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桃子ちゃんの鬼退治 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

過日、昔の新聞の切り抜きを整理していると、2000年5月22日の朝日新聞の「アメリカのトランスジェンダー活動家、ジェイムズ・グリーン氏が来日」を伝える紙面が出てきました。

 20000522momoko.jpg

語られている内容は今読んでも共感できるものです。

そして、さすがのジェイムズ・グリーン氏(FtM)、「ただの毛深いオッサン」にしか見えないのはさすがというべきでしょう(^^)。

てゆーか、当時パッとこの紙面を見たとき、むしろこの写真の「男性」は隣の記事の「暴力やめたい男性」と思い込んだほどです。

◎この隣の記事の、男性DV加害者向けのプログラムというのも、今でこそ必要性・重要性の認識が高まり、それなりに取り組みの機運は高まっていますが、2000年当時としては、かなり先進的な試みだったのではないでしょうか??


一方、この紙面にはもうひとつ興味深い注目点があります。

それは右側の投稿コラム。

大阪の堺市に住む主婦が、毎晩2人の娘におこなっている物語の語り聞かせで、桃太郎や金太郎などのいわゆる昔話は男の子が主人公なものばかりなことにギモンがよぎり、ある日ふと思い立って、桃から生まれたのが女の子なバージョンの桃太郎を語り聞かせたところ、娘たちからは好評を得たというもの。

題して「桃子ちゃんの鬼退治」。

これは、しごくもっともなことで、物語の主人公として主体的に大活躍するのが男の子ばかりではいちじるしくジェンダーバランスを欠くというのは、いわば「メディアとジェンダー」問題の基本です。

これらが、女の子は助けられ守られる受動的な存在でしかない物語と対を成すことで、子どもたちへのジェンダー意識の刷り込みにもなってしまう問題は、改善が図られるべき重大な課題と言ってよいでしょう。

むろん、西暦2000年といえば、アニメならすでに『セーラームーン』後の世界。
ちょうど『おジャ魔女どれみ』シリーズでは、女の子たちが力を合わせて主体的に課題を解決する物語も展開されてた時期ではあります。

しかし、そういった新しく制作された物語ならともかく、いわゆる古典的な昔話などについては如何ともし難いのは、なかなか悩ましいところです。

→[参考]:「漂流する名作 ~ Wrong Love Letter
http://homepage3.nifty.com/tomorine3908/emedia.contents/015.WLL.htm


その意味でも、このように語り聞かせを担当する人が、ちょっといちびり精神を発露させて、「桃太郎」を「桃子ちゃん」に改変したバージョンをつくってみるようなことは、非常に意味がありますし、聞く側の子どもがその内容を正当なものとして受容しうる環境づくりもまた望まれるところではないでしょうか。

もはや10年以上も前のことにはなってしまっていますが、こうした堺市の主婦の方の取り組みは大いに評価されるべきです。


さて、そんなことも考えながら、2014年6月のある日、私が7月始まりの来期アニメに何を見るかを検討していると、『モモキュンソード』なるタイトルの作品に行き当たりました。

→『モモキュンソード』公式サイト
http://momokyun.com/


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(公式サイトからキャプチャして構成)


……………

……………っ!


_人人人人人人人人人人人人人_
桃から生まれた桃子ちゃん!
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄


(*゚∀゚)

な、

な、……なんとっ!!


堺市の主婦が朝日新聞に投稿してから14年。

まさか2014年になると「桃子ちゃんの鬼退治」が、本当に公式にアニメになって放映されるようになるとは!

………「私たちは今21世紀に生きている」という言葉の意味があらためてわかった気がしましたw


むろん、このアニメ『モモキュンソード』、桃子ちゃんらのキャラクターデザインにおいて、過剰な巨乳描写がある点などが、いわゆるプチ「ビビッドレッドオペレーションのお尻問題」であり、評価に留保が必要な部分もないではありません。

実際にオンエアが始まったのを視聴してみても、「巨乳描写」を含めて無駄にエロい演出が過剰なのは否めないです。
その種の性的な描写は作劇上の必要・必然や、作品の全体像をふまえた上で慎重な匙加減が望まれるところですが、第2話などを見る限りでは安易な「男目線」に陥っているとの誹りも免れないでしょう。

そういうニーズの存在自体が頭ごなしに否定されることも好ましくありませんが、しかしもっぱらそのニーズに応えるだけでは、このアニメはもったいない

せっかくの「桃子ちゃんの鬼退治」譚のアニメ化です。
そういった「エロい演出」にひいてしまうような層の中にこそ、この作品を観てもらいたい人たちがいると言うこともできるはずです。

そのあたりを勘案した、バランスの取れた演出を期待したいところです。


そして、この『モモキュンソード』におけるプチ「ビビッドレッドオペレーションのお尻問題」を一旦 置くならば、西暦2000年時点では堺市の主婦の方がプライベートで細々と娘へ語り聞かせをするに過ぎなかった「桃子ちゃんの鬼退治」譚が、深夜とはいえ大々的にアニメにまでなる、この2014年の状況、これはフェミニズム的にも評価していいのは間違いないでしょう。


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(第1話放送画面より)
特製の神剣を駆使して平和な村を襲ってきた鬼に立ち向かう


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(第1話放送画面より)
プリキュア的「変身」もあり。見事に鬼を懲らしめます


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(第1話放送画面より)
犬・猿・雉の三神獣をお供に、いざ鬼退治の旅へ出発!


『モモキュンソード』では、桃子らの敵対勢力として設定されている「鬼族」が、一方的に「鬼退治」されるべき存在ではなく、何か事情がある要素もほのめかされていますし、「鬼族」の王の娘である「鬼姫」と桃子の一見すると敵対する関係のうちに「友情フラグ」も順調に進行しています。

そのあたりは今どきのバトルヒロインものの王道要素を外していない、というかプリキュアシリーズの定石を上手に取り入れていると言えます。

原典(←そもそもの昔話の『桃太郎』のこと。※アニメ『モモキュンソード』の直接の「原作」はweb小説)のように、いきなり鬼ヶ島に攻め込んで鬼退治をしたりしないあたりに、女の子を「桃太郎」に据えた意味が現れてると言い換えてもよいでしょう。

評価に留保が必要な部分もあるにせよ、女の子が主人公として主体的に活躍し、女の子であることの意味さえ良い意味に積極的に肯定しながら、鬼退治のような課題もフツーにクリアしていく物語が、今日ではあたりまえになったというのは、やはり良い時代になったと言ってよいと思います。


   


◎オタク的視点で評価しても、『モモキュンソード』は2014年ならではのバトルヒロインものの新たな進化形としてなかなか良い形に捻られてます。
第1話の展開はバトルヒロインものの王道展開をベースにしつつも、昔話モチーフなために桃子が「中学2年生」などではなく学園モノ要素はないところとかは新鮮でした。
第2話以降の日本各地を旅するロードムービー的な要素もこのジャンルでは新しい気がします。
「桃子ちゃんの鬼退治」譚としてジェンダー問題的にも有意義であり、2014年の新作アニメとして相応しい形にバトルヒロインものとしての適切な進化を果たしている『モモキュンソード』は、まさに【 21世紀の桃太郎 】のひとつの理想形なのかもしれません。

ちなみに「21世紀の桃太郎」というと、ワタシの小説『1999年の子どもたち第3巻の文化祭編で、作中(ワタシの娘がモデルの登場人物である、その名も)佐倉満咲チャンがホームルームで担当になってしまって考えた末に書き上げる劇の台本が、じつは『21世紀の桃太郎――美少女フルーツ戦士プリティピーチ』だったりするのです;

「プリティピーチ!」
「プリティアップル!」
「プリティメロン!」
「プリティオレンジ!」
「プリティグレープ!」
「罪もない人々を苦しめる鬼帝国! 私たちフルーツ戦士が許さないっ!!」
「「「「許さなーい!!」」」」
「何をこしゃくな。行け、デイジーカッターにサーモバリックよ、奴らをひねりつぶしてしまえっ!!」

……みたいな場面もあり、当然に作中の満咲チャンは、出来上がった台本を最初に披露したホームルームで

「えーコレなんてプリキュアシリーズのパロディで草不可避」
「こんな桃太郎ありえなさすぎてマジ ウケる~」
「佐倉さんひくわー」

などの反応も受けつつ(セリフは実際のものと多少異なりますw)、全体としては好評を得て、クラスの一致団結に至る文化祭への取り組みがおこなわれていくという、ある意味『1999年の子どもたち』全7巻中でもっとも平穏な「日常系」展開(!?)の文化祭編・第3巻

この『1999年の子どもたち』作中お話の舞台は西暦2015年で、つまり来年なのですが、いやワタシも最初に執筆してた10年ほど前には、まさかその前年に本当に「21世紀の桃太郎」とも言える美少女戦士アニメが放映されるなんて思いもよりませんでしたワ(^o^;)


   


続・赤毛のアンは早すぎた日常系百合アニメ [メディア・家族・教育等とジェンダー]

というわけで、前記事「赤毛のアンは早すぎた日常系百合アニメをふまえて、少しソノ方面の文献に、あらためて手を伸ばしてみました。

まずは、とりあえず『赤毛のアン』の原典(日本語訳 by村岡花子版)を入手。

→ 赤毛のアン (新装版) (講談社青い鳥文庫) L.M.モンゴメリ
     

今さらながら」読んでみると、やはりいろいろ発見があります。

どうでもいい話からすると、アンが初めて日曜学校に行くときシンプルな帽子を寂しく思って道端に咲いてた花で飾り立てた結果「常識的な人々」から顰蹙をってしまうくだりを、今日のアニメオタク知識をもって読むと、さように頭部を花で装飾することに対しては、某学園都市の初春氏を連想せざるを得ないですw

そして、そんなふうに読み込んでいくと、例えば、マリラのアンに対して接するときの態度、これって今の言葉で言えば………【ツンデレ】!

そして、類稀なイマジネーション力によってまざまな妄想の数々を生み出し続けるアンのキャラは、同じく今の言葉で言えば【中二病】w

な、なるほど!!
深いんだかナンなんだか(^^)


次に、こちらも入手してみました。

→ アンのゆりかご~村岡花子の生涯 (新潮文庫) 村岡恵理
     

この中からは、すでにNHKの朝ドラのストーリーに組み込まれて紹介されているエピソードも多いのですが、村岡花子が戦後ようやく赤毛のアンの翻訳本の出版に至った際、邦題を当初の腹案だった「窓辺の少女」などから、若い世代の娘の意見で『赤毛のアン』に変えた経緯なども書かれています。

なるほど、タイトルは大事です!
むしろ題名だけを見て批判されるくらいが理想です(!?)。

……なので出版が、もしももっと最近だったら、まさかのタイトルは『中二病の少女が孤児院からツンデレおばさんのところへやってくるようです』か何かになってたかも!?(違;


でもって、『赤毛のアン』の内容はというと、やはりもうズバリ「日常系百合アニメ」のソレだったと言ってもよい具合でした。

いゃ、それに、アンとダイアナがここまで「愛してる」「愛してる」言い合ってたとは、今日の「日常系百合アニメ」的に見てもビックリです。

いわゆる深夜放映の狭い意味での「日常系百合アニメ」以外、例えばプリキュアシリーズでも、主人公らの親密描写が極まった際には、それを同性愛的なレベルにまで敷衍して読み解くのは、大きいお友達視聴者にとっての、いわばお作法になっていますが、このアンとダイアナの「愛してる」のやりとりを知っていれば、『ドキドキプリキュア』での相田マナと菱川六花の関係などは驚くに値しなかったとさえ言えます。

まぁ、あの知的レベルが高いキャラとして設定されていたマナや六花なら、当然の教養として『赤毛のアン』のひとつやふたつ読んだこともある(六花なんてモンゴメリの原書を英語で読んでそうです;)でしょうから、あの2人のやりとりの下敷きに、こうした赤毛のアンでの描写があったかもしれないとわかると、またあらためて味わい深かったりもします。


スマイルプリキュア』でも、第7話で『赤毛のアン』は主人公みゆきの愛読書だったと言及されますが、そもそも第1話の冒頭の登校シーンもまた、『アン』のクライマックスでの言葉「曲がり角を曲がった先には何があるかわからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの」と重なっています。

東日本大震災をふまえて人々をエンパワー・エンカレッジすることをめざしたとされる『スマイルプリキュア』ですが、第1話の冒頭に赤毛のアン終盤のソレを持ってきたというのは、この物語が「女の子が曲がり角をまがった、その先にあるもの」を描きますよという宣言だったと、これも『赤毛のアン』を踏まえると理解できます。

さらには、村岡花子が女学校を卒業するときに恩師ミス・ブラックモアから言われた言葉、「最上のものは過去にあるのではなく将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて進んでいく者でありますように」もまた、スマイルプリキュアのテーマそのものではありませんか。

あと、第43話の(キュアビューティへの変身者である)青木れいかが留学話を辞退するという決断に至るエピソードも、『アン』の終盤の展開とパラレルになっていると考えられなくはありません。

モンゴメリによる『赤毛のアン』原典~その邦訳書はもちろんですが、村岡恵理『アンのゆりかご~村岡花子の生涯』も、初出はすでに2008年。私が手に取っている新潮文庫版が2011年の秋。
これは時期的に考えると『スマイルプリキュア』の制作に何らかの影響を与えている可能性はじゅうぶんに推察が可能です。

ともあれ、こうなると、まさに「赤毛のアンを知らずしてプリキュアを語る事なかれ」だったりもします。
うっかり今までアンをふまえずにプリキュア論を語ってしまったようで、その点、いやはやお恥ずかしい;


『アンのゆりかご』を読むと、当然に原作者モンゴメリの半生がアンのキャラクターに投影されているところへ、さらに翻訳作業を通じて村岡花子のさまざまな体験もまた反映されることになっている様子がよくわかります。

厳しい時代を生き抜いた2人の女性の物語がアンに仮託されて、そうして現代の私たちに受け継がれているわけです。

モンゴメリの志を引き継ぎ、戦前から戦後にかけての現在よりもさらに「女性」にとって生きづらい時代の中で真摯に社会と向き合い、自らが今ココですべきことに全力で取り組み自分の人生を全うした、その村岡花子が戦火の中で未来を信じて訳し続けた赤毛のアンと、そのエートスを受け継ぐ作品群を享受できることは何よりの「平和」であり、それを守っていくための何かをもまた今の私たちは託されているのではないでしょうか。

そして、このように考えてくると、プリキュアや日常系百合アニメを愛好する人々を社会的害悪のように語る一部の人たちには、ソレって本当に社会を良くすることにつながるの? …というギモンが、このように赤毛のアンとの連関を捉えることで、言えるようになってきます。

その意味でも『赤毛のアン』を今風の日常系百合アニメとしてリメイクするというのは、ちょっと真面目な話、検討に値する有意義なことなのかもしれないですね。

……絵柄のベースは、この青い鳥文庫版のHACCANさんによる挿絵かな?

そしてやっぱキャストは
アン:佐倉綾音
ダイアナ:村川梨衣
……キボウ(^o^;)

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◎あともうひとつ、どうでもいいネタをしておくと、『赤毛のアン』冒頭の、アンが駅で迎えを待つシークエンス――1979年アニメ版『赤毛のアン』第1話だとこのあたりのシーンですが……

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……アンほどのイマジネーション力の持ち主なら、今ここにトッキュウジャーの烈車が通ったら、ゼッタイ見えるだろうなぁw


赤毛のアンは早すぎた日常系百合アニメ [メディア・家族・教育等とジェンダー]

NHKの朝の連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)が、2014年の今期は『花子とアン』ということで、モンゴメリの名作『赤毛のアン』を邦訳した村岡花子の生涯をもとにした物語が展開されています。

そのからみか、原典の『赤毛のアン』自体のほうもあらためて話題になる機会が少なくないようです。

『赤毛のアン』といえば、だいたい世代を問わず、この小説にハマった経験を持つ女性は多いのではないでしょうか。
思春期の愛読書として熱く『赤毛のアン』を語る女性も数多いという印象です。

されど、そういう状況がある一方において、ワタシ的には、若かりし日々には男の子であったゆえに、この作品へのアクセスが困難だったことは、今となっては若干のルサンチマンであったりしなくもありません。

そもそも『赤毛のアン』は構造的にジェンダー問題が深く組み込まれています。
なにせ、カスバート兄妹が孤児院から男の子を引き取ろうとしたところ、手違いで女の子が来てしまったというのが物語の発端ですから。

そしてソレは、この物語が何よりも「女の子のためのもの」であるというメッセージの裏返しでもあります。

そのせいでしょうか。
小学校時代の休み時間、他の男子らが好んで嗜む野球やサッカーへの同調圧力をなんとか逃れて出入りした図書室でも、SFや推理小説を好んだ私は、いわゆる女子向けの本はあまり手に取らなかったとはいえ、そんな中でもとりわけ『赤毛のアン』は背表紙から強力に【男子禁制オーラ】が出ているように感じて近寄り難かった記憶が鮮明です。

拙著『女が少年だったころでも、小学校時代の図書館通いについては1項目設けて述べていますが、それでも今読み直すと『赤毛のアン』については一切言及がありません。
執筆時点の10年余り前に至ってさえ、『赤毛のアン』について書くべくことには全く思い及ばなかった、それくらい断絶が深かったということなようです。

ただ、そんな私でも、唯一『赤毛のアン』の世界に触れることができる機会だったのが、1979年放送のアニメ版でした。

日曜19時半のフジ系列で、『アルプスの少女ハイジ』や『フランダースの犬』をやっていたのと同じ世界名作劇場枠。
日本アニメーション制作。
アニメ作品として、そのクォリティは非常に高かったと言ってよいでしょう。

とはいえ、このアニメ版にあっても、そのつくりは原作に準拠して「女の子のためのもの」。

内容はというと、グリーンゲイブルズにおけるアンや「心の友」ダイアナたちの他愛のない毎日の出来事をめぐるストーリー。

さしたる派手な事件が起こるでもなく、(当時)中二病真っ只中の男子(であった私)にとっては、地味感が否めないものであると言わざるを得ませんでした。

そして、そんな男子が唯一 感情移入の取っ掛かりにできそうだったアンのギルバートとの恋愛関係もまた、遅々として進展せず、当時のワタシはそのあたり苛立たしく思いながら、「ケッ、世界名作劇場枠は、しょせんお子様向けアニメだな……」などという見解を述べたりしていたのでした。


…………。

………………。

待て。

いゃ待て!

ちょっと待て!!

1:男性との恋愛要素はアリバイ的に登場だけはしたりするけれど、物語の本筋からは後景化されている

2:メインは、ひたすら女の子どうしの他愛のない毎日が描かれる


……ソレって、

今の言葉で言えば

【日常系百合アニメ】!?


……たしかに『赤毛のアン』の本質が、今に言う「日常系百合アニメ」なのだとしたら、いろいろ腑に落ちる点が少なくなさそうな気はします。

ぃや、まさかそんなことが???


というわけで過日、動画配信サービス[Gyao]で、話数限定無料配信されてたので、1979年アニメ版『赤毛のアン』、そのアンがダイアナと出会う第9話をチェックしてみました。

→ 赤毛のアン 話数限定 第9話/無料動画 GyaO!
http://gyao.yahoo.co.jp/player/00189/v09779/v1000000000000002290/

(以下、画像は配信画面から学術研究用資料としてキャプチャしたもの)


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いきなりの「結婚式しよう」展開(違;←ぃや、あながち間違ってない
アン攻め攻めだー(^^)


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見事むすばれた二人(^^ゞ


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謎ブランコで さらに距離詰まる
(*^_^*)


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百合アニメ鉄板の手つなぎカット!!
ヽ(^。^)ノ


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ベッドサイドトークっ!!!
(*^_^*)


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ナイショ話で親密度↑UP↑さらに


 Anne&Lily09_L.JPG

ご注文はグリーンゲイブルズですか?
ヽ(^o^)丿


………な、な、

なんとまぁ!


思った以上に百合ん百合んでしたね。
1979年アニメ版『赤毛のアン』。

もぅ今見るとアンとダイアナの関係性に萌え萌えを禁じ得ないです。

いったいコレのスバラシさになんで気付かなかったんだ1979年のワタシ!

ギルバートなんざぁ、どーでもいいではありませんか。
なんて的外れな期待をしていたことでしょう!

いやはや、そういった観点を持ち得なかった当時のことが、誠に遺憾の一言に尽きます。


……てゆーか、さっき紹介したこのカット、手前に配置されてる花がズバリ「百合に見えるんですけど!?

 Anne&Lily01_L.JPG

(*゚∀゚)

……まさか意図的に分かってやってる!?
もし1979年に本当にソレをしてたんならものすごくスゴイことです。

ちなみにエンドクレジットによると、この回は絵コンテ「とみの喜幸」、すなわち現・富野由悠季氏です
(もうすぐガンダムが始まるタイミングなのに、こっち手伝ってて大丈夫だったのでしょうか?)

そして場面設定・画面構成「宮崎駿」、演出「高畑勲」。

………なんか巨匠が揃い踏み(゚∀゚;)

ただ一説によると(Wikipediaの赤毛のアン1979年アニメの項など)、宮崎、高畑 両巨匠とも、当時『赤毛のアン』の真髄は理解できずにいたらしく、宮崎駿はこの直後とっとと逃亡、残された高畑勲も粛々と「原作に忠実なアニメ化」に徹したとも言われています。
そのあたり、やはり「男」の限界なのでしょうか。

……だとすると、この画面への百合の花 配置の張本人はいったい!?

富野由悠季氏の可能性もビミョ~ですし、原作で指定されてるわけでもないようですし……。


ともあれ、かような次第なので、いわば「『赤毛のアン』は早すぎた【日常系百合アニメ】!」だったと捉えても差し支えはなさそうです。

ここはひとつ、『赤毛のアン』を、もっとコレは「日常系百合アニメ」であると踏み込んで解釈したリメイクが期待されますね(^^)。

さしあたりは、この1979年版アニメの映像を脳内デジタルリマスターし、しこうして、今どきの百合アニメでも活躍する声優さんで脳内吹き替えしてみるとよいかも。

……やっぱり
   アン:佐倉綾音
 ダイアナ:村川梨衣

…………あたりが鉄壁の布陣でしょうかねぇ(^^)
(個人の願望です;)


思えば、あの『きんいろモザイク』のアニメ第1話が、何やらまるで世界名作劇場シリーズの一作のようだったのも、そもそも『きんいろモザイク』のような「日常系百合アニメ」が、『赤毛のアン』から連なる系譜上にあると考えれば、必然的な一致として得心が行くというものです。

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(※『きんいろモザイク』放送画面より)


また『ご注文はうさぎですか』なら、複層的な関係性の中で揺れる少女たちの瑞々しい心情を、他愛のない毎日の中での物語のうちにメリハリのある展開で描き出しており、アニメ各話とも美しい画面とあいまって、まさに珠玉の名作となっています。

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(※『ご注文はうさぎですか』放送画面より)


こうした「日常系百合アニメ」は、『赤毛のアン』が実際にそうであり続けてきたように、必ずや多くの女性をエンパワーしていく可能性を持ったものなのではないでしょうか。

あの小学生男子だったときのワタシが感じた、『赤毛のアン』の背表紙から発せられている強力な「男子禁制オーラ」、じつはあれこそがまさに【女性ホモソーシャル】と呼べるものの核心とつながっているのかもしれません。

それはたしかに一種の排他性という負の側面とも表裏一体ではありますが、しかし「女性ホモソーシャル」が、いわゆる「(男性)ホモソーシャル特権領域」へのカウンターとして、特権領域である中心部分から周縁化され排除された者どうしの連帯のために機能する可能性は、閉塞感にいきづまる社会に、多様性の相互理解に基づく共生をもたらすための希望ともなります。

昨今の「日常系百合アニメ」の、ジャンルとしての興隆には、大いに期待して良いと思われます。


そして逆にまた、昔であれば男の子は図書館で借りるのに敷居が高かった『赤毛のアン』と、その真髄を共通するコンテンツが、今では男性でも難なく苦もなくアニメとして観ることに特段の障壁がない状態にあるという事実もまた、イイ時代になったと言うことができましょう。

実際「日常系百合アニメ」の視聴者層として目立つのは、むしろ男性だったりするのも事実でしょう。
その中には、たしかに単純に「萌えニーズ」を追求するエロ目線のみの視聴者も、ある意味「招かれざる客」として相当数含まれるのは不可避です。

それゆえに「男性向け」の「萌えニーズ」に応えた描写なども多々含まれるところとなり、その結果として女性視聴者を遠ざけてしまっている現実もあるやもしれません。
いわゆる「ビビッドレッドオペレーションのお尻問題」ですね。

そのあたり、制作にあたっての匙加減は本当に難しいのですが、女性視聴者側も、ある程度は、表面的な「男性向け」描写に惑わされずに「日常系百合アニメ」の本質を見抜くリテラシーを持ちたいところではあります。

間違っても、この種の作品群を、単なる不健全なエロアニメとしか見誤れず、『ご注文はうさぎですか?』や『きんいろモザイク』等々の作品の中核にある、少女たちの親密圏の麗しくも愛おしい世界で敬愛と思いやりのやりとりが描かれていることに、気付くことができないのはもったいないです。

そうして、その点においても、こうした「日常系百合アニメ」へ連なる系譜として、遡っていったところには『赤毛のアン』が位置するというのは心強いことに他ならないでしょう。

あと、上述の、小学生男子だったときのワタシが『赤毛のアン』に「男子禁制感」を感じて近寄り難かった件を思い返すと、例えば今日の「日常系百合アニメ」にアクセスしたい男子にとっては、表面的にはプッシュされてる諸々の少々エッチな描写の存在が、「コレは男の子が見ても構わないもの」という言い訳として機能してる……という視点も重要ではないでしょうか?

話題のディズニーアニメ『アナと雪の女王』がせっかく女性の視点に寄り添った物語をしているのに、そのメジャーレーベルゆえに多くの人の目に触れ、結果ちょっと勘違いした批判(「これは男性への逆差別だ」的な)にさらされているのも、もしもそういう批判をする人が日本製アニメの数々をよく見たら、同様に言うに違いないとしたら、そういう場合にでも、批判を回避する装置として、表面的には「シスヘテ男性向けエロ描写」によってカモフラージュされていることは、結果的には「招かれざる客」を呼びこむという側面もデメリットとしてあるにしても、重要な機能を果たしていると評価できます。

俗悪なものとして、低い位置に評価され、検閲され、抹消されようとするコンテンツというのは、えてして時の権力者にとって都合が悪いものだからだったりします。
むしろ、時の権力者にとって都合が悪いものを検閲・抹消したいがゆえに、特定の要素を俗悪なものとして低く位置する言説が喧伝されるという見方もとても重要です。


   


◎一方、私の小学校時代の図書館でも、『赤毛のアン』の背表紙からは強力な「男子禁制オーラ」を受け取っていた反面、例えば『オズの魔法使い』(←いわば女の子主人公が主体的にイニシアティブを執って活躍する冒険譚の草分け!)はフツーに借りてフツーに読んでフツーにオモシロかったので、いったい『赤毛のアン』の何がどのように「女性ホモソーシャル」的なのかは、一度しっかり検証され、そのあたりしっかり詳らかにする意義はありそうです。
………しかし、こうして見ると子ども時代の昔のワタシ、「じつは女性的な本質を持っているにもかかわらず、あからさまに女性向けとはされていないもの」や「建前上男性向けとされていても、そこに内包されるけっこう女性的なもの」を知らず知らず好んでいたのかもしれません。
そうすることで、精神のバランスが図られていたのでしょうね。
いちおうは男の子向けロボットアニメであった『UFOロボ グレンダイザー』でも、(番組中盤以降に登場した、主人公が操縦する主役ロボ・グレンダイザーをパワーアップさせるために合体する、3機の支援メカに各々搭乗する)サポートチーム3人中2人の女性メンバーの活躍に期待を募らせていたりしたのも、象徴的なパターンのひとつかも。
結局、子どものころの、女の子でありたかったのに男の子という立ち位置を割り振られてしまっていたワタシの心情と、男女二分的で異性愛主義的な社会規範の関係性は、何重にも捻れてしまっていたわけなのですね。
……まぁ、その体験が今の活動に生かせるのは悪いことではないのでしょうが(^^ゞ


◎で、元々ここらで一度「百合アニメ論」を少ししっかりまとめたいと思っていたのですが、この「『赤毛のアン』は早すぎた【日常系百合アニメ】!」の件を、中盤あたりに上手く組み込めれば、ひとつ論としてキレイにまとまりそうな気がしてきました。
学会で報告するとしたら、やっぱ報告タイトルは【女同士の絆 百合マンガ・アニメと女性ホモソーシャルな欲望】ですかね~(^o^;)
(……絶対にE.K.セジウィック方面から怒られる;)

とはいえ「赤毛のアン論」なら、いろいろ参考文献もありそうですね。

コレは押さえといたほうがよさげなのだが「現在お取り扱いできません」攻撃が(T_T)
→ 「赤毛のアン」の挑戦 横川寿美子
     

コレもちょっと気になる
→ 「赤毛のアン」の秘密 (岩波現代文庫) 小倉千加子
     

あと、とりあえずコレは必須
→ アンのゆりかご~村岡花子の生涯 (新潮文庫) 村岡恵理
     

ただ、「参考に【できる】文献が多い」ってのは、「押さえておか【なければならない】先行研究がいっぱい」ということでもあるので……(=o=;)

ともあれ、何はさておいても、そもそもの原典原作者であるモンゴメリが偉大だったということになるでしょうね。
で、そっち方向に「英語文学」の領域に分け入りそうだということは、やっぱ学会報告タイトル、セジウィックのオマージュにするのは必然なのかもw


   


 
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