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佐倉満咲、高校受験の志望校を検討する [今週の佐倉満咲]

さて、ご存知のように現在は中学生となっている我が娘・満咲ですが、この2014年度にははや3年生に進級しております。

それゆえ当然に高校受験は今年度の緊切した課題であり、したがってこの夏頃からは、各種の学校説明会・学校見学会の類にも積極的に参加し、私も親として必要に応じて同伴参加したりしてきました。

まぁ、最も大事なのは自分に合った高校に進学すること。
せっかくなので大学に進学できるだけの学力は身に付けてほしいとは思いますが、やみくもに「進学校」を目指すことが良いわけでもありません。
そのあたり、よ~く自分で考えて結論を出してほしいというのが、親としての願いでもありました。


で、そんなわけで、志望校の検討にいよいよ本格的に取りかかろうかという、今年の夏休みの前、はたして我が娘・満咲は志望する高校選びに際してどのような考えでいるのか、私は満咲を呼び止めて質してみました。

「なぁミサキよ。高校はどのあたりを目指すつもりなんや?」

満咲は一瞬 考える表情になった後、おもむろに答えます。

「あぁソレな。いろんな資料とか見て、いろいろ考えて検討したんやけど……」

おっ、なるほど、そんな素振りをこれまであまり見せなかった割には、じつは自分なりに情報に当たって研究はしていたようです。
私は少し感心しました。

「検討したんやけど……、(とりあえず現時点での暫定結論としては)やっぱり………」

ふむふむ、やっぱり?


「……女子校か 共学校の
  どっちかにするワ」

  ※語尾の「ワ」は女言葉ではなく関西弁


…………


…………。


 え゛っ!?


  (゚∀゚)


ちょ、待っ

ぃや、いゃいや!!

待たんかい(^o^;)


ソノ結論って、出すのに「いろいろ考えて検討」する必要、あったのか!?!?

少なくとも全国の大半の(もちろん「全員」ではないにしても)中3女子は、何も考えることなく、いきなりソコからスタートしていると思うのだが!?

……………。

むぅぅう。

しかし、ヤツにとっては、その点は、ひとつ重要な最初の考慮ポイントだったというわけか!

どうやら自分の進学先候補から男子校を除外するにあたってのロジック展開が、一般的な女子中学生のソレとくらべて、かなり異次元なルートだったようです。

つまり、性別は気にせずにいくつもの高校から、これはと思う候補をピックアップしていき、そうして「この学校に行きたい!」と思った高校がたまたま男子校だったりしたときには、それはそれで何か方策を考えればよい。
ジェンダーの壁なんて、せいぜいそれくらい。
なんとかなる。

そういうわけですかね?

で、結果として、ピンと来る高校は男子校の中にはなかったと。


……まぁ、我が娘・満咲の性別にまつわる観念がタダ者ではないのはわかっていましたし、それはそもそもワタシのせいだったりもするのですが、それにしてもそのタダ者でなさ加減を、ちょっと甘く見ていました(^^ゞ

むろん、「女子」「男子」の定義が絶対の基準で自明なわけでは決してない以上、「女子校」「男子校」もまた、誰が行く学校なのか……は、きわめて状況規定的ではあるでしょう。
「女子校」「男子校」といった男女別学校の存在意義は、現状では全否定できないにせよ、その枠組みは、一度批判的に昇華されるべき時期には来ています。

「女子校」だ、「男子校」だ、というだけで、志望校選びの最初の最初の段階で、自動的に一部の学校群が候補から除外されてしまうなんてもったいない!

その意味では、いつものとおり、コレについても、むしろ満咲のほうが正しいのです。

というわけて、満咲さん、その「タダ者でなさ」を有効に活かしながら、ぜひ素晴らしい高校生になってください。


そして、我が娘・満咲の高校受験における志望校選定エピソードにあっては、じつはコレが最大のハイライトとなってしまいました。

もう完全に出オチですナ(^o^;)。

なので、以下は、私がこの夏から初冬にかけてあちこちの学校説明会(学校ごとの他に合同会場のものも)や学校見学会・オープンスクールの類に同伴して、佐倉智美的視点(元高校講師で元塾講師でもあるところのトランスジェンダー当事者かつ社会学使いとしての、ジェンダーやセクシュアルマイノリティにかかわる観点)気づいた点などをまとめたいと思います。


◎元男子校の共学校/元女子校の共学校
昨今の少子化のなかで、公立学校も統廃合はおこなわれていますし、私学にあっても学校法人の合従連衡的な合併や提携が進んでおり、学園名や高校名が、まるで銀行名や政党名がそのような状態になったが如く、一昔前とはガラっと変わったりしている事例は少なくありません。
それにともない校風なども従来とくらべて大きく刷新されたりすることもあるようです。
いわゆる偏差値的な面でも、親世代が受験した時代のイメージはそのまま通用しなくなっていることが多く、注意が必要でしょう。
そしてこれらの一環で、かつては「男子校」「女子校」だった学校についても、今日では男女共学化されていることは珍しくありません。
ただ、共学化したと言っても、本当に男女比率が均衡した状態になっている場合(一方がおおむね3分の1以上が目安となりそうです)と、例えば元女子校で男子がいるのは特進コースの1学級だけ……というような場合まで、その実態はさまざまです。
もとより、名目上の男女共学校であっても、実際の男女比率が激しく偏っているケースはあったわけなので、そのあたりはしっかり精査が必要となります。
そんななかで、とある入試説明会にて、元は女子校だった某共学校(上述例のように男子は特定クラスのみで少なめなパターン)の担当の先生に聞いた話ですが、やはり元女子校にあえて入学を志願する男子は総じて中性的な傾向で、元女子校のエートスが残り生徒数的にも女子の比率が高い校風にも馴染みやすいとのことでした。
このあたり、MtFの性別違和傾向がある高校受験生は、ひとつ検討する価値があるかもしれません。元女子校のほか、公立でも女子が多めな学校は比較的容易に探し出せます。
また、元が男子校の共学校だと、女子比率が少なかったりすると少ない女子の中で女子どうしの人間関係に気を使わないといけないというような話もある一方、そういう環境が予測されるにもかかわらず、あえて入学を希望する女子生徒というのは、いわば「性別なんてどーでもイイ~♪」とばかりにジェンダーバイアス度が低い子が多いとも考えられます。
だとすると、女子集団内部での「女は女らしく」という同調圧力が苦手な女子には好適な選択したりえますし、ウチの満咲のような先進的な性別観念を持った子にも向いていると言えるかもしれません。


◎機能的な新校舎 VS 歴史ある学び舎
学校の再編等々にともない、各高校のハコモノ関連もリニューアルされたりするケースも見られる昨今、校地や校舎のありようは、やはり多岐にわたっています。
見学会に行ってみたある私立学校では、数年前に完成した最新鋭の校舎に完全に建て替わっていました。
普通は新校舎を建てたにしても、それを「新館」として、「旧館」である従来校舎と併用するのが一般的な運用ですが、この学校では潔く旧校舎は全廃し、すべてをキレイでピカピカの最新鋭の新校舎に遷したのです。
結果、非常に機能的にまとまった校舎となり、トイレもウォシュレット付きの旧来の学校トイレのイメージを覆したものとなっていました。
また職員室がガラス張りで、廊下から中の様子が窺い知りやすく、人見知りな生徒でも職員室に入りやすそうで、以て先生と生徒の距離感がほどよく近くなる効果が期待できました。
一方、別の学校の見学会に行った際は、歴史ある学び舎が立ち並ぶキャンパス全体ににじむ、何とも言えないしっとりした風情というか味わいある雰囲気に感嘆したりもしました。
その学校は高校を含めて下は幼稚園から上は大学まである女子教育の総合学園で、上述したような統廃合・法人の合併や提携の波からも幸いにも距離が置けているところでした。
そのためカトリックのミッションスクールとしての校風(と書くと何やら「お堅い」印象も受けますが、信仰は強要されませんし、礼拝の時間には真顔のシスターも普段はただの「大阪のオバチャン」だったりするようです)も連綿と受け継がれているのでしょう。
このような、歴史が醸しだす上質な空気感というものは、一朝一夕には出来上がるものではなく、ピカピカの新校舎にはない良さがあると考えられます。


◎トイレをめぐる攻防
前述のような校舎自体のほか、内部の各種の設備も重要です。
今回見て回った高校は、公立私立問わずいずれも教室にエアコンがあり、この点は大阪では今ではスタンダードと言えるでしょう。
自習室なども整えている学校は多かったですね。
また、公立高校であってもコンピューター関連の授業で使われる教室には真新しげなパソコンが立ち並んでいましたし、その他必要なものは、適宜更新する予算は付いているようです。
ただ、機動的な資金の確保と執行は、私学に利があるようで、公立の場合、どうしても予算がつくのは承認が済んだ項目から各学校順番に……というような形になるのが基本なため、モノによっては更新が遅れる設備もないではないようです。
特に気になったのはトイレ。
私立の場合は「旧校舎」のトイレであっても最低限の改修が済まされていて、ウォシュレットもついてることもありました。
しかし公立高校のトイレのリニューアルは後手に回っているようで、現在主流の30年余り前の生徒急増期に建てられた校舎のトイレの基本設計は、今どきの洋式トイレに慣れた世代の生徒たちには、ちと辛いものがあるという感が拭えません。
ただ、車椅子の生徒を受け入れたことがある学校では、特別な予算によって、トイレ改修がおこなわれていることもありました。
で、そうしたケースのトイレの「バリアフリー」化ですが、既存の男女別トイレの内部に設けられる場合もあれば、バリアフリートイレとして別の場所に存在することもありました。
また、車椅子の生徒が卒業してしまって久しいためかバリアフリートイレは普段は施錠されているような運用も見られました。
ただ、少なくとも男女別ではないバリアフリートイレが存在するのであれば、例えば性別違和があるなどして男女別トイレの使用に難がある場合は、入学後に「応相談」で使用可能にしてもらうことも可能ですから、ひとつのチェック項目にしておくとよいかもしれません。


◎制服エボリューション
制服は、やはり伝統ある私学では受け継がれてきたデザインの制服が人気ということもありますが、その場合でも夏服のみリニューアル、逆に冬服のほうを新時代に合ったものに刷新など、今日的なニーズへの対応はおこなわれています。
公立も同様に、見て回った範囲では、男子用女子用とも今風のブレザー基調の制服になっていました。
また、公立の中には制服が廃止され、基本的に服装自由というところもありました。
その場合でも「なんちゃって制服」をコーディネイトする生徒は多いようですが、このあたりも、性別違和がある生徒にとっては、スクーライフのQOLに大きく影響するところでしょう。
また制服はあっても、女子のボトムが、スカートの他にキュロットやスラックスから選べる学校もありました。


◎みんなで進学校/総合とか選択とか
少子化の昨今、どの高校も生き残りをかけて特色づくりには余念がありません。
有名大学への「進学実績」づくりもそのひとつですし、多様な進路への対応を打ち出す学校もあります。学校行事や部活動の活発さもアピールポイントのひとつでしょう。
そうした要素のバランスを考えて、自分に合った学校を選ぶとよいのは言うまでもありませんし、そのあたりの全体的な高校の雰囲気みたいなものは、複合的な因子(例えば周辺のロケーション――交通至便で賑やかな都市部だとか、閑静な住宅街だとか、緑豊かな田園地帯だとかいった、学校が直接関与できないものも含めて)にも左右されつつ形成されるので一概には言えません。
ただ、相対的に「進学校」としての評判を得た学校などは、その実態に見合った生徒が集まってくるために、学力的にも粒ぞろいで、目指す進路もある程度は傾向が似ています。それによる学校側と生徒のニーズの相互作用の結果、カリキュラム等は比較的選択肢の少ないものとなり、ざっくり文系理系が分けられる以外は、おおむね同じ授業をみんなで3年間受けることになりがちなようです。
これは、必ずしもそうなるわけではないにしても、ひとつボタンをかけちがえると「みんなで同じことをしないといけない」的な同調圧力がストレスフルに働くような風潮につながる可能性が考えられなくはありません。
(実際には、かなりの「進学校」寄りでいわゆる偏差値的にも相当に高い高校の説明会での生徒会役員による学校紹介のコーナーで「ウチは制服が自由なので、学ランが着たい女子でも大丈夫。あっ、もちろん男子のスカートもOKです!」と生徒会長が語るような場面もあった――どの程度「半分冗談」なのか量り切れませんが――ので、本当に一概には言えないでしょうが)
反面、大学進学実績も相応にあっても、「総合学科」や普通科という建前ながら総合学科に近い内実の「普通科総合選択制」の学校などは、カリキュラムの自由選択の幅が大きいことが特色で、学校独自のコンセプトに基づいた自由選択科目も用意されています。
これにより各々生徒の多様なニーズに対応が可能になるのですが、その結果時間割はひとりひとり異なることが当たり前になります。
この「ひとりひとりちがう」という前提があることが、学校全体の自由度の高い空気感にもつながり、明るく開放的な校風が醸成されているような印象は、これまた今回の観測範囲を見た限りではありますが、わりと感じられました。
みんなでいっしょに同じことを一斉にするのに馴染めない、何らかの「みんなちがってみんないい」属性を持つ人は特に、こうした自由度の高い学校を検討してみるのもよいかもしれません。


……かくして、この12月に至り、学校での三者面談も経て、現時点では志望校も決まった我らが佐倉満咲さんは、只今絶賛受験勉強中;

思えば、かつて「女子高生になれなかった少年」だったワタシの、その娘が、いよいよ女子高生になるわけです。

一般に、親が叶えられなかった夢を子に託す……というのは、子どものほうがある程度は自分の自由意志で選んだことが結果的にそうなってもいるならともかく、もっと初期から親にそうするように仕向けられ押し付けられたものだったりしたら、とてつもない「毒親の呪い」以外の何物でもありません。

ただ、この場合は、単に「女子高生になる」だけだし、高校生になった後のスクールライフへの展望も、おおむね本人が自らの意思で思い描いていますから、まぁ大丈夫ですね(^^ゞ

ともあれ、小説『1999年の子どもたち』では、その作中の舞台となる西暦2015年において、一足早く本人をモデルにした登場人物として高校生になっていた佐倉満咲さんが、いよいよリアルに高校生になる2015年
はたしてどんな展開が待っているのでしょうか。


  


★オマケ1:模擬試験には何着ていく?★
模擬試験を受けに行くときにちょっとした「遊び心」を出す話は昔からよくあります。
(「五ツ木の模擬テスト」の場合、中学校の制服着用が推奨されているなかで)セーラー服の学校の友達とブレザーの制服を交換して行くとか、わりとよく聞くところです。
だとすると、例えば「男女で」制服を交換したりするのもOK!?
……というようなことを満咲に伝えると、「あっ!」と一瞬頭の上に電気が点灯(^^)
どうやら、この機会に一度くらい学ラン着て男子に混じる、その千載一遇のチャンスととらえたようですw(いわゆる性別違和とかじゃなくて、単に試しに男の子にもいっぺんなってみたい的な)
まぁ模試の受験料も安くないし、模試を受けるからには実力の測定や合否判定などは外せませんので、わざわざ男の子のような仮名で受験するなど、ソコは断腸の思いで諦めてもらうしかありませんが、しかし、もしもその点を割り切れて、ちょっといつもと違う自分になる体験をするという目的に特化できるのなら、べつに模擬試験受けるだけなら公的書類も何も要らないのですから、名前も性別も自分の好みのものにして参加するのがいけないなんてことはないでしょう。
だから、例えば女の子になりたい男子生徒が、本格的なトランスはまだ先としても、せめて今ここで女子受験生気分を味わうくらいはしておきたい――ということなら(いちおう完パスが条件にはなるでしょうが)女子制服を借りるなどして、女の子として模擬試験に参加するのはぜんぜんアリということになりますね。


★オマケ2:アンケートの性別欄!
学校見学会・オープンスクールの類に行くと、だいたいアンケートの記入を求められるのが通例ですし、子どもが体験授業を受けている間に保護者には保護者向けの説明会があったりもしますので、アンケートは用紙からして親子で別々のものになっていたりするのですが、ある学校のアンケート用紙を見て、はからずも目が点にになりました。

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  (゜o゜;

ぃやー、生徒用ならまだしも回答者が女子なのか男子なのかを知りたいニーズがあるのは理解できなくもない(もちろん屈託なく二択の性別欄を設けるのがよくはない)が、保護者はもう「保護者」なんだから、べつに「性別」は不要なのでは!?
必要もないのに性別を尋ねる欄をなんとなく設けるのはいちばんいけません。
スルーしてもよかったのですが、やはり今後この学校に入学するさまざまな生徒たちのことを考えると、ひとこと言っておくことが望まれましたので、この二択性別欄は非回答の上、自由記入欄でこの点について、保護者向けアンケート用紙に必要な質問項目だとは思えない旨を指摘し、もしも性的少数者の受験生が入学を希望した際に学校側の誠意ある真摯な対応があるであろうことに対して疑念を抱かせてしまう事案だとも述べておきました。
で、帰り道で満咲にこの話をしたところ、ヤツもまた「なんで(性別欄が)あんの!? …と思ったワ」とのこと。
こうした見学会の際のアンケートに性別欄はない学校もあったので、このあたりにも各学校の考え方がはしなくも反映されるのかもしれません(もちろん、このことと、実際にセクシュアルマイノリティ生徒が入学した際の真摯な対応とが、どれくらい相関するかはわかりませんが)


★オマケ3:性別欄が二択じゃない!★
しかし、捨てる神あれば拾う神あり(!?)。
学校見学会・オープンスクールの類は、当日いきなり行ってかまわない場合もありますが、たいていは何らかの事前の申し込みが必要です。申し込み方法は学校によってさまざまですが、今風にインターネットからできることもあります。
そして、webの申し込みフォームというのは、「性別欄」的には凄まじく鬼門です。ラジオボタンによって強制的に男女いずれかを選ばざるをえないようにプログラムされているのですから。
ところが、ある学校の見学会・オープンスクールに申し込もうとしたところ……

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……………。

自由に記入できるのかよ!

   ヽ(^o^)丿

しかも入力可能な文字数、多っ!!

これならちょいといちびり精神を発揮して、「男女2つのどちらかと言われれば、いちおう女子」みたいに書いておくことも可能です。
まぁ、これもシステム上たまたまこうなっただけで、実際にこの学校がどのくらい「男女2つのどちらか」で割り切れない性別の生徒に対応してくれるのかとの相関関係はないのかもしれませんが、それでも、少なくともこの局面では少し気持ちが楽でしたね。


「ありのままで」は普遍的な意義を持つ流行語で終わらせてはいけない言葉 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

性的少数者をはじめ、各種のマイノリティが生きづらさを抱えるのは、多数派基準によってつくられた普通」の範疇から疎外されてしまうことに起因しています。

これが普通。それは当たり前……。

そうした枠組みに適合することこそが正しく、決められたことへの対応スキルを持っているのが正常であって、そうでないのはイレギュラーな異常なことである――。
そうした価値規準が普遍化されることによって、各種のマイノリティであることが、社会的なハンディキャップとして構成されてしまうのです。

したがって、各種マイノリティについての課題は、各々のマイノリティ当人に原因が内在しているのではなく、その存在を受容する社会のありようの問題であり、つまりは社会の構成員全員が当事者であるのだという認識が共有されることが、まずは解決への第一歩なのです。

そうして、さまざまなマイノリティが、「そういう人だって普通にいる」ことが当たり前のこととして取り扱われることで、社会的な障壁はなくなり、誰もがありのままで肯定されることが真のバリアフリーであり、まさにノーマライゼーションの真髄だと言えるでしょう。

こうした趣旨もあって、私が性の多様性についての市民講座などでは、だいたいシメの言葉としては…

「性別」よりも、 ありのままのその人 を認め合えるようになれば、 すべての人が もっと生きやすくなるのでは

…というものを持ってきており、パワーポイントで映示する画面にも記述しています。

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この「ありのまま」は、社会の中で居場所を見いだせず希望を失うなどした人に対して、「自分らしく」だと自分らしさっていったい何だろうということで再び思い悩んでしまいかねないところを、そうやって自分らしさを模索して向上の努力をしているプロセスをも受けとめることができ、したがってあらゆる自己実現のための本人の取り組みを無意味化してしまうこともなく、「あなたは悪くない、あなたはそのままでいい」と伝えられる、非常に的確な言葉です。

同時に、当人にとっては、自分のそうした現状がそのまま認められ、人々の関係性の中へ迎え入れられるわけで、自己肯定に不可欠な考え方でもあるでしょう。


かような次第なので、「ありのまま」は、私は以前より重要なキーワードとして使っていますし、例えば講演会にマスメディアの取材が入った際などにも、実際にまとめられた報道では、この「ありのまま」の部分がクローズアップされたりすることが多いです。

例えば、2011年に沖縄話をさせてもらったも、地元紙の沖縄タイムスが、講演でのキーワードとして見出しにピックアップしています。

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同じくもうひとつの地元紙・琉球新報でも写真のキャプションに用いられています。

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さらには、2008年に和歌山県田辺市で話した際の地元紙でも、やはり見出しに「ありのまま」の文言が使われています。

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そもそも拙著『性同一性障害の社会学』(2006)からして、この「ありのままで」は重要コンセプトのひとつになっていて、最後の最後のまとめの204ページにも「“ありのまま”を認めあえる社会の形成は、より重要…」といったフレーズが見られます。

 


このように、私が「ありのまま(のその人が尊重される社会にしていくことが重要)」と、書いたり、講演で使ったりするようになったのは、昨日や今日のことではなく、少なくともかれこれ10年は言い続けていることになります。

そして、実際にこれがキーワードとなって、読者や聴衆の心に訴える効果もあったことでしょう。


ただ、そんな「ありのまま」。

今年・2014年の半ばから情勢が変わってきました。

私が講演会などで、この「ありのまま」を口にすると、会場が何やら「あらあら、佐倉先生ったら、ミーハーに流行語に便乗しちゃって~」という感じのビミョ~な雰囲気になるのです(^o^;)。

原因は……………

どう考えてもコレですね。

大ヒットしたディズニーアニメアナと雪の女王』!


 


 


もはや知らぬ人はいないかもしれませんが、なんとこの劇中歌『 Let It Go 』の日本語版歌詞のサビの部分が「ありのまま~♪」なのです。

そして、映画のヒットにともない、この劇中歌中のキーワード「ありのまま」もまた、ある種の流行語状態になったというわけです。
(惜しくも(?)大賞は逃しましたが、流行語大賞の候補にノミネートされたりもしていましたね)


……ぃや、決して悪いことでもないのです。

この『アナと雪の女王』劇中歌中での「ありのまま」の趣旨というのは、上述したものとおおむね一致しています。

『アナと雪の女王』のストーリーの主軸は、作中での「雪の女王」エルサさんが触れたものを凍らせてしまうという異能を持っているマイノリティであることが原因で引きこもってしまい、それを妹アナとの「真実の愛」を自覚することで超克し自己肯定していくプロセスとなっています。

これはさまざまなマイノリティの、例えばセクシュアルマイノリティが周囲から否定的に接されたことで心を閉ざしてクローゼットとなり、その後 自分を受け入れてくれる人との出会いなどをきっかけに自己肯定ができカミングアウトに至るような過程の暗喩として読み解くことが、じゅうぶんに可能です。

劇中歌『 Let It Go 』の日本語版歌詞も、まさにそういう歌であると解釈することもできる仕様となっています。

その意味では、この「アナ雪ブーム」は、従前より私が訴えてきた「ありのまま」の真髄が、大ヒット映画に取り入れられることで、より多くの人の間に浸透し、賛同を得たということでもあると言えるでしょう。

願わくは、これが流行語として一過性のブームとして消費されて終わるのではなく、末永く人々の心に刻まれるようにと思います。


   

ところで、今般のアナ雪ブームでは、私の周辺でも『アナ雪』を激賞する人が多々見られます。

『アナ雪』の評価ポイントは、ひとつは前述したとおり、マイノリティの社会的受容と自己肯定にスポットを当てた物語づくりがおこなわれている点。

そして、もうひとつはと言えば、お姫様が眠っている間にすべてを解決してくれるような白馬の王子様に頼るのではなく、女性どうしの親密な関係性こそが問題の解決をもたらすという点。
これは従来のディズニープリンセスものからすれば、180度の転換と言ってもいいくらいです。

そういったところを高く評価する人が、私の周辺に多いというのはある意味必然でしょう。

ところが、そうした人々のうち、少なからぬ割合が、アナ雪を激賞した返す刀で、日本の各種のアニメについて批判的に述べはじめることには違和感を禁じえませんでした。

つまり、しょせん日本製アニメなんてすべてオタク向けの下劣な萌えコンテンツにすぎない……ということなのでしょうか。

しかし当然それは、無知にもとづく偏見に過ぎません。

性的少数者をも含意した各種のマイノリティ(実際の作中では「超能力者」などに仮託される場合が常套)が描かれた作品も、女性が男性に頼らずに主体的に活躍する物語も、日本のアニメ作品には当たり前に存在します。

※とりあえず以下の記事あたりは、その具体例も含めて参考になるでしょう

 → 珠玉の深夜アニメ『花咲くいろは』

 → 新しい女性の生き方のロールモデルは海賊にあり!

 → 夏色キセキは逆転の発想の「女の子アニメ」

 → スマイルプリキュア最終決戦編に見た居場所の社会学

 → さらばドキドキプリキュア・愛の戦士たち

 → 桃子ちゃんの鬼退治


むしろ、そうしたジャパニメーションの影響を受けて、今般ディズニーでさえ「王子様を待つか弱いお姫様」像を排し「女同士の絆」を通じて課題が解決されていく物語に遷移せざるを得なくなった結果が『アナと雪の女王』だったのだとさえ言えるでしょう。

偏見で曇った目で物事を見ているがゆえに、ずばらしい内容を包摂したコンテンツ群を表層的にしか受けとめられず、物事の真相に気づくことができないせいで、酷いヘイトスピーチをそうと気づかずにしてしまうのは愚かしいことです。

しかも、そんな人々が激賞している『アナと雪の女王』作中でエルサさんを氷の城に引きこもらせてしまったものが、他ならぬ、そういった周囲の人々の無知にもとづく偏見そのものだったのではありませんか?

こうした経緯まで含めると、私としては、今般のアナ雪ブームには、どこかモヤモヤしたもの感じずにはおれません。


《補足》
ツイッターで随時述べていたこちらも参考にしてください

基本的には首肯する内容なのだが、やはり日頃から国内で相応にアニメをウォッチしていれば、なぜみんな突然アナ雪を見てはじめてコレを言うのかに違和感を覚えざるを得ない

同じようにマイノリティの自己肯定と社会的受容をテーマに描いているのに、日本製深夜アニメなど低俗なオタク文化に過ぎず、一方でディズニー映画は崇高な芸術、…なんていう多数派の思い込みに基づく偏見が透けて見えるから、このアナ雪ブームに対して私は胡乱な感じがするのかもしれない、もしかして

「ディズニーがやることなら間違いないだろう」的な安易な権威主義にマジョリティの権力性が結びつくことこそが、マイノリティに対する社会的抑圧を生み出す源泉なのだとしたら、アナ雪ブームなど笑劇に他ならないのでは?

私がこのアナ雪ブームにモヤるのは、アナ雪を激賞する人は、日本のアニメをよく知らず、その背後にはアニメカルチャーやオタクへの謂れのない偏見が垣間見えることが多いのですが、そうした種類の世間一般の偏見こそが、アナ雪劇中でエルザさんが心を閉ざし氷の城に閉じこもらせたものに他ならないから


あらゆる差別のはじまりは、ひとつ、不十分な情報に基いて、相手の実相をよく知らないまま、相手を「気味が悪いもの」「得体が知れないもの」と思い込んで忌避してしまうところにあります。

そのためにも、多様で偏らない情報に接するリテラシーを磨き、無知がもたらす偏見に取り込まれないようにすることは重要でしょう。

そうした基盤の上に立って、お互いが「同じ人間」として尊重しあえるようにしていくことが、すべての人が、相互に「ありのまま」を認め合える、真の共生社会につながるのではないでしょうか。


「男と女は違うから別々に取り扱えばよい」…で本当にいいの!? [メディア・家族・教育等とジェンダー]

さて、お知らせブログのほうの記事に書いたとおり、先日甲南大学の授業に出講するのに、久しぶりにJR摂津本山駅経由で行ってみたのです。

そして機嫌よく授業を終えて帰ろうとした、その帰りのJR電車内で、エラいものに出くわしてしまいました。

私が乗った車両の車内広告がなんと………


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!!

    Σ(゚Д゚;)


なんとまぁ……、

【「性別」は《「女」と「男」》ではない

【「男」や「女」といった社会的属性には本質的な根拠はなく、人と人とのコミュニケーションの場において意味づけされ、そこでの相互行為のやり取りの際に解釈されることで有効化されているもの】

【身体の生殖機能にかかわる差異を「性別」にしてしまっているのもまた、社会が構成した「設定」】

【ひとりひとりの多様な性のありようは、じつは単純な男女軸では捉えきれないほど、複雑で混沌したもの】

……といった話をした授業の帰りにコレは、ちょっとダメージ大きいですねぇ(^_^;)


  


たしかに、この『察しない男、説明しない女』(五百田達成 2014)のような書籍の内容は、現実の社会の状況が、人を「女」か「男」かを指標に二分するという体制下にあり、その結果として双方が別々の生き物となってしまっている以上、ある種のコミュニケーションのためのハウツー本として結果的には有用になっている面も否定はできないのは理解できなくはありません。

実際にアマゾンのレビューでも役に立ったという旨が複数寄せられており、また売り上げ面を見てもニーズは高いことがうかがい知れます。

10年余り前にも『話を聞かない男、地図が読めない女』(Allan Pease,Barbara Pease,藤井留美[訳] 2001)が話題になったことは、いまだ記憶に新しいところと言ってよいでしょう。

その他にも類書は数多いようです。

しかし、はたして「現実への対処としては有用な図書のひとつ」と割りきって済ませておけばよいものなのでしょうか。

そもそも「男女」間で相互理解がいちじるしく困難となるほど両者が別個の性質の存在として分断され、激しいディスコミュニケーションが起きている状況は、はたしてどのようにして構築されているのでしょう?

そうした社会体制の一角では、まさにこうした「女と男はちがう」という前提に立脚して書かれた書籍(十歩譲っても、広告・宣伝などの場でのそうした前提を前面に押し出したプロモーション)もまた、その構造の構築と維持に寄与していることになってしまっているのではないでしょうか。

そうした言説が、くり返し叙述されることによって、「女と男はちがう」という価値規準が不断に再生産され続け、そうした社会秩序のもとで人々が行動し合うこととなり、その結果として「女と男はちがう」ようになってしまっている側面は非常に大きいのです。

その意味では、この『察しない男、説明しない女』のような本は、短期的には現実的な対処には役立つものである反面、長期的にはじつはその「現実」を生み出す原因のひとつにもなっているわけで、はなはだしくマッチポンプなことをしでかしていると言えます。

百歩譲っても、『察しない男、説明しない女』で紹介されている各種の指標は、たしかにそのように人をある傾向で便宜上2タイプに分けて考えれば、異なるタイプの人と接するときのヒントが得られるとしても、そのすべてを「男女」で仕切れるかのような誤読を誘うのは、やはり罪深いと言うべきでしょう。


また、最初の写真をよく見ると、撮影した場所が女性専用車両となっています。
(ちょっと画像では不鮮明ですが、向かい側のホームの電車にも当該車両が写っています)
※「てゆーか、オマエが女性専用車両に乗ってるのかよ」というツッコミはナシで Σ(゚д゚lll);

こうした鉄道など公共交通機関における「女性専用」というのは、やはり現実の社会のありようが男女二分的であり、そういう中で各種のパワーリソースが総体的には「男性」に多く割り振られている中では「女性」が被る不利益が少なくないことを抜きに評価することは慎まないといけません。

女性専用車両は、現状では「女性」が安心して乗車できることを保障する方策として非常に有効な現実的対処であり、有意義な取り組みであることは決して否定できません。

そこを難癖つけて「男性差別だ!」などとバッシングするのは不当であるとしか言えないでしょう。

とはいえ、あくまでもこれは緊急避難的な対症療法にすぎないのも事実。

本来は女性専用車両など必要がない社会状況にすることが抜本解決であるとすれば、その基盤は、人がむやみに「男女」で分断されず、同じ人間として対等に関係性を築ける環境に待つべきものであるはずです。

だとすれば、男女を分けておけば万事解決という発想は、目指すべき理想に対してはむしろ逆行してしまっている……ということも理解されなければならないでしょう。

したがって女性専用車両もまた、短期的には現実への対処として効果的である反面、長期的には原因を再生産してしまっているという視点は、もっと顧みられるべきなのです。

※女性専用車両問題については、導入が盛んになった2000年代初頭にも書いていますが、基本的にそちらの内容のほうも今なお賞味期限内と思われます。

 → 女性専用車両は問題解決の切り札か?

 → 暴走する女性専用車両、誰か止められないのか!? ←今見るとちょっと「釣りタイトル」ですね;


ちょうど先月には、「女子大に行きたい男性」についての報道もありました。

かいつまむなら、自宅から通えて、かつ学費も穏当な金額で、そして希望する「栄養士」の資格が取得できる課程が置かれている学校が「女子大」しかないのに、男性であるという理由だけで入学願書を受理してもらえないのは不当だというもの。

→「公立女子大行きたい」男性、出願不受理は違憲と提訴へ(朝日新聞デジタル)
 http://www.asahi.com/articles/ASGCF51QYGCFPPZB00N.html

→「女子大は違憲」? 福岡女子大へ入学希望の男性は裁判で勝てるのか(NAVERまとめ)
 http://matome.naver.jp/odai/2141603054837438101

→女子大に行きたい福岡県の男性の真相とその報じ方について(togetter)
 http://togetter.com/li/745963


この件について、私の観測範囲では、おおむねセクシュアルマイノリティ系の人は一定の理解や共感の姿勢であった反面、シスジェンダー女性にあってはフェミニズムの知見を相応に身に付けている人であっても(だからこそ?)難色を示す例が少なくなかったように思えます。

曰く、せっかくの「女性専用」と区画された安心して過ごせる領域に男性が入ってこようとするなんて! といったところでしょうか。

もちろん、「女子大」がつくられた歴史的な経緯などは無視できません。
現在なお、社会の男女二分構造における弊害が「女性」に多くしわ寄せされがちなことを思えば、大学を含めた女子校全般の意義は、今も健在であると言わざるを得なかったりもするでしょう。

それでも、この件もまた女性専用車両と同じく、何でも男女で分けてさえおけばよいというものではないのだとしたら、あらためて議論の俎上に乗せて、発展的な解決が図られるべきものではあるでしょう。

それに「栄養士」の資格が取れる学校に「女子」専用が多いというのは、そうした資格を要するような仕事を「女性役割」と決めつけて性別役割分業を強いる、ジェンダー化された社会秩序の反映でもあります。

その意味では、やはりフェミニストこそ、今般の件を機に「女子大」の意義を一面的な視点ではなく、ジェンダーをめぐる諸問題との連関で多角的に見ていくべきです。

フェミニズムが目先の「女性」の利得を因習的に固守するように見えてしまうのは得策でないのは言うまでもありません。


そんなこんなで、帰宅すると、今度は中学3年生にして高校受験を間近に控えた我が娘・満咲が、取り組んでいた英語の問題集を持って私のもとへやって来ました。

「この問題、意味がわかれへんねんけど……」

どれどれ~?


 BL141218_02EnWord.JPG


こ、これはっ!!

   (´゚д゚`)アチャー

………まぁ、こういうことにいちいちツッコミを入れていたのではキリがないのも、この世界の実状です。
「ここは戦うところではない」と割り切って「素直に」解答するのが、この場合は最善でしょう。

しかし、たしかに、はたして「女」と「男」は、本当に【対】なのか!? という疑念は拭いきれるものではありません。

佐倉満咲さんとしては、そのあたりの出題のポリティカル・コレクトネスについて疑義が生じるのを禁じ得なかったわけですね。

いやはや、心強いっちゃー心強い(^^)


ちなみに余談ながら、ここだけの話、甲南大学にかんして、本当に見てはいけないものを見てしまったのは、じつはコレ;

 BL141218_03ForM.jpg


  ( ゚д゚)ポカーン

(たぶんセクハラの相談をしたい教員を学生が探すときなどには有用な項目だったりするんでしょうが……)




 
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