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輝く未来を抱きしめた「HUGっと!プリキュア」が拓く新時代 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

2018年度のプリキュアシリーズ作品『HUGっと!プリキュア』、シリーズ15周年へ至る記念作品としての各種キャンペーンと連動したのに加え、やはり作品の中で試みられたさまざまな先進的取り組み・画期的な展開の描写などが功を奏して、1年間を通して大いに話題になった末に、本日の最終回が放送されました。

いゃぁ、最終回自体もさることながら全編をふり返っても、じつに素晴らしい完成度の作品で、15年にわたって続いたプリキュアシリーズの最新作として、ひとつの到達点を極めていました。
まさにプリキュアシリーズの歴史にまた新たな境地を拓いたと言ってよいでしょう。

 →朝日放送「HUGっと!プリキュア」公式サイト

 →東映アニメーション「HUGっと!プリキュア」公式サイト


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§画像は放送画面もしくは公式のサイト等よりキャプチャしたもの。以下この記事中同じ


3年前(2015年度)『Go! プリンセス プリキュア』が大団円を迎えた際にも、「物語の基盤である女の子どうしの親密な関係性を丁寧に描きながら、主人公らが自発的自律的に自ら主体性を持って行動し、自分たちの暮らしを脅かす敵を撃退しつつ、最終的にはそんな敵陣営のありようさえ変えていくという、プリキュアシリーズの基本とも言える要素はきちんと押さえつつ、さらなる高みをめざした意欲的な構成は、大いなる賞賛に値する」と書きましたが、そうした内容ももちろん、よりブラッシュアップした形で包含されていました。



そのうえで、「赤ちゃんを育てる」という案件を物語の中心に据えたことは、その具体的な作業の数々は特定の個人に収斂するものではなく社会的に共有されるべきだというスタンスを打ち出すことで、無垢な子どもという存在を「無限の可能性」「未来への希望」を意味するものとして巧みに昇華することに成功していました。

また、その過程では、旧来の性別役割分業規範とは距離を置き、むしろ「女」や「男」といった個々人のジェンダー属性よりも、それぞれの個性が尊重されることが称揚され、以て作中の人物らのエンパワーとともに視聴者ひとりひとりに対しても「自分の心に従ってやりたいことをする」「自分がなりたい自分になる」ことを応援するメッセージを発信、その先にある輝かしい未来を示唆するという成果を収めていました。

まさに《なんでもできる! なんでもなれる! 輝く未来を抱きしめて!》という作品のキャッチフレーズに偽りなし!

これから平成の次の時代に大人になっていく視聴者の子どもたち、あるいはすでに大人である視聴者にさえ、夢と希望と明日を生きていくパワーを生み出す力を喚起する内容だったと言えるでしょう。

  


すでに既存記事に追記・併記する形で言及しましたが、終盤の展開での「史上初の男子プリキュア登場」も象徴的なトピックで、実際この件は一般紙でも報道され、ワタクシ佐倉智美がコメントを寄せることとなったりもしています。





「なんでもできる! なんでもなれる!」、すなわち性別にかかわらず自分がしたいことをする・なりたい自分になる……ということであれば、プリキュアに変身することの可否もまた性別で規定されてはいけないわけで、これもまた、そうした本作の方針が可視的に明示されたもののひとつだったでしょう。

じつのところ、最終決戦もクライマックスの第48話では、プリキュアたちの戦いを見守り応援する街の人たち全員が(つまりいろんな性別の人が)、その熱い気持ちと主人公の強い思いを呼応させることで、プリキュアとしての変身態を獲得します。

まぁ要するに、久しく言われてきた「女の子は誰でもプリキュアになれる」が、なんとこのたび「誰でもプリキュアになれる」へとアップデートが果たされた形です。
そう、ヒーローとしてのプリキュアに相応しい心意気さえあれば誰でもね。

「プリキュアに変身する」ということは「なりたい自分になる」ことが投影されているわけで、このときの街の人たちの変身態も、各々個性的だったのは印象的でした。

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もちろん、これらは1話限りのいわばゲスト出演。
正式なレギュラー枠のプリキュアとして公式サイトで紹介されたり、バンダイなどスポンサーが商品に仕立てて販売する活動には関わりません。

その意味ではこれは、そのうちレギュラー枠で例えば男の娘プリキュアが登場するまでの、橋頭堡のひとつ。それ以上でもそれ以下でもないとも考えられます。

しかしそれでも、ひとつの前例としては大きいはず。

そしておそらくは2016年度の『魔法つかいプリキュア!』の頃から、すでに作中の人々の認識においては、プリキュアは必ずしも女の子のみが変身するものではなくなっているのではないかというのが私の見立てです
(「魔法つかいプリキュア」でも「プリキュアアラモード」でも、作中で男性キャラがプリキュアになることを目指していた形跡がある)。

何より、2017年度の『キラキラ☆プリキュア アラモード』でのキュアパルフェのように妖精の人間態が変身者であり、したがって生物学的な性別および戸籍上の性別という概念になじまない実存が正規のレギュラープリキュアであるケースは、シリーズ初期から存在しています。

そうしてこのたびの『HUGっと!プリキュア』では、追加戦士として正式にレギュラー登場するプリキュアであるキュアアムールに変身することになったルールー・アムールは、じつは未来の科学によって作られたアンドロイド

当然ながら生物ではそもそもないし、現代に戸籍もあるわけではないでしょう。
しかしプリキュアになるうえで、それは無問題。

このように、プリキュア変身者を生物学的女性や戸籍上の女性に限定しない実績は積み上がっており、これは性の多様性の視角ともつながりつつ、プリキュアシリーズをより深く層を厚く進化させていくことに資するものではないでしょうか。

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『HUGっと!プリキュア』では他にも「なんでもできる! なんでもなれる!」を、特にそれが旧来のジェンダーイメージに囚われる必要はないと伝える描写が、各所で細かくおこなわれていました。

例えばキュアアンジュに変身する薬師寺さあやは、青がイメージカラーなキャラの定石にしたがって知性担当にして委員長タイプの優等生な女の子だというのが基本なのですが、一方でホームセンターのDIYコーナーで陳列されている電動ドリルなどの工具に大興奮したり、カメラなどのデバイスにも詳しいなど、前述した属性のステレオタイプを覆す個性も付与されており(激辛カレーが好物なども)、それがすべてありのままのこととして適切に統合されて描かれ、作中の周囲の人々もまたソレをあたりまえに受け止めていました。

最終的には「将来の夢は医師」という夢を実現するなど、いわば理系女子の系譜なのですが、このように一般的には「女の子らしい」とは思われていないであろう「ドリル属性」が織り込まれることで、視聴者の子どもたちには、より効果的に「自分らしく、でイイんだ」というメッセージを届けることができたのではないでしょうか。

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ちなみに薬師寺さあやの家庭は、母親が有名な女優で忙しいところを、父親が専業主夫の立ち位置で支えているなど、旧来の性別役割分業とは異なるモデルが提示されていたのは、やはり有意義でしょう。

このほか、黄色のプリキュア・キュアエトワールへの変身者である輝木ほまれは母子家庭で、母親の職業はこれまたジェンダーステレオタイプを大胆に外したクレーン技師であるなど、多様性描写には余念がありません。

筆頭主人公にしてピンクのプリキュア・キュアエールに変身する野乃はなの家庭も、母親はタウン誌の制作に携わり、父親はホームセンター店長を務めるという共働きなのですが、第1話の冒頭ではいきなり母親が「今日は遅くなるから晩ごはん作る当番お願い」と言い父親が「OK」とこともなげに応えるというやりとりが、おそらくはこの家では日常的におこなわれている会話として挿まれます。

プリキュアシリーズが放送されている日曜朝の枠を遡ると、往年の人気シリーズ『おジャ魔女どれみ』に行き当たるわけですが、1999年にオンエアされたその第1話の冒頭では、趣味の釣りに行きたい父親が家事の庭掃除をサボろうとしたことから母親との夫婦喧嘩になるというシーンがあります。

このあたり比較すると、現実に小中学生の子どもがいる家庭での役割分業や夫婦の関係性は時代とともに変化してきていて、その方向性を的確にとらえて、現時点の標準から少しだけ先にある理想を提示したのが、この『HUG』第1話だったのではないでしょうか(逆に言えば『どれみ』の描写も1999年当時においては、視聴者が自然に感じられるものとして世間一般の標準的な光景を再現していただけだろうから、今日の視点で「遅れている」といった批判を加えるのは妥当性を欠くと思われる)。

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そんな中で主人公ら各人は、自分が何をしたいか・どのような自分になりたいのかを探求しながら物語は進行するのですが、特に筆頭主人公・野乃はなは、それをわかりやすく体現する役割のセリフ回しを担います。

第1話でプリキュアに変身することになるきっかけである、襲ってきた敵と対峙する際には、「ここで逃げたら格好悪い! わたしがなりたい野乃はなじゃない!」。

最初の中間クライマックスだった第11話では、プリキュアとしてみんなを守りたい気持ちの高まりに呼応して出現した新アイテムが、あたかも正義の名のもとに敵を有無を言わさず一刀両断するような剣の形状だったことを受けて、「違う…これはわたしのなりたいプリキュアじゃない!」。
そうして自分がしたいことが、相手の存在を肯定し、癒やし、応援することであることの再確認を経て、新アイテムの形状がそれに相応しいものに変わると、あらためて手に取って「これがわたしの応援、わたしのなりたいプリキュアだ!」。

そうして終盤の最終決戦編も大詰めの第48話では、ラスボスとの問答の中で、これまでの出来事を顧みて、あらためて自分がめざすべき自己像・実践すべき生き方についての気づきを得ると、それを以下のように言語化するのです。
「みんな迷いながら生きてる。生きるって苦しい。でも、だからわたしは応援したい。 なんでもできる!なんでもなれる!フレフレみんな、フレフレわたし! これが、これが……わたしのなりたい野乃はなだ!」。

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かように「なりたい自己」を追求した果てに、最終回の後半の2030年のシーンでは、大人になった野乃はなが、起業し会社の社長となり、一生懸命に生きている人々を幅広く応援するような事業を展開している様子が提示されます。

プリキュアシリーズの主人公らの将来の進路については、今までにも旧来の社会通念における女の子らしさの範疇に収まらないものは多々ありました2013年度の『ドキドキ!プリキュア』では、将来の夢が内閣総理大臣だったり、大資本の令嬢としてすでに経営に参画している事例もありました)が、「起業して社長」を実現しているケースは初めてであり、これもまた非常に先進的だと言えましょう。

思えば『HUG』の前期エンディング主題歌の歌詞は、「なんでもできる! なんでもなれる!」に則して、子どもたちが憧れるような職業を次々と連呼していくものでした。

その中には「いかにも女の子らしい」と一般に思われているものもあれば、必ずしもそうではないもの、例えばエンジニアパイロット等も同じくらい混ざっており、ここでも因習的なジェンダーイメージを覆してよいというメッセージが感じられたものです
もう少しレベルの低い話をすると、メイン視聴者である子どもたちの祖父母世代などはついついいまだに「看護」と言ってしまうこともありがちなところを、キチンと男女共同参画社会の理念に見合った今日の呼称である「看護」と歌い込んでいたことも丁寧なつくりだと評価すべきポイントでしょう)。

そしてそうした具体例の中にはたしかに「社長」も含まれており、その意味ではキッチリと伏線を回収した形です。

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あと、性別に囚われなくていいというメッセージという点では、その真骨頂は第19話だったのではないでしょうか。

ひょんなことからみんなでファッションショーに出演することになったこの回、後に(キュアアムールとともに追加戦士としてレギュラー入りする)キュアマシェリの変身者となる愛崎えみるは、保守的な祖父の価値観を内面化していた兄の愛崎正人から
(このファッションショーの題目に採用されていた)《女の子だってヒーローになれる》なんてオカシイ」
「ヒーローとは男のための言葉」
「女の子はヒーローに守られる立場なのが正しい」
などと言われてしまい、そのまま連れ帰られそうになります。

……いやはや、15年もプリキュアシリーズが続いてきた今頃になって、この人いったい何を言ってるんでしょうか;

視聴者がそう思っていると、駆けつけた野乃はなが「誰の心にだってヒーローはいる」「人の心を縛るな!」と反駁するのですが、それでも正人は馬耳東風。

そこへファッションショーのトリを務める予定だった若宮アンリ(彼こそが後に前述の「初の男子プリキュア・キュアアンフィニ」に変身を遂げる人物)が、そのためのドレスを着用して現れます。
「相変わらずキミ、つまらないこと言うねぇ」

じつは学校でも顔を合わせている2人なのですが、フランス人を父に持ち海外生活も長いこととあいまって、旧習にこだわらない自由奔放な価値観のアンリは、保守的な正人の言動と衝突することが初めてではないのでした。

「何、その格好!?」
「キミ、男だろ?」
ドレスを華麗に着こなしているアンリに向けて、あからさまに侮蔑のニュアンスを言葉に乗せる正人に、アンリは理路整然と自分の考えを告げます。

「……だから何??」
「すごくステキだと思ったからだよ」
「ボクは自分がしたい格好をする。自分で自分の心に制約をかける…、それこそ時間、人生の無駄!」

こうしてアンリは正人を論破するに至るのですが、このロジック、男性ジェンダーを割り当てられて生きている人が女性服を着ることについて、自分が素敵だと思い、着たいと思うなら着ればよいというのは、まさしく「トランスジェンダーに理由は必要ない」を極めたものであり、この社会のジェンダー規範に抑圧を感じるすべての人を解放へ導く道標たりえていました。

そうです、男らしさ・女らしさ、むやみに縛られても窮屈なだけで人生大損なのです。
それよりもっと自由に「自分」を大切にして生きよう!

この回が話題になる際は「男の子だってお姫様になれる」がキャッチーなフレーズだったためか、ソコだけが注目されがちですが、これはこの後ドレス姿のまま敵モンスターに捕縛されてしまったアンリが、その状況を自嘲気味に「これ(昔の男性主人公のヒーローものによくあるような)お姫様のポジションになってない?」と呟いた軽口に対してキュアエールがマジレスしたセリフにすぎず、全体としてはオマケのようなものです。
重要なのは、ソコへ至る前段だった上記のやり取りなのです。

なお、この回の後、いろいろ紆余曲折を経てアンリと正人は和解し、親友(あるいはソレでは言い表せないほどの親密な間柄)となっていくのですが、それにまつわる描写群もまた意義深いものでした。

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『HUGっと!プリキュア』における「なんでもできる! なんでもなれる!」に関しては、他にも《失敗・挫折からの再起・やり直し》を肯定し応援するようなエピソードも複数にわたって盛り込まれていました。
この点の詳述は省きますが、これもまた大きな意義を持つのは疑いありません。


このように『HUGっと!プリキュア』は、ジェンダーの呪縛から自由になることを再三にわたって称揚する作劇を繰り広げました。

こうした作品を幼い頃から視聴し、そのエッセンスを我がものとした子どもたちが、やがて成長した日においては、過去の旧弊に絡め取られた各種のシステムを覆し、すべての人が自分らしく生き生きと自己実現できる社会を実現する、そんな輝く未来が拓かれるものと信じられます。

まさにプリキュアシリーズは、そこにつながるものなのではないでしょうか。

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一方、今述べたとおり《子ども》は「未来」への「可能性」そのものでもあります。

『HUGっと!プリキュア』が「子育て」をストーリー進行の主柱に据えたことは、《なんでもできる! なんでもなれる! 輝く未来を抱きしめて!》と謳った作品テーマと呼応するものとして、やはり必然性があるものとわかるように描かれていたことも重要でしょう。

終盤の第48話ではキュアエール・野乃はなが訴える「赤ちゃんはみんなで育てる」「1人じゃ未来は育めない」という台詞が作品の1年間を通じた取り組みを集約していましたが、そこに至るまでの細かな描写の数々は、その言葉に説得力を与えていました。

第1話で主人公らのもとへ空から降ってきた(じつは未来からやってきた)不思議な赤ちゃん「はぐたん」ですが、その世話は主人公らが交代で分担すると同時に、「はぐたん」とともにやってきたハムスターが若い男性の姿に変化したハリーが、さしづめ「イクメン男性」とばかりに勤しむ割合は、質・量ともにかなりのものでした。

さらには町の人々の各々の育児の様子も挿話され、産科医院の関わりなどと合わせて、人々の相互協力のもとで、社会全体で子どもを育んでいく様子は、相当にしっかりと描きこまれていました。

育児に参画する人々の間どうしで社会的なつながりが醸成され、ひとつの縁・大いなる和として、世界をより豊かにしていく様子は、現実世界の少子化問題への、解決のヒントを示すものでもあったでしょう。

もちろん、昨今の緊切した課題である、いわゆる「ワンオペ育児」を意識したうえでの、そうではない、ひとつの理想の形を提示したものでも。

いずれにせよ、番組として女の子向けマーケティングである枠内で「子育て」が作中の前面に出てくるというのは、視聴者としてメインターゲットに据えられている小さな女の子たちに「女の子は赤ちゃんのお世話をするのが役割」「将来はお母さんになって育児に精を出すことこそが女の幸せ」といった因習的なジェンダー規範への隷属を教化してしまう危険性と隣り合わせなのは確かなので、放送開始前には不安の声も少なくはなかったですが、つまるところそうした方向性は慎重に避けられ、あるいは丁寧に取り除かれていました。

もとよりプリキュアシリーズですから、女の子たちが主体的に行動しながら自己と向き合って課題を解決して成長していく物語です。
既存のジェンダーロールに回収されてしまう心配というのは、基本的に杞憂であるということになりましょう。


◎《作品》がジェンダー観点でいろいろ意欲的な取り組みをしていることと、《番組》が女の子向けマーケティングの枠でビジネスモデルを組み立てていることは、それぞれ別に見ていかないといけません。
『ドキドキ!プリキュア』のときにも、赤ちゃん型妖精の「アイちゃん」を主人公たちが「お世話」する設定が盛り込まれていたため、「アイちゃん」を模した玩具が商品化され、CMは「赤ちゃんのお世話をするママって楽しい~」と訴求していましたが、作中での主人公らの「アイちゃん」との係わりは、それとは異なる文脈で描写されており、ある種の対照性が窺えました……というようなことは当時にも述べているとおりです。
玩具など関連商品の購買決定権を持つ大人、特に祖父母世代には清く正しく「女の子らしい」商品のウケが良いのだとしたら、スポンサーの商品開発がそんなジェンダーバイアスに寄ってくることも無理からぬことですし、その点への批判はスバリそうした大人のジェンダー観念へと向けられるべきであり、ソコを作品自体へと接続して作品の評価を下げてしまうというのは筋違い・的外れなのです。

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そしてそうした中でも『HUGっと!プリキュア』が、意識的にこだわりを見せたのは《出産》ではないでしょうか。

第35話は母親が臨月でまもなく「お姉ちゃん」になる子どもの気持ちに丁寧に寄り添ったストーリーでしたが、同時にその母親が自然分娩ができなくなってしまったことで自分を責めているのに対して産科医が「帝王切開だって立派なお産だ」と、すべての出産を肯定するくだりがありました。

また第27話は主人公らの学校の担任の先生の奥さんが出産を控えているのですが、ここでは担任の先生自身の「父親になることを控えた男性」の葛藤に主軸を置いたドラマ展開が用意されていました。
そこで野乃はなの父親が幼少期のはなの世話をした経験談から悩める先生にアドバイスする様子などは、前述の「みんなで子育て」の具体的な描写のひとつです。

第35話には産科医院で開かれている両親教室のような場で、父親が妊婦体験スーツを装着してお腹に赤ちゃんかいる重みの疑似体験をしている様子なども描かれていましたから、これらを総合すると、やはり《出産》がひとり妊産婦の孤独な営みなのではなく、周囲でかかわるすべての人々にとっての共同作業であり、全員が当事者なのであるという考えを打ち出していたと捉えられます。

このように『HUGっと!プリキュア』は、出産の現場を反復して映すことで、新しい
生命の誕生を祝福し、未来を担う次世代へエールを送りつつ、それにまつわる各種コストは社会全体での共有・分担事項であることを他の様々な描写と合わせることで確認し、以て子どもも大人もなりたい自分を否定せずに自己実現を追求できる理想の世界を提示することに成功しました。

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最終回・第49話ではその総決算として、後半の2030年のパートで大人になった筆頭主人公・野乃はなもまた、分娩台に上がります。
1年間「はぐたん」と触れあったはなが、最後にリアルに赤ちゃんを産むというのは、現在が未来に繋がることを明示する意味があり、そうやって人々が時を越えて生き、ひとりひとりの物語が連綿と紡がれていることを伝えるためにも、本作のここまでの取り組みを考えると外せないことのひとつと理解できます。

とはいえ、作劇上は例えば日常場面で大人のはなが小さな子どもとふれあっている1カットを挿むなど、簡潔な方法でもそれはできないではありません。
ところが『HUGっと!プリキュア』最終回の野乃はな出産シーンは、まさかのガチめのリアルな分娩描写。

子ども向けアニメでこれほどの真に迫った出産シーン演出は、なかなか前例を探すのが難しいかと思われます。

むろんそこには制作側が何らかの意味を込めているはずです。

私見ですが、おそらくは第48話の最終決戦で確認された「人は苦しみながらも未来へ向かって進んでいくのだ」という主人公サイドの決意とリンクしたりしているのではないでしょうか。
そう考えると、このように文字どおりの「産みの苦しみ」を明示するのは、非常に得心のいくエピローグだったと言えます。

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ただ、このような主人公の出産という結末は、「結局は女の最大の役割は子を産むことだというメッセージになってしまう」「最後の最後で女の幸せを母親になることに収斂させてしまった」といった批判も招かないではなかったでしょう。

しかしその種の批判ははたして妥当でしょうか。

作品全体を見れば、人と人との生殖にはつながらないパターンの関係性の価値についても、注意深く描いてきているのが本作です
(例えば前述のとおり、若宮アンリ×愛崎正人は同性どうしということになりますし、愛崎えみるとの間に深く心のつながりを持つことになるルールー・アムールはアンドロイドです)。
回毎のエピソードを通じても、子を持つ以外の生き方もまた否定はされていないと受け止めることには難くありません。

むしろ『HUGっと!プリキュア』に接した子どもたちにあっては、将来において「子を生み育てる母となることこそが女の幸せ!!」と迫ってくるような周囲に対して、往年のアニメを思い返しつつ、そうではないのだと自己を貫くだけの力をエンパワーする、そういう作品として成立していました。

そんな作品の結末であれば、はなの出産もまた、子を生む・子を持つといった選択が、しない自由も含めて多様な選択肢の中から選び取ったものなのだと解釈するのが自然です。

あまつさえこの時点の野乃はなは、自ら起業して社長になって手広く事業展開しているやり手の新進気鋭実業家なのです。
ものすごく夢を叶えてなりたい自分になって八面六臂の大活躍をしているわけです。
出産もまた、そうした人生のステージのイベントのひとつとして位置づいているのではありますまいか。

あと、赤ちゃんの父親と思われる相手については、詳細は伏せられていましたが、ただそのはなとの関係性を伺うに、わりとフラットで旧弊に囚われていないニュアンスが漂っていましたから、これもまた新しさを感じさせるものでした。

そのあたり総合すると、「出産した」の一点をもって全否定に走るのは、拙速の誹りを免れないと思われます。

要は《「子どもを持つことの素晴らしさ・子どもを通じて未来を育むことの尊さ」を描くこと》と《「子どもを産み育てることこそが唯一絶対の女の幸せ(女に他の選択肢はない)」であるかのようには描かない》ことは、決して背反する事象ではなく両立できるわけです。

で『HUGっと!プリキュア』はソコができていた。
そのことは、きっちり視聴したうえで理解し、それでもなお何か指摘すべき点があればピンポイントで的確に論評するという丁寧さは求められるところです。

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ともあれ、以上のように「子ども」をひとつの軸にして、多様な人々が守旧的な規範を超克して自己実現をしていくことを肯定的に応援する物語を紡いだ『HUGっと!プリキュア』の1年間。

まごうことなく《なんでもできる! なんでもなれる! 輝く未来を抱きしめて!》の看板に偽りないものでした。

プリキュアシリーズ15周年のタイミングに立てられた金字塔として、末永く語り継ぎたいところです。

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