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「LGBT」「性同一性障害」など性的少数者の人権、セクシュアリティの多様性、クィア論、男女共同参画などや、そうした観点に引きつけてのコミュニケーション論、メディア論など、ご要望に合わせて対応いたします。※これまでの実績などはお知らせブログにて

クィアリーディングのその先の「もっと違う設定」 [多様なセクシュアリティ]

2019年の大晦日が例年どおり紅白歌合戦などとともに終わり、新しく始まった2020年。
そんなお正月気分もおおむね抜けた1月半ば、我が娘・満咲から、ちょっとしたタレコミ情報がもたらされました
(ちなみにその間に満咲さん、成人式を迎えたりしとります。早いものですワ;)

「ヒゲダンの『Pretender』ってクィアリーディングができるらしいデ!」

「え、ひげだん……!? る、ルネッサ~ンスっ!!」

「いゃぃゃぃや、ソレやのぅてw(ソレは「髭男爵」!)」

という、全国でも同じような親子のやり取りがおこなわれてるっぽいわりと普通の会話をいったん経た後、本題に入ります。

「Official髭男dism が紅白歌合戦でも歌ってた『Pretender』の歌、同性愛解釈がバッチリ上手いことハマるらしいん」

「ほほぉ!」

そうして満咲が示してくれたスマートフォンの画面にあったのは以下の記事。

 → Official髭男dismの大ヒット曲「Pretender」を同性愛から読み解く
  ~JPOPと「クィア・リーディング」の可能性/現代ビジネス
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66965


なるほど。

今注目の人気バンド「Official髭男dism」の楽曲『Pretender』の歌詞は、ぼ~っと聞いていれば異性愛だと思い込んでしまえるところを、少しばかりもっと違う価値観を当てることによって、同性愛にも聞こえる、むしろ同性愛ゆえの切なさ等々を歌ったものだと解釈するほうが自然だとも思えてくる。

そこから敷衍して、さまざまなジャンルの作品群に対しても、異性愛を当然という「常識」とは異なる解釈コードを用いることで、読解の選択肢は広がって楽しみが増すばかりか、自分が無意識のうちにマイノリティの存在を無視し社会の差別構造に加担してしまう罠からも逃れられる……。

詳しくは、上記のリンク先にあるとおりなので、詳細はくり返しませんが、要はそういうコトですね。

これは、まったくそのとおりでしょう。

ワタシもこのブログでかねてより、楽曲の同性愛解釈については何度か記事にしてきました。

 → ★卒業ソングは本当に男女不平等!?
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2006-04-01

 → いきものがかり「春」に『M教師学園』巻末は【百合】だと叫ぶ
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2015-01-15_haru-maturity


「クィアリーディング」という言葉こそ使ったことはありませんが、これらの内容は今回の『Pretender』の件にダイレクトに連なっているものと言えるでしょう。

特に断りがなければ男女の異性愛なのが普通だといったヘテロノーマティヴィティに拘泥せず、多様なセクシュアリティ、多様な「好き」、それらが存在することこそが《「普通」》だというもっと違う設定に開眼するほうが、楽曲歌詞をはじめ各種の作品の解釈の幅を広げ、ひいては実際の生活におけるひとりひとりの可能性の拡大にもつながります。
因習的な「男女ルール」から脱却した先には、もっと違う関係性のバリエーションの豊穣が待っているのではないでしょうか。


 
 (Official髭男dism - Pretender[Official Video]YouTube

 → Official髭男dism Pretender 歌詞/Uta-Net
https://www.uta-net.com/song/266648/


「……でまぁ元の歌はこんなんやねん」

「なるほどな~♪」

そうして我が娘・満咲がそのままスマホで再生してくれた『Pretender』のミュージックビデオを見終わって、しかしワタシは感心すると同時に、妙に心がざわざわしました。

「もっと違う設定で もっと違う関係で
 出会える世界線 選べたらよかった
 もっと違う性格で もっと違う価値観で愛を伝えられたら…」

そんな歌詞(作詞:藤原聡)が、いわば私の心のどこかに抱えられたルサンチマンにものすごくピンポイントで刺さってきたのです。

もちろん、同性愛解釈と親和性が高いとされる歌詞。
セクシュアルマイノリティの1人として感情移入がスムーズなのは辻褄の合う話でしかありません。

ただ、ワタシの場合、若い頃の恋愛模様、青春時代の忘れ得ぬ出逢いをふり返ったとき、ストレートに同性愛な人から見ると、さらに1周半ほど捻れた厄介な事情にまみれていたのも事実なのではないでしょうか。


  

拙著『女が少年だったころ』や『女子高生になれなかった少年』を読んでいただいた方ならピンとくるかもしれませんが、ワタシの思春期の苦悩に影響した性別違和の諸要素のうち、大きな比重を占めていたのは「女性への親密欲求」をめぐるものです。

いわゆる「恋愛」と呼べるものも「友情」の範疇に収まると言えるものも、ともに「女性への親密欲求」であったワタシにとっては、すべてその成就を、当時の自身に割り当てられていた「男」というジェンダー属性のしがらみの中でめざさないといけない。

そがゆえに、個々の相手との関係性を、本来的には望ましいありようが個別に欲されているにもかかわらず、一律に「男と女の恋愛」モデルに落とし込んで設計せねばならず、そのズレがさまざまな軋轢や不整合を生じていたわけです。

モテるタイプでもないのにモテ願望に苛まれるという無理ゲー感をベースに、叶わない想いには劣等感や自己嫌悪に懊悩することにもなりました。

こうしたものが、好きな女の子への想いをめぐる煩悶の数々の背後にある真相だったわけです。

そんな中では、良い方策を求めて探した各種メディアの情報も、あるいは身近な人に相談して得られたアドバイスも、どこかワタシが実際に直面している困難とは適合しない、何ひとつとしてピンとこないものとなりがちでした。
『Pretender』の歌詞の「まるで飛行機の窓から見下ろした知らない街の夜景みたいだ」とは、今にして思えばまさしく言い得て妙な比喩でしょう。

そして
だからこそ、
もしも、当時からワタシが女の子でいられていた、そういう設定の世界線があったなら……、そんな仮想には心が動かされずにはおれないのでしょう。

『女が少年だったころ』の中学3年生編で描かれている「七森由紀子」と「山野和美」のどちらを選ぶべきかという葛藤は、つまるところワタシが当時から女の子なら3人で親友どうしというところへ落ち着けたはずです。
後の「山野和美」との辛い別れもまた、結局は「男と女で付き合う」という形をとってしまったがゆえの悲劇だと言えます。

「情報通信工科大学付属高校」に進学後の女子がいない環境についても、その当時は「山野和美」と付き合っている形であったにもかかわらず、その不満足感から逃れられないのは、やはり幅広い親交を女子と深めたい欲求であり、そして仮に周りに男子しかいない環境であっても、逆に自分自身が女子ならうまくやっていけたのではないかとは、当時から漠然と自覚していなくもありませんでした。

公立で男女共学の「岩船高校」に舞台を移した『女子高生になれなかった少年』の記述をひもといても、2年生のときのクラスメートとして出会った「瓜野幸子」とは擬似的に女の子どうしの友情のような関係性が紡げたのはむしろ奇跡的な僥倖だったでしょう。

1年生で出会った「岡島麻裕美」の少し影のある魅力に対しては、今からふり返ってもかなりガッツリ「恋に落ちて」いたと思えますが、彼女に何らかの同性愛傾向があったこともまた間違いないでしょう。
当時のワタシが男子であったために、彼女と恋愛関係を深めていく可能性が最初からオミットされていたのだとしたら残念です。
彼女と女どうしで恋人になれた世界線、そんな if は今でも渇望されるところです。

そして3年生のときの運命の出会い「春風桃子」。
ワタシが「告白」してフラれるときの彼女のセリフからは、今日のLGBT用語で言えば(?)彼女にAセクシュアルの傾向があるようにも読み取れます。
しかし、であるならば、例えば「優しい先輩と可愛い後輩」のような関係性のまま親交の密度を上げていくというような道もあったはずなのです。
なのに、それもまたワタシが「男である」という性別属性に基づいた関係性ルールの適用によって妨げられていたのは、少なくともワタシにとっては大きな損失だったと言えますが、さて彼女にとってはどうだったのでしょう。やはり君の運命の人は僕じゃなかったのでしょうか。

この、けっこうイイ感じに仲良くなれたのに相手にどうやらAセクシュアル傾向があるという事情でワタシが告白したらフラれてしまうという展開は、大学4年生編で登場する「若草萌子」との間でもリプライズされます。

思えばワタシが好きになり、かつ相応に波長が合って距離が縮められる相手というのは、なにがしかのクィアネスを抱えた相手ばかりだったということになるのかもしれません。
だとするとワタシが「男として彼女と恋人関係になる」を実現することには絶望的な不可能性があったわけです。

反対にワタシに好意を抱いてくる相手、例えば高校2年生編での後輩「山田和子」や「萩原規世子」先輩はお断りせざるを得なかったのは、タイミングもさることながら、やはり「男として好きになられる」ことへの無意識の拒絶感だったと分析することもできるでしょう。
その後々、幸いにも交際に至りカレシとカノジョという関係になれた相手とも、しだいに綻びが生じ、最終的にはうまくいかなくなるのは、事情は同様だったと考えられます。
自分を異性として好きになってくれる異性とは上手くいかない運命にある。そんな、まるでクリアできないゲームのようなバグは、結局はプログラムの前提を書き換えることでしか解消できなかったのもうなずけます。

大学で同じゼミだった「妹尾梨花」「夏目柚子」「森下春菜」らとは、幸いにも擬似的な女どうしのノリで交流できた仲なのですが、もしかしたら彼女たちは、ともに究めた社会学の知見をもとに、ワタシの人間関係はワタシのジェンダー属性が女であったほうがいろいろスムーズだという真相を、当時すでに見抜いていたのかもしれません。

あるいは……、
ワタシのジェンダー属性が当時からすでに女であったなら、という if に依拠しないとしたら、もうひとつの視角は「男女ルール」の見直しです。

もしも当時から、恋愛は男女でなくてもイイ、男女だからって恋愛でなくてもイイ、そう考えることができていたら。
なにも恋人としての交際が一対一でなくてもかまわない、すなわちポリアモリー的な考え方が獲得されていたら。
そもそも誰がどんなふうに男であったり女であったり、あるいは女や男でなくったってイイ……。

そういう、「誰が男で誰が女なのかは変更できない設定として決められており、そしてその男と女が一対一で恋人関係になることこそが唯一にして至高の関係性なのだ」ではない、まさに、もっと違う価値観でなら、因習を打破した、広い意味での、愛を伝え合うことが、個別の関係性においてできたのかもしれない。

そんな世界線もまた、どこかにあったかもしれないのに、と思えると、悔恨の念もここに極まるところでありましょう。


 →「男女間の友情は成り立つか?」2015
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2015-12-21_friend2015


 → 奥華子「夕立」の歌詞の意味はソレでいい?
https://stream-tomorine3908.blog.ss-blog.jp/2016-07-08_YdLyc


ちなみに、これら「もっと違う設定」「もっと違う価値観」に寄り添った人間関係については、現在は我が娘・満咲によって、親が果たせなかった実践が試みられる形になっています。
上記リンク先のひとつめには、その片鱗が示されていますし、ふたつめはそうした満咲の実践をふまえて奥華子の楽曲歌詞を再々解釈してみたものです。


というわけで、
このように Official髭男dism の『Pretender』から、ワタシの過去の親密欲求をめぐる複雑な困難や、それを超克した先にある、別のモデルが展望できました。

かように「クィアリーディング」には大いなる可能性が秘められています。

とりあえず初心者レベルでは「同性愛解釈もできるデ!!」から始めるのも順当ではありますが、その水準のその先を究めたいという方は、このように、より深くより複雑に捻くれた「好きの多様性」をも念頭に置いていただくのもよいのではないでしょうか。

このような試みは、必ずや、これからの時代の人と人とのよりよい繋がりの形にルネサンスをもたらすものだと確信できます。


  


「………とまぁ、ざっとこんなあたりが言えるんやないかな」

「なるほどー」

「ところでさぁ、『Pretender』の歌詞の主人公(画像左側)の想う相手が、本当にMVのコノ人(画像右側)なんだとしたら……」

「……たら??」

「コノ人の髪、本当に触ったらチクチクして痛そう」

「は?」

「つまり《その髪に触れただけで痛いや(物理)》www」

「誰がそんなオチをつけろと;」

「ちゃんちゃんノ」

 BL20200124.JPG
 ※画像は公式MVよりキャプチャ

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