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性別違和感の語られ方への違和感 [多様なセクシュアリティ]

2014年になった昨今の情勢を見渡すと、セクシュアルマイノリティを取り巻く情勢は、依然として厳しい部分もあるものの、例えば(ワタシが男性としての生活がいよいよ煮詰まってどうしようもなくなりつつあった)20年前などと比べれば飛躍的に向上したと言ってよいでしょう。

去る1月19日には「LGBT成人式」という催しも、東京と大阪で、それぞれ開かれました。

これは時期的なかねあいで「成人式」と銘打っていますが、基本的には年齢を問わず参加できるイベントで、レインボーパレードの類と同様に、一種のセクマイプライドにかかわるイベントだと言えるものです。

とはいえ「成人式」と言えば、通常のものは中学校区単位で集められておこなわれたりすることが多いはずです。
それゆえ、セクシュアルマイノリティにとっては、そのことゆえに周囲とあまり馴染めなかった学校時代の仲間と再会するモチベーションが上がらないこともままあります。
イジメられていたりしたならなおのことです。
すでに普段の生活の性別が変更済みで、往時とは男女が逆転しているトランスジェンダーの場合は、なおのこと悩ましいことになります。

しかも成人式には振袖などの衣装もつきもの。
男女別にジェンダー記号を普段以上に強いられる機会だというのも、参加への障壁たりえます。

その意味で、安心して集まれる場が設定され、自分と同様のセクシュアルマイノリティの仲間の存在を確認しつつ、自らの成長の節目とできるという点で、LGBT成人式の類は、現状やはり大いに意義がある催したりえると言えるでしょう。

大阪を会場とした「関西LGBT成人式」には、公式発表によると、200人を超える参加があったとのこと。
参加者の声をツイッターなどで拾ってみても、意義深かった旨が数多く語られています。

幾人ものセクシュアルマイノリティがこうした会に集うことで喜びと明日を生きる勇気を得られることを、ワタシもセクシュアルマイノリティのひとりとして嬉しく思わずにはいられません。

……ぃや、というか、真っ昼間から、そんな大勢のセクシュアルマイノリティが大っぴらに集まれるようになったというのは、やっぱりスゴイと言うべきでしょう。
時代は進んだ! (^o^)ノ

「関西」の会場となった大阪市内では、特に淀川区はセクマイフレンドリーを公に掲げていたりもします。

また世田谷区に会場を設ける東京のLGBT成人式には、当然のごとくご当地の区議会議員・上川あやさんも出席されるわけですが、彼女もすでに10年以上あのような公職にあるわけです。
同性愛をカミングアウトした上で活動している議員も、さらに何人も存在します。

他にも世間を見渡すと、自身の立場を表明した上で活躍するセクシュアルマイノリティは、作家、音楽などのアーティスト、大学教員……などなどの分野にも複数見られます。

むろんそうした見えやすい事例はセクシュアルマイノリティの中でも少数派なのかもしれませんが、しかしそのことが、何よりそれぞれの場で生きているひとりひとりのセクシュアルマイノリティの生きやすさの向上にもつながっていくと信じたいです。


さて、そんな昨今ですので、セクシュアルマイノリティがテレビ番組などでも「真面目に」取り上げられることが増えてきました。

昨年のNHKの「多様な性と生きている」シリーズなども、大変丁寧なつくりの良心的な番組だったと言えるでしょう。

特にこのシリーズタイトル、『多様な性生きている』ってのがイイです。

うっかりフツーに【を】にしていたら、大多数の視聴者にとっては他人事になってしまっていたところを、そうじゃなく、そんな「マジョリティ」も含めて、この社会を構成するすべての人が、そういういろいろな人の多様な性のあり方とともに生きてるんだよということを、端的に簡潔に言い表せているではありませんか。

ただ、そのような良質な番組にあっても、どうしても何かの拍子に世の男女二元制と異性愛主義に絡め取られて、私などから見れば気になってしまう点が出てくることもまたありがちではあります。

中でもしばしば遭遇するのが、トランスジェンダーが語るライフストーリーを紹介する際、性別違和を意識したきっかけとして「恋心をいだいた相手が『同性』だった」にフォーカスした編集です。

これを公然と提示されると、どうしても違和感を覚えてしまいます。

言うまでもなく、自分がどんな自分でありたいか、と、恋愛や性的関心の対象がどんな相手か、は、それぞれ独立した別個の変数です。

例えば「自分が男だから、恋愛対象は女なはず」というのは悪しき異性愛主義による誤った通念です。

したがって「自分は男なのに、恋愛対象も男なのは、もしかして自分が女だから?」というのも論理的に成り立ちません

コレは、語る本人にも注意を払う努力は望まれますが、当人にとっては実際に自分史の中で印象的な出来事なのでしょうから、一連の語りから除外はできないという事情は顧みられてよいでしょう。

あるいは、こうした当事者の「自分語り」は、本人も言語化が難しいような胸の奥に渦巻く混沌とした思いもあるでしょうし、一般の理解がまだまだ深い域には達していない中では、標準的な男女二元制・異性愛主義の枠内に生きる人にも理解可能なかたちに「翻訳」せざるをえないという事情もあります。

それゆえ、最後は番組をつくる側が、しっかりとコトの次第を理解して、いろいろミスリードを招きやすいポイントに最大限の慎重な配慮をしながら構成していってほしいところなのです。

また、テレビもバラエティ番組などでは、セクシュアルマイノリティ系タレントを「オネェ系」と単純に一括りにした上で、恋愛対象が「男性」なのが本物のオネェ、恋愛対象が「女性」ならオネェとして偽物………であるかのような設定が、まだまだ幅をきかせています。

それは、まさに市井で日常生活を送る、多くの人々のすぐそばにも居る隣人としてのセクシュアルマイノリティ像とは、かけ離れた架空の想定に基いています。

これらが一般での誤解を再生産し、偏見と差別の要因にもなっていることは想像に難くありません。

いまだ非常に影響力の大きいマスメディアであるテレビにあっては、こうした点の総合的な改善を、ぜひとも早急に推し進めていってほしいと、強く要望したいところです。


 


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