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続・赤毛のアンは早すぎた日常系百合アニメ [メディア・家族・教育等とジェンダー]

というわけで、前記事「赤毛のアンは早すぎた日常系百合アニメをふまえて、少しソノ方面の文献に、あらためて手を伸ばしてみました。

まずは、とりあえず『赤毛のアン』の原典(日本語訳 by村岡花子版)を入手。

→ 赤毛のアン (新装版) (講談社青い鳥文庫) L.M.モンゴメリ
     

今さらながら」読んでみると、やはりいろいろ発見があります。

どうでもいい話からすると、アンが初めて日曜学校に行くときシンプルな帽子を寂しく思って道端に咲いてた花で飾り立てた結果「常識的な人々」から顰蹙をってしまうくだりを、今日のアニメオタク知識をもって読むと、さように頭部を花で装飾することに対しては、某学園都市の初春氏を連想せざるを得ないですw

そして、そんなふうに読み込んでいくと、例えば、マリラのアンに対して接するときの態度、これって今の言葉で言えば………【ツンデレ】!

そして、類稀なイマジネーション力によってまざまな妄想の数々を生み出し続けるアンのキャラは、同じく今の言葉で言えば【中二病】w

な、なるほど!!
深いんだかナンなんだか(^^)


次に、こちらも入手してみました。

→ アンのゆりかご~村岡花子の生涯 (新潮文庫) 村岡恵理
     

この中からは、すでにNHKの朝ドラのストーリーに組み込まれて紹介されているエピソードも多いのですが、村岡花子が戦後ようやく赤毛のアンの翻訳本の出版に至った際、邦題を当初の腹案だった「窓辺の少女」などから、若い世代の娘の意見で『赤毛のアン』に変えた経緯なども書かれています。

なるほど、タイトルは大事です!
むしろ題名だけを見て批判されるくらいが理想です(!?)。

……なので出版が、もしももっと最近だったら、まさかのタイトルは『中二病の少女が孤児院からツンデレおばさんのところへやってくるようです』か何かになってたかも!?(違;


でもって、『赤毛のアン』の内容はというと、やはりもうズバリ「日常系百合アニメ」のソレだったと言ってもよい具合でした。

いゃ、それに、アンとダイアナがここまで「愛してる」「愛してる」言い合ってたとは、今日の「日常系百合アニメ」的に見てもビックリです。

いわゆる深夜放映の狭い意味での「日常系百合アニメ」以外、例えばプリキュアシリーズでも、主人公らの親密描写が極まった際には、それを同性愛的なレベルにまで敷衍して読み解くのは、大きいお友達視聴者にとっての、いわばお作法になっていますが、このアンとダイアナの「愛してる」のやりとりを知っていれば、『ドキドキプリキュア』での相田マナと菱川六花の関係などは驚くに値しなかったとさえ言えます。

まぁ、あの知的レベルが高いキャラとして設定されていたマナや六花なら、当然の教養として『赤毛のアン』のひとつやふたつ読んだこともある(六花なんてモンゴメリの原書を英語で読んでそうです;)でしょうから、あの2人のやりとりの下敷きに、こうした赤毛のアンでの描写があったかもしれないとわかると、またあらためて味わい深かったりもします。


スマイルプリキュア』でも、第7話で『赤毛のアン』は主人公みゆきの愛読書だったと言及されますが、そもそも第1話の冒頭の登校シーンもまた、『アン』のクライマックスでの言葉「曲がり角を曲がった先には何があるかわからないの。でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの」と重なっています。

東日本大震災をふまえて人々をエンパワー・エンカレッジすることをめざしたとされる『スマイルプリキュア』ですが、第1話の冒頭に赤毛のアン終盤のソレを持ってきたというのは、この物語が「女の子が曲がり角をまがった、その先にあるもの」を描きますよという宣言だったと、これも『赤毛のアン』を踏まえると理解できます。

さらには、村岡花子が女学校を卒業するときに恩師ミス・ブラックモアから言われた言葉、「最上のものは過去にあるのではなく将来にあります。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて進んでいく者でありますように」もまた、スマイルプリキュアのテーマそのものではありませんか。

あと、第43話の(キュアビューティへの変身者である)青木れいかが留学話を辞退するという決断に至るエピソードも、『アン』の終盤の展開とパラレルになっていると考えられなくはありません。

モンゴメリによる『赤毛のアン』原典~その邦訳書はもちろんですが、村岡恵理『アンのゆりかご~村岡花子の生涯』も、初出はすでに2008年。私が手に取っている新潮文庫版が2011年の秋。
これは時期的に考えると『スマイルプリキュア』の制作に何らかの影響を与えている可能性はじゅうぶんに推察が可能です。

ともあれ、こうなると、まさに「赤毛のアンを知らずしてプリキュアを語る事なかれ」だったりもします。
うっかり今までアンをふまえずにプリキュア論を語ってしまったようで、その点、いやはやお恥ずかしい;


『アンのゆりかご』を読むと、当然に原作者モンゴメリの半生がアンのキャラクターに投影されているところへ、さらに翻訳作業を通じて村岡花子のさまざまな体験もまた反映されることになっている様子がよくわかります。

厳しい時代を生き抜いた2人の女性の物語がアンに仮託されて、そうして現代の私たちに受け継がれているわけです。

モンゴメリの志を引き継ぎ、戦前から戦後にかけての現在よりもさらに「女性」にとって生きづらい時代の中で真摯に社会と向き合い、自らが今ココですべきことに全力で取り組み自分の人生を全うした、その村岡花子が戦火の中で未来を信じて訳し続けた赤毛のアンと、そのエートスを受け継ぐ作品群を享受できることは何よりの「平和」であり、それを守っていくための何かをもまた今の私たちは託されているのではないでしょうか。

そして、このように考えてくると、プリキュアや日常系百合アニメを愛好する人々を社会的害悪のように語る一部の人たちには、ソレって本当に社会を良くすることにつながるの? …というギモンが、このように赤毛のアンとの連関を捉えることで、言えるようになってきます。

その意味でも『赤毛のアン』を今風の日常系百合アニメとしてリメイクするというのは、ちょっと真面目な話、検討に値する有意義なことなのかもしれないですね。

……絵柄のベースは、この青い鳥文庫版のHACCANさんによる挿絵かな?

そしてやっぱキャストは
アン:佐倉綾音
ダイアナ:村川梨衣
……キボウ(^o^;)

 1406anneY.jpg


   


◎あともうひとつ、どうでもいいネタをしておくと、『赤毛のアン』冒頭の、アンが駅で迎えを待つシークエンス――1979年アニメ版『赤毛のアン』第1話だとこのあたりのシーンですが……

 Anne&Ressha_L.JPG

……アンほどのイマジネーション力の持ち主なら、今ここにトッキュウジャーの烈車が通ったら、ゼッタイ見えるだろうなぁw


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コメント 5

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MS

>アンとダイアナがここまで「愛してる」「愛してる」言い合ってた

私の場合はここ見て、ああこれが「エス」か、と思ってました。ただ、マリみて的なエスと日常系的なものは連続性があります。だからエスとも日常系特有の絆ともいえるかも…?

百合の定義には大別すると「エス(吉屋信子の少女小説)」と「同性愛(伊藤文学由来、百合族)」の二流派あるようです。百合≒エスを取るなら、赤毛のアンもエス百合あるいは日常系百合と言えるでしょう。
by MS (2014-08-20 16:59) 

tomorine3908-

MSさまのコメント(ありがとうございました(^^))にもあるように、百合の定義にいろいろ踏み込むと、これまたけっこうややこしいところですね;
とりあえず本稿では、女性どうしの一定以上の性的接触の有無にかかわらず、女性どうしの親密な関係性の描写に物語の力点があるものを念頭に置いています。
by tomorine3908- (2014-09-08 23:23) 

hiroponn

初めまして。
花子とアンを見てる→赤毛のアンて読んだことないな
→アニメ見てみよう→これは日常系の元祖!?

ということで「赤毛のアン 日常系」でググったらこちらのブログにたどり着きました。(アニメの方はまだ序盤しか見てません)
ブログもまだ少ししか読んでいませんが、「なるほどこういう視点があるんだな~」と新鮮な気持ちです。

で、わざわざコメントしたのは

>アン:佐倉綾音
>ダイアナ:村川梨衣

・・・中の人的には逆じゃね?
アンのあの異常なはっちゃけぶりはりえしょんそのもの・・・
いやでもそれだとダイアナが確信犯的百合の変態キャラで佐倉さん引くわー状態になっちまうか??

とかどうでもいいことを考えたからです。
失礼しました。
by hiroponn (2014-09-25 09:03) 

tomorine3908-

hiroponnさまのコメント(ありがとうございました(^^)ノ)、
>アン:佐倉綾音
>ダイアナ:村川梨衣
…は逆ではないかというご意見、なるほどと思いましたが、一方ワタシ的にはよく知っている役柄を基準にイメージしたので、ビビオペのあおいちゃんやのんのんびよりのほたるんのような少ししっとり落ち着いた感じの村川さんのほうがダイアナで、あかねちゃんやごちうさのココアちゃんのようにけっこうはっちゃけてたり少しエキセントリックだったりもする一方でselctorの遊月のように抑えた雰囲気の中にも感情の起伏の激しさがあったりという佐倉綾音さんこそアンかなぁと思った次第です。
まぁこのあたりはあくまでもオタクの妄想なのですが、そのついでにもひとつ言うなら、対案としては「 アン:戸松遥 」でしょうかねぇ、やっぱり(^^ゞ

さて、NHKのドラマの「花子とアン」ほうも、いよいよ大詰めですが、ちょうどコメントをいただいていたソノ時間帯にオンエアをチラ見していると(いよいよ『赤毛のアン』出版へという流れの中で)「女の子の日常を描いた物語だ」のようなセリフが複数回出てきました。
やはり「元祖・日常系」という見立てに間違いはないようです。
そして、そもそもそうした視点に気がつくきっかけとして、ひとつこのNHK朝ドラが話題になったことがあったわけで、この点は(日頃基本的には見ない)NHK朝ドラに感謝ですね。

ドラマでは先週は空襲のシーンなどもあって、筆者の手元にある紙束こそが唯一無二の存在である手書き原稿の時代に書きかけ原稿が燃えちゃっりしたらソレっきりななかで、ああして原稿が戦火の中をくぐり抜けてきたからこそ、今日において私たちが『赤毛のアン』を手にすることができるのだと思うと、やはりちょっと胸熱だったりもしました。

by tomorine3908- (2014-09-26 00:32) 

hiroponn

レスありがとうございます。
確かに、役柄のイメージからいくとその通りですよね。
僕の悪い癖でつい中の人のイメージをキャラに投影しようとしてしまいます(笑)
アン:戸松遥・・・なるほど。するとダイアナは豊崎あ・・・ってちょっと前ならほんとにあったかもですね。

赤毛のアンのアニメを見だすと、「花子とアン」のほうにいろいろ引用してることがわかりました。おそらく僕のように原作に興味を持って読みだした人も多いでしょうね。

原稿の貴重さはそうですよね。先人たちの血のにじむような行為の積み重ねの結果としていろんなものを享受できていることを実感しました。
そういう意味ではこのブログを少しですが読ませていただき、ジェンダーに関する情報や社会体制というものに対しても、同じような積み重ねがあったのだなということがわかります。
普段なかなか意識できない部分だけに勉強になりました。

ガルガンティア5話問題も含め、アニメの特にギャグ表現におけるセクシャルマイノリティの扱われ方を見てて「当事者はどう感じてるんだろ?」と思ってましたので、そのあたりなど「なるほどな~」と思いながら読みました。
by hiroponn (2014-09-26 21:06) 

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