、安易にそういう異性間恋愛至上主義的なオチに陥るのは地味に問題です。
最終回ラストでも、ミラージュさんがブルー氏に追随していく様子には、あまり自分の意志に裏打ちされた主体性が感じられませんでした。

このあたりは、「地球の神」ブルーが成人男性の人間体であったマイナス面が顕著に現れているところでしょう。

あと、まがりなりにも、味方サイドにも敵サイドにも「恋愛」にまつわる登場人物たちの感情の揺れを配置し、終盤まで引っ張ってきておきながら、最終決戦でのレッドさんの気持ちには、そういうものが不足していたように思えたのも逆によくないでしょう。

レッドさんも「ブルーーーーっ! 好きだぁぁぁーーっ!!」と叫ぶくらい(*^_^*)してもよかったのではないでしょうか。
そのくらい、レッドさんの個人的な対人関係に由来する動機は、行間から深読みでもしない限りは、明示的には説明されませんでした。
これではミラージュさんとのバランスが取れません。
ブルー氏も、もっとそういうレッドさんの言動を引き出すだけのリアクションができなかったものでしょうか。
最終回のひととおり決着がついた後になってから「じつは兄弟でした」と唐突に言われても困ります。

これはブルー、レッド、双方が女性キャラであれ男性キャラであれ、異性でも同性どうしでも、言えることです。

ミラージュさんをめぐっては恋愛ベースの愛憎を軸にシナリオを進めてきたのに、最終決戦のラスボスのレッドさんだけ、なんかもっと普遍的な「愛」の話になってしまっていては、レッドさんを説教するプリキュアたちの反駁ロジックも、どこか言葉が上滑りしたお題目に聞こえてしまいかねません。

いわば、『ハピネスチャージプリキュア』は、エロスにかかわる「愛」のストーリーに挑戦したはずだったのに、最後の最後のシークエンスでアガペーについての話にすり替わったと言ってもよいでしょう。
そしてそれなら前作『ドキドキプリキュア』がじゅうぶんに取り組んだわけなので、それを越えることは、生半可では難しくなります。
結果、最終バトルでの台詞の応酬が「愛の大安売り」に陥ってしまったのが、ラスボス・レッドさん救済への一連の演出の違和感につながっていると思われます。

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まとめるなら、プリキュアシリーズで「恋愛」に挑戦するなら、慎重に周到に準備した素材を、軸がブレないようにしっかりとアレンジする必要があるところを、『ハピネスチャージ』は、いささか詰めが甘くなってしまっていた……というところでしょうか。


ともあれ、『ハピネスチャージプリキュア』は、一定の水準をもって1年間の物語を紡ぎ終え、日曜朝のひとときに、またひとつ愛と幸せをもたらしてくれました。

そうして、それを引き継ぐのは次作『Go!プリンセス プリキュア』。
はたして今度は、どのような感動が生まれるのでしょうか。


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◎余談1:世界はプリキュアを待っている
『ハピネスチャージプリキュア』の今までのシリーズにはなかった特徴として興味深いのは、世界各地にもその地域を守るプリキュアがおり、その存在は人々に認知され、たくさんのプリキュアの活躍がテレビなどで報道されたりしている……という世界観でした。
これはプリキュアの活動が社会と交差する描写であり、プリキュアシリーズ全体としての、今後の展開の可能性を大きく伸ばすものだったと言えます。
過去シリーズでは、プリキュアの戦いがあくまでも友だちとの日常を守る範疇に収まり、女子中学生の手に余る拡がりを持ってしまわないように、バトル中の「都合のいい結界」や、バトル終了後には敵が破壊した街並みなどが元どおりになる「謎修復」などが設定されていましたが、これらは「ケアとキュアの論理」に依るプリキュアの戦いが「正義と秩序の論理」に回収されることを防ぐ機能があった反面、物語のスケールに限界が生じるという制約もありました
(いちおう『ハピネスチャージ』でも「謎修復」はありました。「都合のいい結界」と「謎修復」の両方がなかったのは、今のところ『フレッシュプリキュア』のみでしょう)
あと、世界各地にもプリキュアがいるというのは、単純にオモシロイです。
『ハピネスチャージ』では終盤の主人公たちのピンチに世界各地のプリキュアたちが応援に駆けつけるという展開がありましたが、それがどこか「東映まんがまつり」のノリを彷彿とさせて、なかなか熱かったです。

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◎余談2:五体不満足でもプリキュアになりたい
本文中で触れた『結城友奈は勇者である』については、独立して1記事にしたいくらいなのですが、この場を借りて1点だけ、重要な点を指摘したいと思います。
本文中の引用画像にも写っていますが、主人公・結城友奈の親友の東郷美森は車椅子のユーザーとして登場します。
が、そのことがまったく特別なこととしては位置付けられず、不都合を補完するバリアフリー設備の描写も細かくおこなわれ、公式サイトのキャラ紹介の文面でも車椅子については言及されず、歩行にかかわる身体機能の不保持が何の障害にもほとんどならないものとして、誰もがありのままで生きられるノーマライゼーションの理念が実現された世界観が提示されていました。
しかもこの東郷さん、第2話ではピンチになった親友・友奈チャンの姿を見て決意し、自分もまた変身して戦うようになるのです(しかも、変身システムの機能により移動に支障はなくなるものの「変身したら歩けるようにもなる」わけではない
 → 『結城友奈は勇者である』公式サイト[東郷美森]キャラ紹介
http://yuyuyu.tv/character/#mimori
 → 《参考》「結城友奈は勇者である」の徹底したバリアフリー描写が凄い
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141127/E1417016920537.html

プリキュアシリーズでは、今のところ「五体満足な女の子」以外の変身者が存在した実績は描かれていませんから、これはかなり画期的でした。
いわば「身体障害者でもプリキュアになれるとはこういうことだ」というモデルケースを示したわけです。
ただし、この「東郷さんの車椅子設定」にはいろいろ隠された裏の真相設定があり、最終回ではプチ「安易に『クララが立った!』を喜んで、『障害』をいけないもののように扱う」問題に行き当たっていましたので、できれば今後の何か別作品で、本当に何の特別な意味付けも背景もなく障害者がフツーにさらっと登場して主人公チームの一員として変身ヒーローになるのを、いつかあらためて見てみたい気はします。
この課題は、『プリパラ』でレオナを見ていて感じる「やっぱりプリキュアにもそろそろ男の娘を出す時期に来てるやろ」と双璧をなすものとして、ぜひとも今後のプリキュアシリーズでも検討されてほしいと思います。
プリキュアシリーズも、他作品にさまざまなバリエーションが登場してきている昨今、時代に追い越されないためには暢気に恋愛描写を入れている場合ではなかった……と言うと言いすぎでしょうか。

  

  

◎さらに余談3:ここまで来たプリキュア変形譚(^^)
なお、2015年1月には、広い意味では「ジャンル・プリキュア」作品と(たぶん)言えるアニメ作品として『美男高校地球防衛部 LOVE!(→ 公式サイト』が始まりました。

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……………男の娘どころか「男子が男子のままプリキュアになるとはこういうことだ」というモデルケースを示しましたね。この手持ち武器のなんという魔法少女バトン感!(^o^;)
ストーリーも、プリキュアシリーズの鉄板展開を忠実にトレースしています。
かつて『鎧伝サムライトルーパー』がオンエアされていた頃に、よもや四半世紀後の装着変身モノがこんなふうになってるだなんて、誰が予想しえたでしょう。


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あと、『ドアマイガーD(→ 公式サイト』も、画面の質感はわざと1970年代ロボットアニメふうにつくってありますが、その敵との戦いの内容は[心に負の感情を抱えた人が悪者によってそれを増幅されて怪物化する]→[主役ロボットがそれを「浄化」する]というプリキュア方式をきっちり導入しています。
しかも「浄化」のためのパワーが「京菓子」!
キュアハニーの「食」へのこだわりは『ハピネスチャージ』でも触れられていましたが、食べ物や食事をすることをメインに据えたものはプリキュアシリーズでもいまだにないので、この点もなかなか興味深い『ドアマイガーD』です。


わかりやすくないと性の多様性は理解され得ないのか? [多様なセクシュアリティ]

先日紹介したアニメ『プリパラ』に登場するレオナ・ウェストちゃんですが、その後もつつがなく女の子のアイドルとしてライブ活動を続けています。
(以下、画像は放送配信画面よりキャプチャ)

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作中では、18話の冒頭以降はさしたる説明もなく、「いゃ、レオナはこういう子だから。何か問題ある?」とでも言わんばかりのスタンスで粛々とストーリーが進行し、レオナの性別については半ば忘れられがちな設定のひとつとなっています。

これはすなわち、私が講演などでも強く訴えているところの「性別よりも前に、ありのままのその人が、ごくフツーに受け入れられ認め合えている世界」がまさに体現されているわけで、じつにすばらしいことだと言えます。

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そんなレオナを、幼児雑誌では(性別の件が明らかにされた18話の後のタイミングで)なんと「かわいすぎる男の子」というキャプションで紹介したとのこと。


_人人人人人人人人人人_
> かわいすぎる男の子! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

………ち、ちょっと、意味わかんないんですけど
 ( ゚д゚;)ポカーン

ぃや、マジなところ意味はわかりますが、ソノ言い回しが、そんなにも臆面なく肯定的に使用されたのは、初めて見た気がします。

※これはある意味、自分自身が幼少のころ「かわいすぎる男の子」であり、それが当時は周囲から「男のくせに」と否定的にしか評価されず、ゆえになんとかもっと男らしいかわいすぎない男の子になろうと自分の心を偽ってあがきながら大人になるしかなかったワタシとしては、ものすごく溜飲が下がる思いでもあります(詳しくは『女が少年だったころ明るいトランスジェンダー生活など参照)

またwikipediaでも、レオナの性別の件については深入りせずにストイックな記述になってるのはなかなか良いことでしょう。

結論から言って、ごく自然に(「性同一性障害という病気」のような特例的な意味付けナシに)トランスジェンダルな登場人物がさらっと登場し、それがフツーのこととしてごく自然に振る舞っているところなど、今のところアニメ『プリパラ』のレオナ・ウェストは、メジャーな領域のコンテンツ内ではトランスジェンダー描写の最前線と言えると思います。


そんなアニメ『プリパラ』内でのレオナにかかわる描写、以下少し特に注目したい点を挙げておきましょう。


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例えば、レオナが組んでいるユニット「ドレッシングパフェ」の3人は、画像中央のシオン竹を割ったような性格のイケメン女子、画像右のレオナの姉・ドロシーもイケイケな性格のボクっ娘で、そんな中で最も「女の子らしい」という世間一般のイメージに適合するキャラがレオナだというのは、設定の捻りとしてはまずは第一段階でしょう(捻りというより、むしろ常套な気もしないではないですが)。

アクの強いキャラである2人の間にレオナが入ることで、「ドレッシングパフェ」というユニットが絶妙のバランスで成立しているというのは、それぞれの(男だ女だといった属性以前に)異なる個性が互いに尊重されながら調和することの貴さを教えてくれています。


次に、「ドレッシングパフェ」のいわばライバルチームである「そらみスマイル」のメンバーのひとり北条そふぃは、メンバーの中での立ち位置がレオナとちょうど照応するキャラなのですが、このそふぃとレオナの間に、何やら順調にフラグが進展し、このところ俄然 関係性が深まってきています。

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  (18話)

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  (24話の両ユニット合同ライブで)


ぉおーっ、「キマシタワー」っ!

思わず百合萌えしたくなる展開です。

あー、でも、ちがうちがう!

この人たち「男女カップル」に該当するのでした(^^ゞ

……ただ、こんなふうに、一瞬「百合」だと思ってしまう、その「一瞬」こそが社会的には効力を有しているというのも真理です。

ではその2人を「男女カップル」とする基準はいったいどこにあり、そもそも「女」「男」の定義は何だ?? …という疑問を想起させるだけの力が、つまり、このプリパラの描写は持っているのではないでしょうか。

非常に丁寧で巧いつくりを、ここでも『プリパラ』はしていると思います。

今後2人の関係が、どのように進展していくのかはまだわかりませんが、仮に「男女の」「恋愛関係」になっていくのだとしたら、レオナのような「女性的な男性」の恋愛対象が男性ではなく女性である――そういうこともあるんだ……ということがキッチリ描かれたということにもなるでしょうから、その点でも画期的です。

もちろん「あ、レオナは恋愛対象が女の子なのか。じゃあレオナはやっぱり男の子なんだな」みたいな短絡的な理解はするべきでないのは言うまでもありません。
自分がどうありたいかと、恋愛対象がどんな人かは、まったく独立した別個の事象です。

実際にはこの先、レオナとそふぃの関係は、おそらく明示的な恋愛関係というよりは、そういう要素も包含した親密な友情のように描かれていくのではないかと予測されますし、私としてもそのように期待はするところです。

そうして「そもそも恋愛と友情の境目って何だろう? 両者の本質的な違いってあるの!?」といった疑問さえ視聴者に想起させることを制作側は企図しているのではないかと思います。

いわば視聴者が持っている、「異性間だったら恋愛・同性間だったら友情」などといった硬直した固定観念を、異性/同性」という概念ごと、サイリウムチェ~ンジ! してしまおうという狙いが、特にこのレオナ×そふぃの関係描写にはあるのではないでしょうか。


そして第27話。
ここではじめて「レオナがじつは男の子」という設定を使った小ネタが挟まれます。

この回では、メイン主人公であり「そらみスマイル」の主軸メンバーである真中らぁらちゃんが風邪をひいてしまい、みんながお見舞いに来るという場面があります。

そのとき、らぁらの発汗が激しいことを気にかけたレオナは、らぁらの身体の汗を拭いてあげるという行動に出ます。

そんな細やかな気遣いが自然にできるレオナの優しさに、一同はあらためて感心する

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……のですが、

いや、ちょっと待て!

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そういえばレオナって………!?

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慌てて止めに入る2人の「常識人」(*^_^*)
※ちなみにコノ場面で上述のそふぃは眠りの世界に入ってしまっているので、この「レオナがじつは男の子」であることを皆が再確認するシークエンスには参加していないということになります。この先へ向けてのどういう仕込みなのでしょうか?

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この一連のくだりを見るに、どうやらレオナ本人は基本的に「素」でやってます。
また周りも普段はレオナが男だとかどうとかはまるっきり忘れてると見受けられます。

で、ワンテンポ遅れてようやく気づき、世間一般の「常識」と照らし合わせたら問題じゃん……と(^^ゞ

要は、自分たちの感覚に基づくならぜんぜんOKなことと「世間一般の常識」が衝突したために、場にいた比較的「常識人」な役回りのキャラが「常識的」な行動に出たという、そういうシーンなんだと言えます。

つまり、この『プリパラ』の世界では、レオナはあくまでも性別をめぐる自己のありように対して深く意識せずに自然体でいるし、周囲も普段はそれをまったくあたりまえのことと受けとめて、日常の社会関係が営まれてるという様子が、はしなくもこのシーンに表れています。

本当に「性別よりも、ありのままのその人を認め合える」が実践されているわけですね。

逆に言えば、現実世界で「性同一性障害」などによるトランスジェンダーな人がいる場合に、周囲がどう対応したらよいのかのヒントもここにあります。

常日頃はプリパラアニメ内のように、ソレが当たり前のこととしてごくフツーに「ありのまま」を受けとめてもらえれば、いちばんラクなのです。

ただ、トランスジェンダーの存在は、この社会の男女二元的な「世間一般の常識」とは往々にして摩擦が生じます。
そんな個別の局面は、具体的なケースごとに、みんなで考えて知恵を出し合ってウマい折り合いの付け方を見つけていくしかない。
そういうことですね。
(プリパラアニメ内の上述の事例も、いわば最善ではないにしても緊急避難的にひとつの「折り合い」を求めた行動だったということになるでしょう)

あと『プリパラ』アニメにおいては、上記のシーンは、(もしかしたら今後の展開の中ではレオナの性別をめぐってのクリティカルなエピソードが描かれる、そこへ向けての仕込みのひとつな可能性もありますが)あくまでもこの回のお話の本筋には関わらない短い挿話となっています。
例えば1983年にアニメ化された『ストップひばりくん』が、いわば全編がこの種のネタを主軸に組み立てられていた「ラブコメ」なのとは、まさに対照的なのではないでしょうか。(いうなれば、『ひばりくん』などでは「こんなにカワイイ子がじつは男!」という事実を視聴者と共有しギャグとして昇華するための描写が重ねられている――このメソッドは古い作品にかぎらず昨年アニメ化された『ひめゴト』でも採用されている、いわば「男の娘モノ」の定石――のに対し、『プリパラ』のこのシークエンスではレオナの性別のことを、むしろ「普段はみんな忘れてる」ことのほうを示す意図があったのでは?)


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このように、アニメ『プリパラ』のレオナ・ウェストの性別にかかわる描写は、ごく自然でさりげなく、それが「普通」であり、原則として何も問題がないものとして進められています。

くり返しになりますが、これは、性の多様性が当たり前のものとして認められている様子が描かれているということであり、セクシュアリティにかかわるノーマライゼーションの究極形態に近いものが提示されているということでもあります。

土曜の朝の幼児向けアニメという枠組みの範疇を守りながら、ここまで先進的なトランスジェンダー描写を実現したアニメ『プリパラ』の手法は、高く評価されるべきだと私は思います。


   


ただ、こうした『プリパラ』のアプローチには欠点もあります。

なんといっても「わかりにくい」。

作中で、レオナの性別についてさしたる説明が何もない

にもかかわらず、
「でも、べつにレオナはレオナなんだから、コレでぜんぜんイイじゃん!」
……で済まされようとしているわけです。

いわば時代の数歩先を行くやり方です。

平均的な視聴者は理解できない危険性もあります
(それこそ、頭の柔らかい子どもなら、そのまま素直に受け入れても、いっしょに観ている親世代が「??」となりかねません)


では、どうするのか?

ちょうど、アニメ『プリパラ』18話の少し後に、TBS系列のドラマ『ごめんね青春』でも、「女の子になりたい男子生徒」をめぐるエピソードにフォーカスした回が放映されました。

このドラマは高校を舞台にした学園モノで、経営難のおり男子校と女子校が合併することになって……という、そもそもが制作側に相応のジェンダー関連の造詣の深さが必要な基本設定のものだったので、はたしてソコからさらに一歩踏み込んだ性的少数者というデリケートな問題まで扱って、本当に上手くまとまるのか!? という点で不安もありました。

ただ蓋を開けてみると、相応にしっかり取材され誠実に作られた内容に仕上がっており、2014年のテレビドラマとしては学校トランスジェンダーの問題に適切に迫ったものではありました。

とはいえ、件の「女の子になりたい男子生徒」については、「心と身体の性別が一致しない性同一性障害」なので「身体は男の子だけど、心は女の子」というような思い切り「わかりやすい」説明を採用。
この枠組みでトランスジェンダーを理解しようとすることは、多くの事柄を切り捨ててしまうのですが、現状ではゴールデンタイムのテレビドラマで取り上げるには、これが限界なのでしょう。

ドラマの全体像と見比べても、「男らしさ」「女らしさ」については、まずソレは存在するという前提で物語が組み立てられていて、「男らしさ」「女らしさ」ってそもそも何だろう、意味はあるのか? という問い直しが、平素からどのくらい意識して作劇されているのかについては、私見ながらいささか疑問符は付きました。

もちろん、たとえそうであってもゴールデンの高視聴率番組でセクシュアルマイノリティが取り上げられることに意義がある……というのも一理です。

また何より、「お茶の間」で予備知識なく視聴していた人にもわかりやすく、「病気」で「障害」なんだから偏見で差別してはいけない……と、とりあえず理解してもらうには最善の方策だというのも現実です。

理想ばかり掲げて現実を見ないのでは足もとを掬われます。

そう考えれば、このテレビドラマ『ごめんね青春』でのトランスジェンダー生徒の描き方こそが、時代の歩みと歩調を合わせた(もしかしたら「0.3歩先」くらい??)、平均的視聴者の理解のチャンネルにちょうどストライクな最適アプローチということにもなるのでしょう。

必要に応じて、このような「相手が受けやすいボール」を投げることも、ひとつ戦術としてはアリです。


しかし反面、この理解のされ方だと、あくまでも問題は性同一性障害者本人に帰属していて、周囲の「普通の人々」が強く内面化している男女二元的な性別観念(やソレに基づく異性愛主義)は微動だにせずに温存されてしまいかねないという問題もあります。

視聴者にとってはしょせん他人事
自分は「普通」。これはテレビの中のどこか遠い世界の話
かわいそうな「病気」の「障害者」への上から目線。
娯楽として消費して終わり……にもなりかねません。

社会をよりよく変革することを目指す戦略としては、これでは拙い。

現実にばかり囚われて理想を見失って何処にも辿り着けません


ところがプリパラのレオナの場合は、そういう「わかりやすい」説明が一切ないので、視聴者は不安となり、落ち着けなくなります。
……そう、「普通の人」である視聴者のほうが(←ココ重要)「不安」と「落ち着かなさ」の当事者となるのです。

そして…

「レオナって男? いゃそれとも女と言うべきなのか??」
  ↓
「でも、そうなると男とか女とか、いったい何を基準に言われてるの?」
  ↓
「結局レオナはいったいどういう存在なのだろう?」
  ↓
「そもそも男女でいろいろ違わないといけないのはなぜ!?
  ↓
性別で人の役割を分けることって妥当なの?」

…という具合に、視聴者の観念を激しく揺さぶり、以て社会のジェンダー構造自体を撹乱する効果が発生します。

これにより、セクシュアルマイノリティの存在も、「本人が普通でない人達なのだ」という位置付けから、社会全体の捉え方の問題として、社会の構成員全員で再考すべき案件に置き換わります。
それはやはり、すべての人がありのままに生きやすい社会につながることであり、意義は大きいはずです。

そしてそのあたり『プリパラ』制作陣は、かなりよくわかってコトを進めているようにも感じられます。


願わくは、近い将来において、こうしたトランスジェンダーなどセクシュアルマイノリティについての「わかりにくい説明」こそが理解されやすくなる、そういう日が来てほしいものです。


◎今般の『ごめんね青春』で、このテーマを扱う実写映像作品において、ひとつ従来は避けられがちだった画期的な点を言えば、「MtFの男子生徒」役に男性俳優を配役して描いたことでしょう
MtFもFtMも女性俳優なことが多い
「男性」のノンパス女装なんて「キモい」という反応がまだまだ卓越的かもしれない現状で、あるていど保守的な人でも嫌悪感なく見ることができる絶妙の線上で上手いこと映像化していたのは、やはりこの種の題材が扱われる前例も増えて、演出のノウハウが成熟してきた成果かもしれません(思えばあの『金八先生』からもう10年以上になります)
逆に、アニメというのは実写ではないゆえにこの問題からある程度は距離を置けることもあり、さすがの『プリパラ』も、レオナのビジュアルについては基本的にまったくの女の子として設定しており、現実のトランスジェンダーの見た目の(「パス」をめぐる)問題は今のところスルーしている形になっています。


阪神淡路大震災20周年 [その他雑感つぶやき]

明日は1月17日。
早いもので、あの阪神淡路大震災から20年がたとうとしています。

1995年当時というのは、ある意味 私がいちばん壊れていた時期で、男性としての生活が どうしようもなく煮詰まって、身動きがとれなくなっていたころにあたります。

阪神淡路大震災は、そんな自分の「男性として生きる枠組み」自体に決定的な亀裂が入り始める、その象徴的な出来事でもありました。

拙著『明るいトランスジェンダー生活』の冒頭が、この阪神淡路大震災から始まるのは、そういう理由でもあります。

 


そして、あれから20年。

私自身は日々の生活はすっかり女性として送るようになりました。

一方で、この間には東日本大震災などもあり、世の中全般における防災への関心などは、ますます高まっているといえるでしょう。

国も地方レベルでも、行政によるさまざまな取り組みはあります。
そして、人々が居住する各々の地区ごとの住民自治会などでも、それぞれの実態に応じた防災プランが立案され、訓練なども折にふれ実施されているのではないでしょうか。

ただ、そうした現場で、セクシュアルマイノリティの存在が、どのくらい念頭に置かれているかというと、まだまだ不十分であるようにも思えます。

東日本大震災の際にも……

  大災害と非常時弱者

  避難所のセクシュアルマイノリティ問題が進展

……のように述べましたが、こうしたことがいずれの災害現場でも顧みられるようになってほしいと、切に願います。

特に、包括的な行政レベルでセクシュアルマイノリティの存在が意識されることも重要ですが、やはり実際の避難所の運営などに直接的に反映されるであろう、各地区の住民自治会レベルでの対応も非常に重要となるでしょう。

いわゆる「20人に1人」比率を適用すれば、「自治会」規模の人口の中にも、少なく見積もっても数人の、何らかのセクシュアルマイノリティが住民に含まれることになります。

住民を必ずしも「女」か「男」のいずれかに単純に二分することはできない――そういう認識を、ぜひとも日々の生活を送る地域社会においても ひとりひとりが持つようにしたいものです。


◎とはいうものの、ワタシ自身、実際に長年居住している地元の住民自治会への明示的なカミングアウトというのは、なかなかハードルが高くて後手に回っています。このあたりは継続的な課題ということになりますね。
逆に、その意味でも、当事者による申告を待つことなく誰かが気づくことが大切だということにはなるでしょう。


 

 


 
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