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「図書館戦争」はメディア良化委員会検閲済み映画か!? [経済・政治・国際]

ちょうど2013年の終戦記念日も過ぎたころ、島根県は松江市の教育委員会が『はだしのゲン』を図書室の開架スペースから撤去するよう市内小中学校に対して求めていたことが、世間を騒がせました。

とある市民からの指摘を受けて検討した結果、一部に過激な表現が含まれるため子どもたちが自由に手に取って読むものとしては不適切と判断したということのようです。

もっともらしい理由が挙げられてはいますが、特定の表現物が恣意的に排除されたという印象も否めません。

子どもたちが受け取る情報に一切の配慮は不要かといえばそうでもないでしょうし、子どもたちへの(大人にも)メディアリテラシー教育を推進する傍らでは、一定のフィルタリングが有効な側面も条件付き肯定されるところです。

表現の自由は確乎として保障されねばなりませんが、では私たちひとりひとりがその表現の自由をどのように行使していくかということになると、やはりより多くの人の幸福に資するように、すなわちいわゆる公共の福祉に適った形で各種の表現をおこなっていくよう心がけることが、自分自身も含めた、社会全体の福利につながることも忘れられてはなりません。

しかしながら、そんな表現の自由のもとで生みだされた表現物に対しては、批判・反論もまた表現の自由のもとでおこなわれるべきです。
それが不適切と思うなら、その旨を表現したり、あるいは自分ならコレが適切だと思うような代替表現を提示すればよいのです。
それもまた認められるのが、何より「表現の自由」なわけですから。

(そもそも当記事前々記事も、個別作品における特定の表現に批判的意見を述べ、あまつさえ改善を期待したりしているわけで)

『はだしのゲン』のように政治的な背景が絡んでしまうものや、いわゆる性的な表現物に関しては、巷間とみに物議となりやすいようですが、個別の表現の是非については、このように自由な議論のもとで検討していけばよいことであり、少なくとも特定の表現に対する何らかの公権力による規制には、私たちは最大限慎重であるべきなのは言うまでもないでしょう。

◎以前に書いた性表現への表現規制についての試論はこちらなど
→「ポルノ表現規制の対立は世界認識のリアリティの相違に由来した!


特に、図書館はあらゆる情報が集約される点に、その本旨があります。

そこに所蔵される情報に偏りがあってはならず、その内容の判断は利用者に委ねられるものであり、そのためのメディアリテラシーが涵養される機会もまた保障されるべきものでしょう。

日本図書館協会の綱領である「図書館の自由宣言」では

図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する。
 第1:図書館は資料収集の自由を有する。
 第2:図書館は資料提供の自由を有する。
 第3:図書館は利用者の秘密を守る。
 第4:図書館はすべての検閲に反対する。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

……とあります。

いま一度、私たちはこれを読み、その意義を再確認すべきときではないでしょうか。

「図書館の自由宣言」全文は日本図書館協会のwebサイトに掲載されています
 → http://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/232/Default.aspx

   


さて、そんな「図書館の自由宣言」を重要モチーフに据えた物語が『図書館戦争』ということで、かねてよりその評判は聞き及んでいました。

原作小説は有川浩によるもの。
コミック化、アニメ化もされているようです。

wikipediaによるあらすじ記述を、さらに要約すると基本となる舞台設定は以下のようなものとのこと。

公序良俗を乱し人権を侵害する表現を規制するための「メディア良化法」が制定され、メディアへの監視権を持つ「メディア良化委員会」が発足、不適切とされたあらゆる創作物は、その執行機関である「良化特務機関(メディア良化隊)」による取り締まりを受けることとなる。情報が制限され自由が侵されつつあるなか、弾圧に対抗した存在が「図書館」だった――。

なかなか興味深い設定です。

そして、実際に公序良俗や人権の美名のもとに各種の表現規制が法制化を検討され、このような設定があながちフィクションとも言えないような情勢の昨今においては、この作品が持つ意義は、ますます重要性を増しているのではないかなと推察していました。

そしてそんな折り、2013年春には、この『図書館戦争』の実写版映画も制作・公開されるということで、非常にタイムリーな流れなのではないかと、漠然と評価しているところだったのです。


※ここまでの記述の語尾のとおり、現時点では『図書館戦争』について、原作から実写版映画に至るまで、本編には直接アクセスできないままになっています。
本来ならそちらもきちんとチェックした上で当記事も展開したいところなのですが、どうしても時間的リソースの制約の中で優先順位がやりくりできず、一方で本件の時宜性を勘案すると、今が時期的限界と考えられ、熟考の末、この形となっています。
よって以下は、あくまでも【実写版映画『図書館戦争』のPV(予告篇)】に基づいた批判・考察となります(映画公式サイトでも若干の情報を補完しています)。
ご留意ください。

ところが、2013年5月のある日、ふと立ち寄った書店の店頭(の『図書館戦争』特設コーナー)で、宣伝のために流されていた実写版映画『図書館戦争』のPVを目にして唖然としました。


えぇっ!?

コレが『図書館戦争』なの?


(゚д゚)!

………これじゃ単なる恋愛映画ではないですか!


コレは少々陳腐すぎるのではないでしょうか。
異性愛に基づく恋愛エピソードを絡ませないと観客に訴える物語が作れないとでもいうのでしょうか?

もちろん「恋愛」を主眼に据えた物語も、いろいろある中には存在してよいでしょう。
しかし『図書館戦争』までもがそうである必要はあるでしょうか?

「異性愛に基づく恋愛」そのものを否定するものではありません。
自らの自然なセクシュアリティのありようがいわゆる異性愛だという人もいるわけですから、それは尊重されなければなりません。
そこは間違えちゃいけないです。

しかし反面、男女間の恋愛というのは意図するしないにかかわらず社会の男性優位構造の影響を受けるもの、否、むしろ社会の男性優位構造を維持するために、恋愛が男女間でないといけないものだとされている(および、男女だったら恋愛でないといけない)、そういう側面もあるわけで、男女二分法に基づく性差別構造・セクシズムと、異性愛主義・ヘテロセクシズムは、分かちがたく結びついたもの、まさに「<ヘテロ>セクシズム」――とは、竹村和子さんも言っているところです(『愛について』岩波書店など参照)。

となるとやはり、むやみやたらと異性愛物語を描いてはばからないことは、差別に加担する行為になりうるんだとは、言ってもいいでしょう。
たしかに「表現は自由」ではありますが、その表現で誰かの自由やその他の権利が脅かされることに繋がらないよう、クリエイターは熟慮する必要があります。
安易なパターンにどっぷりと頼らずに、予想の斜め上を行くような展開は、常に追求されるべきなのです。


そもそも、異性愛に基づく「男女の」恋愛をこそ社会における望ましい価値観として称揚する勢力と、図書館への取り締まりを強めたい勢力というのは、大幅に重なっているのが実情でしょう。

だいたい「自由を守る」とか言っても、いまだ「恋愛」には自由なんてないのです。「男女で」恋愛「しないといけない」義務だけがあるのが現状ではないですか。

そんな中では、「男女で」「恋愛」ではなくてもイイのだという参考資料を取り揃えることさえ、現実の図書館の大きな役割として期待されるところです。

実際に、同性愛をはじめ、各種のセクシュアルマイノリティ多様な性や家族のあり方にまつわる本の数々をたいていの図書館は所蔵していることでしょう。

しかし一方では、そうした図書へのクレームが付くケースも時おり耳にするところです。
大阪府堺市の図書館からBL本が撤去されそうになる事件なども記憶に新しいところです。

このように考えると、「異性愛こそが正義」とばかりに、それに立脚したプロットを中核に据えるのは、図書館の自由と言論・表現を守ることをテーマにしてるはずの映画では、やっぱり不適切に思えます。

少なくともあのPV(予告篇)の内容を見る限りでは、映画『図書館戦争』は「男女が恋愛することこそがスバラシイ」という思想をプロパガンダする国策映画、いわばメディア良化委員会による検閲済みのストーリーだとしか思えません。

作品のテーマがめざす地平といちじるしく乖離している表現が含まれることは、作品全体の価値を揺るがしかねないことを、創作に携わる者は肝に銘じておく必要があるでしょうね。


   



なんで?いきものがかりが一歩踏み込んだ [多様なセクシュアリティ]

いきものがかりの前作『 NEWTRAL 』からおよそ1年半ぶりのニューアルバムが出たので聴いてみました。

「風が吹いている」のようなヒット曲を含め、引き続き盤石の品質の名曲揃いと言ってよいでしょう。

「風乞うて花揺れる」や「ぬくもり」などは、まさにいきものがかりの真骨頂とも言えるスケール感です。

一方、直近のシングル曲のひとつ「1 2 3 恋がはじまる」などは、かなり強力に恋愛を称揚する楽曲になっているのですが、しかしながらやはり「異性愛にしか聞こえない」わけではなく、同性どうしの恋愛である可能性もじゅうぶんに残されています。

てーか、ワタシが聞くと、もうコレ、女の子どうしでしかイメージ膨らませられなかったり…(*^。^*)。

かつて「花は桜 君は美し」のcwになっている卒業ソング「最後の放課後」も同様であることは、当時述べたとおりです。


で、そんなことも思いながら7曲目「なんで」を聞き流そうとしていたときです。


………お゛っ!?

こ、これわっ!


まぁさしあたりは、この曲も、いわゆる失恋をテーマにした曲ということにはなるでしょう。

しかし、よく聞くと、これではまるで………。


私はやおらCD添付のライナーノーツをめくって、「なんで」の歌詞(作詞:水野良樹)を確認しました。

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 (゚д゚)!

なんということでしょう~!

「まるで」もへったくれもなかったです。
この表現だと、むしろ明示的に同性どうしの関係と解せるようになっているではありませんか。

同性愛解釈「も」できる……から、明らかに一歩踏み込んでいます。

これはスゴイです。
国民的人気グループにして紅白出場歌手でもあるいきものがかりが、さり気なくイイ仕事をしてくれたと言うべきでしょう。


というわけで、ワタシなぞは途中からこの「なんで」を(個人的にはやはり女の子どうしと解釈[むろん男の子どうし解釈のほうが感情移入できる人ならソレ等も可。ただしこの曲の場合は歌詞中に「彼女」という文言があるので、公式には女の子どうしということになるかも]して)百合萌えモードで聴き込むことになりました。

とはいえ、その歌詞はなかなかリアルで、ある種他人事として消費するようなニュアンスもありうる「萌え」という言葉は、1周以上まわした上でなければ、いささか不謹慎で妥当しないくらいです。

「好きになっちゃいけない
とか
「泣くのもひとりきり」
とか
ともだちのままでいれば傷つくこともない」
とか
はじまることもないまま想いは」
とか
わたしのなかのあなたにキスした」
とか

……………。

せ…切ない(>_<)
切なすぎる!

特に
親友と呼べるほど肩を並べ歩いたけど
『好きなひとができたんだ』と嬉しそうに言うの」

のくだりは、
真に迫るものがあって、近似した実体験を持つ人にとっては痛すぎるくらいなのではないでしょうか?


◎ちなみに私のようなMtFトランスジェンダーだと、ちょうど事情が正反対な事象もよくあります。
つまり、心惹かれる女の子とじつは恋愛感情抜きの親友になりたいだけなのに、自分が当時は男の子であるがゆえに恋愛という手続きを通すことを社会的に強いられて、結果的に願いが叶えられなかった…みたいな。
(恋愛と友情の本質的差異は本当に存在するのか? というイシューはまた別のお話)
もちろん、私のように恋愛対象がFということであると、本気の恋愛モードの相手とは表面的には異性愛ということで問題はなくなるのですが、しかし心の奥底で欲しているのは「女の子どうしの恋愛関係」であるという現実とのズレによって、結局のところ想いの成就が妨げられてしまうなんてことも、同様によくありました。


たしかに、「言葉になんかできない」「見つめるだけで終わるの」などは、切ない片思いということであれば異性愛でも起こりうることでしょう。

しかし、異性愛が規範化され同性愛が禁忌化されていることが標準とされる状況――ヘテロノーマティビティ――の下では、同性への片思いは、さらに一段階手前の時点で悶々と足踏みせざるを得なくなる確率が格段に高いのが実状ではないでしょうか?

そういえば中村中も「友達の詩」(作詞:中村中)で、

「…並んで歩くくらいでいい
  それすら危ういから
 大切な人が見えていれば上出来」

…と歌っていましたね。


逆に言えば、各種の情報へのアクセスを得、理解ある人も周囲に恵まれることで、自分の想いを自覚でき、そうした自分のセクシュアリティを自己肯定し、相手へのアプローチへ踏み出して、ひとつの恋のかたちを紡ぐことができた人は、たとえその先の実践には新たにさまざまな具体的な困難が伴うとしても、異性愛と対等のステージに立てたという点では幸せだと言うことができるのかもしれません。


   


ともあれ、今般のいきものがかり収録の「なんで」によって、より多くの人が同性愛ならではの片思いの悲哀に対するリアリティを共有できるようになるなら、大いに意義があるのではないでしょうか。


「こんなの絶対おかしいよ!」翠星のガルガンティア5話問題 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

「どんな現実でもそれを受け止めるのは
今を生きる者の特権だ」

フェアロック船団長


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※画像は放送画面より(以下当記事中同じ)

2013年4~6月期に放映されたアニメの中では、『翠星のガルガンティア』が出色の出来栄えの良アニメだったと言えます。

遠い未来、人類の末裔が謎の(その真相は作中9話で明らかになる)宇宙生物ヒディアーズとの戦いに明け暮れる宇宙の彼方で、兵士として戦う以外のことを知らなかった主人公の少年レドが、戦闘中の事故で時空の歪みに飲み込まれ、乗機である(今日の私たちの言葉で言うところの「巨大ロボット(リアル系)」)チェインバーもろとも、氷河期を経て地表の大半を海に覆われ人々は船を連結した船団を都市として暮らしている地球へとやって来る。
そこで船団の文化や人々の暮らしぶり、いろいろな考えや価値観に触れたレドは少しずつ――。

   


というような物語なのですが、既視感があるようでいて、先の展開の読めないオリジナリティの高いだったと言えます。

例えば、主人公レドと絡む役どころのヒロインキャラであるエイミーが、小動物を肩に乗せてグライダーで滑空する様子が『風の谷のナウシカ』を彷彿とさせるのも含めて、遠い未来の地球の架空の社会であるガルガンティア船団の様子の細かな描写などにはジブリアニメに比肩する丁寧なこだわりが感じられました。

また、「遠い宇宙の果てから地球へやって来た少年のロボットに乗った戦い」という設定なら、『宇宙戦士バルディオス』や『合身戦隊メカンダーロボ』といった古い前例もありますし、「異文化接触」をめぐるコンフリクトがストーリーに緊張をもたらすのは『伝説巨神イデオン』ですね。

そうしたものをはじめ、個々のディティールは既視感があるのに、それらが組み合わさってできたものは、前例を感じさせない物語になっている点は、放映期間を通して常に新鮮でした。。
この先いったいどういう落としどころへ向かうのか、いい意味で先の展開が読めない、エンターテイメント作品としても毎回が楽しみなアニメに仕上がっていたと言えるでしょう。

特に先が読めないなりにOPとEDの雰囲気からは、バルディオス・イデオン系の鬱展開はなさそうと察することができたのは、物語が男性的マッチョな世界観ではつくられておらず、その現れとして、多様な女性キャラの活躍があったことも大きいでしょうか。

話の構造の大枠は、男性主人公がヒロインに "Boy Meets Girl" する話だとも言えましたが、男性目線や異性愛至上主義っぽさ、そして強烈なホモソーシャル臭がすることも概ねなかったです。

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特に、この作品が女性のリアリティをきちんと描けているなと感じたのは、第8話でした。

8話では、ガルガンティア船団全体を束ねていたフェアロック船団長が病に倒れて急死。
そのいまわの際に後継者として直々に指名されるのが弱冠22歳という設定の女性キャラで、それまでは船団長補佐の任にあったリジットでした。

必然的にリジット本人はその重責に戸惑い、思い悩みます。

むろん昨今のアニメでは、女性がリーダーとなることが、必ずしも稀有なわけではありません。
例えば『モーレツ宇宙海賊』などは女性のリーダーシップのロールモデルになりうる点がフェミニズム観点から大いに評価できるとは既に述べました。
その後なら『ガールズ&パンツァー』という例もあります。

とはいえ、この2作品とも、じつは主人公が通う学校は女子校。
全員女の子なのならば、リーダーもその中で誰かが担うことになるのは当然っちゃー当然です。

しかしガルガンティア船団の長となると、女子校の部活規模をはるかに超える、当然に老若男女織り交ざった、大都市の市長にも相当する規模の職責です。
巷間には「あんな小娘が…」という声も出てきます。

余談ながら、基本的にリーダーに向いているかどうかは個人的な資質しだいであって、本来は男女は関係ありません。
(若い)女性がリーダーとして不適任だとしたら、それは思い込みから「女性はリーダーに向いてない」「女の言うことなんて聞けるかよ」と反応する人達によって任務遂行が妨げられることが原因であり、じつは因果関係が逆なのです。

一方で、マッチョな男性イメージにも符合する強いリーダー像は結局は「俺についてこい」型の独裁に陥る危険が大で、少数意見も切り捨てられやすく、いわゆる民主的な社会のあり方とは対局にあるわけです。
強いリーダー待望論・強力なリーダーシップが全部解決してくれるのを期待……というのは、じつはかなり危険なのです。

そんな中で、この翠星のガルガンティア第8話、いわば「リジットさん船団長になるの巻」は、男女混成社会の中で若い女性が「長」としていかにリーダーシップを執っていけばいいのかという問題にキチンと向き合って解答を出していました。

それは、お互い強くないことを認め合った上での相互依存を前提に、小分けしたリーダーシップを適材適所に配分するマネージャーとしてのリーダー像。

これを若い女性のリーダー就任をめぐる本人の葛藤を通して描いたことは、まさに「強いリーダー期待」の風潮へのカウンターとしても有意義と言え、とても好感が持てました。

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また、この第8話では、亡くなったフェアロック船団長の葬儀の様子も描かれるのですが、私たちの現代の地球とは文化の異なる社会における葬儀の段取りが、丁寧に設定されていました。
あんな遠い未来の地球という架空の世界の架空の習慣を、よくもじっくりと練りあげて考えたものだと感心したものです。

他にもこの作品では、第1~2話あたり、宇宙から降り立ったばかりのレドと、エイミーたちガルガンティア船団の人々との間でのファーストコンタクトで、言語コミュニケーションが不可能な状況下において、描写の視点が遷移するたびに、わけのわからない言語をしゃべっているのがどっち側かも切り替わる……というのも非常に秀逸な演出でした。

あるいは、13話(最終回)のクライマックスでも、主人公レドが搭乗するロボット「チェインバー」のパイロット支援啓発AIシステムの音声インターフェイスは、それまではレドに対する二人称がレド「少尉」とか「貴官」なのに、そこで「軍籍を剥奪」する判断を下して(その経緯は後述:ネタバレ注意からは「あなた」に変わってるところなども、さり気なく細かな描写にこだわったポイントでしょう。

その他、いわゆる「中の人ネタ」によるファンサービスや、そういうものまで意識した上で張り巡らされた伏線など、その周到な構成には感服ものでした。


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13話(最終回)も、各キャラそれぞれにきちんと見せ場があり、「ロボットアニメ」としての側面もいかんなく発揮された盛り上がりで、最後はちゃんとキレイにまとまっていました。

そして何より最終回の刮目ポイントは、クライマックスでのチェインバーのレドへの「最終意思確認」のくだり。

ガルガンティア船団を狙う脅威に対し、チェインバーを操縦して戦うレドは、基本性能で上回る相手よりも優位に立つために「機械化融合モード」を発動するのですが、それはレドの身体に激しい負荷を強います。
そのため、これ以上続けるとレドの生命さえ危険に晒される――というときにチェインバーのAIシステムが、それでもいいのかを問うてくるわけです。

で、従来からよくありがちなパターンだと、ここはレドがエイミーらガルガンティア船団の人々との交流を思い返した上で「そんな大切な人達を守るために俺は命をかけても戦うっ!」……てな感じになるのが普通なわけです。

ところが、本作はそういう安易な少年マンガ的価値観に立脚した「オトコのドラマ」にはしませんでした。

ガルガンティア船団での生活を思い返したレドは、宇宙では戦うことしか知らなかった自分が、さまざまな交流を経て、人が生きるということの意味を少しずつわかってきたことに気づき、そんな人々とともにもっと生きたい、何より自分を気にかけてくれたエイミーともう一度手を取り合いたいという、自分の本当の願いを自覚します。

そのときチェインバーがとった判断が――

「レド少尉の心理適性は兵士の条件を満たしていない。…現時点をもって貴官の軍籍を剥奪する」

えぇ~~っ、何ソノ展開!?

「非戦闘員のコクピット搭乗は許可できない。即刻当機より退去せよ

ど、どーすんだよ??

そうこうするうちにもチェインバーのAIシステムは、頭部の操縦席部分を本体と切り離します。
そして、おもむろにレドにこう語るのです。

「この空と海のすべてが、あなたに可能性をもたらすだろう。
 生存せよ。探求せよ。
 その生命に最大の成果を期待する」


うわあぁぁぁ~~~
チェインバーっ!

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すごい。
これはやられました。

【大切な人達とともに生きたい】と願うこと、それを全面的に肯定した展開がスバラシイです。

そもそも現実には、以前バレンタインデーの起源についての記事で述べたように、「キミも男らしく大切な女を守るために戦え!」は戦争をしたい国家による徴兵のためのキャッチコピーにすぎないわけで、愛しい人がいるのなら、その人とずっといっしょにまったりしていたいというのが自然な人情なのです。

大切な人達とともに生きていくことの価値、命そのものの尊さ……。
それをあそこでああいう形でチェインバーに語らせるというのが、この作品の独自性に基づいた、なかなかオツな演出と言うほかありません。
マジ、泣かされました!

(この後のチェインバーの行動の詳細については、もはや当記事では語りませんので、ぜひ作品を視聴していただくとして)本来、戦いだけが日常であった元の世界では「パイロット支援啓発インターフェイスシステム」であるチェインバーのAIにとってのレドが上げる「最大の成果」とは戦闘を通じた軍功でしかなかったはずです。

それなのに、チェインバーがここで「最大の成果」の意味付けを変えてこういう判断に至るのは、チェインバーもまた地球に来てレドの行動を支援する中で得たデータの学習によって「変わった」証拠だと言えます。

チェインバーにこのようにさせることを通じて、ガルガンティアに来てからのレドの行動・体験・戸惑い・葛藤……そのすべての今までとこれからを肯定する、人間的であたたかい流れだったわけです。

あと、見方を変えると、超管理社会の住人だった主人公が別の社会の自由な価値観に触れて自分を見つめ直し新しい生き方を見出していく……というのは『フレッシュプリキュア』のイースと重なるところもあります。

あるいはチェインバーの台詞は、『スマイルプリキュア』で妖精キャンディが言った「大切なことは自分で考えて自分で決めるクル~」と通底しているとも解せます。

私たち自身、じつは怠け玉の中にいて、戦わなくてもいい対象との戦いを強いられることも含めた「管理された自由」に甘んじているのではないか?――という示唆が、スマイルプリキュアから今般の翠星のガルガンティアへ連なっていたのだとしたら、それは2013年7月の参議院議員選挙の投票行動を考慮する上でも、極めて重要だったのかもしれません。

ともあれ、大義のために命をかけ自己犠牲も厭わずに戦うんぢゃなくて、みんなでいっしょに生きていくことこそが大切、そのために戦う…というスタンスは、プリキュアシリーズではデフォルトなのはもとより、ロボットアニメでも輪廻のラグランジェのような近例がありますが、それを男性キャラが主人公なガルガンティア結末で描いたのは大いに意義深かったと言えるのではないでしょうか。

かくして『翠星のガルガンティア』は、丁寧な演出、細かな描写のこだわり、繊細でみずみずしい人間ドラマ、爽快感のあるメカアクション、結末に込められたメッセージなど、そのアニメ作品としての完成度は高く評価しうると言ってよいものとなりました。

ありがとう、『翠星のガルガンティア』。
感動した!


そして……

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………そして、そんな翠星のガルガンティア、

5話問題」だけが残りました。


そう、

『翠星のガルガンティア』5話では、地球での生活にも少し慣れてきたレドが、ガルガンティア船団の中で求職活動をしている折、ふとしたことからニューハーフのお店のある区画に迷い込んでしまい、そこでニューハーフの人たちから「カワイイ男の子」として目をつけられて猛アタックを受ける……という展開があるのです。

まぁそりゃ、相当な人口を抱えているだろうあれだけの大船団。ニューハーフのお店のひとつやふたつあるのが自然なのでソコは悪くありません。

しかし登場するニューハーフの人たちの描かれ方があまりにも類型的で、悪意に立脚した偏見に基づいて巷間ながらく流布してきたイメージそのままのヒドい「オカマ」描写なのです。
むしろ実際のステレオタイプのほうが、今どきならもっとマシだとさえ言えるかもしれないくらいです。

ビジュアル的にも然り、そして「見境なく男を襲う」という行動の面でも。

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この描写では、明らかに船団の中でもイロモノ扱いでしかなく、それを安易にああいう形でストーリーに絡ませるのは、ニューハーフをスタジオに呼んでイジって笑いものにして終わるバラエティ番組と同じレベルです。

セクシュアルマイノリティについて最新の情勢をよく調べもせず、ステレオタイプな古いイメージだけで捉えることは、特にメディア表現に携わる人においては、厳に謹んでほしいところなのですが、あれだけ完成度の高い『翠星のガルガンティア』作品中にあって、あの「オカマ」描写だけが、なぜあのようにあまりにも類型的なイメージをそのまま引き写した作劇になっているのか、これはまったくもって理解に苦しむより他ありませんでした。

それでも5話が、他回とは全く雰囲気の異なる独立性の高い完全ギャグ回として割り切られてたならまだしも、あのとき登るクレーンタワーはじつはクライマックスで重要な存在となる「天の梯子」だという重要伏線回ですし、そうとも言えません。

あんなシーンを見せられた直後では、セクシュアルマイノリティのひとりとしては、せっかくクレーンタワーのスプリンクラーの散水で美しく「虹」がかかる描写があっても、虚しく感じると言わざるをえなかったです。

何より、セクシュアルマイノリティの現状についてロクに調べもせず、一昔前の「オカマ」表象を安直に使用して面白おかしいプロットに仕立てることは、差別的なイメージを再生産するという点で人権問題なのに加えて、この作品のテーマからしても大問題ではないでしょうか?

例えば1話ではレドが「生殖の自由」に対してよくわからない旨を発言しています。
なるほど、専ら戦うことだけが全てな中では「性」について考えることも自分のセクシュアリティを追究する機会もなかったでしょう。

戦うことだけが全てな生活だったレドにとって、地球で出会ったガルガンティア船団の人々の暮らしはまさにカルチャーショッキングで、そこから「生きる」ということの喜怒哀楽を学び、少しずつ自分を見つめ直していくのが物語の縦糸だったはずです。

その中にはむろん「性」も含まれうるわけで、6話のお祭りの際に、修理屋を営むピニオンから「(誰かから管理された人生ではなく)自分自身の欲望(が大切)」と言われる背後で、エイミーたちが随分とセクシーな踊りを披露しているのも、そういうこととして意味があるものです。

…であるならば、レドが人間のさまざまなセクシュアリティのありように触れ、この社会では人々は【多様な「性」と生きている】ことを知るということも、この作品が描くべき重要なモチーフであったはずなのです。

戦闘に不適性な者は淘汰されてしまうというレドが元いた社会の設定は、多様性の尊重に対するアンチテーゼでありましょう。
したがってセクシュアリティの多様性、多様な「性」のありようを描くこともまた、このアニメはしなくてはならなかったのです。

あれだけ大きく人口も多いガルガンティア船団。そりゃ一定数のセクシュアルマイノリティもいるだろうしニューハーフの店があっても不思議ではない。
ちゃんと取材した成果を元にその様子を描きレドと絡ませることでテーマをさらに深く掘り下げることもできたのに、なのになぜ、あんな安易でイイカゲンで不勉強な描写に陥ることで、その重要な使命を放棄したのでしょうか!?
もったいない!

とにもかくにも、あれほど演出が丁寧/描写が細かな『ガルガンティア』にあって、5話の「オカマ」描写だけが突出してイイカゲンです。

全体の出来が良いだけに理不尽なものを感じます。

まさか、「オカマ」描写など凝る必要さえない……というわけでもないでしょう。

もしかしたらこれも、最終回までに何らかの展開がある、そのための意味のある伏線なのでは? という可能性も検討しました。

8話でリジット新船団長が受け継いだ謎の鍵アイテムがじつは旧文明の遺跡の何らかの「装置」を起動するためのもの(…というのは、本当にそのとおりだったものの)で、その起動のための「儀式」の際に、あのニューハーフの人たちが再登場して【異世界とつながる巫女】の役目を果たしたりしたら、意味はなくはないでしょう。
現代の地球においても、インドのヒジュラが宗教儀礼に携わることがあるように、女でも男でもない存在に人を超えた人としての神秘性を見出す事例は、世界各所に見られます。

が、実際にはそういうこともあったとは言い難いです。

公式サイトを再チェックしても、やはり深い意図があったようには見えず、3頭身アニメのコーナー「ぷちっとガルガンティア」の5話相当回の内容でも、「オカマは見境なくイイ男を襲いたがっている連中」という偏見が補強されていたくらいです。

そういえば『翠星のガルガンティア』DVD&BDのテレビCMでも、番組オンエア後期では、5話の例の場面が抜き出されて使われていました。
その時点では、すでに多少なりとも批判は出ていたはずなのですが、公式ではこの件についての問題としての認識が未だ甘かったと言わざるを得ないのかもしれません。

てゆーか、このような状況では、テレビオンエア全話を通じた現時点では、元々人間だったヒディアーズはコミュニケーションもできるかもしれない共存共栄可能な存在だけど、「オカマ」は単なるおぞましい化け物……ということになっちゃってますよね?


そんなわけで『翠星のガルガンティア』5話の杜撰さに対してこそ相応しいであろうこの言葉を、今こそ言うべきでしょう。

_人人人人人人人人人人人人_
> こんなの絶対おかしいよ! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄


…そして最後にシメの言葉はチェインバーから杉田ボイス(※チェインバーAI音声役の声優・杉田智和さんも絶妙の好演でした)でw

翠星のガルガンティア5話は、差別的な表現が人権上問題であるばかりか作品全体のテーマ性をも根幹から揺るがしている。DVD&BD収録前に全面的な改訂をおこなうことを提言する

  


なお、以上のようなことをツイッター上で先行してひととおり述べた(→佐倉智美ツイッター →同ツイログ →本件についてのツイートの一部が採用されているtogetterまとめ後に、最終回ラスト事後談パートで例のニューハーフさんたちが、対立陣営だった人々をガルガンティア船団に受け入れる際の案内係として働いてる様子が描写されてたというご指摘をいただき、それにしたがって録画を再確認すると、そのとおりでした。

最終回の最後の最後の、僅か2秒ほどのカットに遠景で後ろ姿のみなので見逃してしまいかねない(実際ワタシ当初は見逃した)し、5話での扱いを考えると、やっぱりこれですべて解決というわけにもいかないでしょうが、さりとて一瞬でもフォローがあったとは言えるかもしれません。

他船団の人たちとの仲介という役どころは、上述したように、女でも男でもない「境界性」を神秘的な特殊能力とみなして異界との接点となる立ち位置を任されていると解釈すれば、ワタシが期待したとおりの描写が入れてもらえたとも言えなくはないです。

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これはまた、一般的な視聴者にどこまで伝わるかは疑問ではあるものの、ガルガンティア船団ではいかなる「オカマ」の存在も多様性の一環として受け入れられている描写だというふうに深読みもできなくはないでしょう。

たしかにトランスジェンダーの「ノンパス」をも許容できる社会のほうが、よりおおらかで生きやすい……ってのは一面の真理です。
「パス」が重要になってしまうような現状があるとしたら、そんな相互行為秩序のほうを書き換えることも、私たちの現実社会には求められているはずなのです。

そして、その意味でも、もしも類型的なビジュアルの「オカマ」を映像作品に登場させるのであれば、私たちの現実社会における偏見とは位相が異なる視点での描き方を、いかに作中で工夫するかがポイントになってきます。
ソコでしくじると単なる偏見の再生産映像になってしまいますが、逆に上手く新しい観点を創造することができれば、それはひとつメディア表現が社会を変える力を持つ瞬間になる可能性もあるのではないでしょうか。