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スマイルプリキュア最終決戦編に見た居場所の社会学 [メディア・家族・教育等とジェンダー]

プリキュアシリーズ2012年度作品『スマイルプリキュア』も最終回を迎えました。
前記事などもご覧ください/こちらは→東映公式サイト

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 ※画像は放送画面より(以下当記事中同じ)

最終回を含めて、1月放映の4話(45~48話)にわたる最終決戦編全般では、少し「まとめにかかっている」感がなきにしもあらずだったものの、個人の自立を前提とした上で、仲間とつながることで希望を失わずに進んでいけるんだというメッセージが明確になったのは良かったと思われます。

1年を通じてふり返ると、やはり良い作品だったと言えるでしょう。

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細部にはいろいろツッコミどころや注文事項が見つかりますし、なかなかいろいろな制約の中で完璧というわけにはいかないのも遺憾ではありますが、人々に生きる道筋を示して勇気と希望をもたらし、エンターテイメントとして他のバトルものと遜色ない迫力のアクションに、笑いや涙、さらには萌えにまでソツがなかった『スマイルプリキュア』は、いわば今般、すべてのヒーローものを超えたと言っても過言ではないのではないでしょうか。

 →その他、最終回当日のツイッターでのツイートなどツイログ

最終決戦編が始まるまでは、敵バッドエンド王国の皇帝の名前がピエーロ→つまり「ピエロ・道化師」、あるいは上級幹部も「ジョーカー」と、これらはよく考えたら本来は人を笑かす役目の人であり、それが「スマイル」プリキュアの敵のネーミングとして用いられているのって、やはり何かどんでん返しがあるのでは? ……などと深読みしていたワタシですが、蓋を開けてみると、ジョーカーはストレートにピエーロの下僕だったようですし、ピエーロも人間が持つ負の感情が実体化した「怨念」の象徴であるとされ、それゆえに絶望→諦め→怠惰を目論む存在なのだと説明されていました。

敵が怨念に裏打ちされた「絶望」の化身だとすると、必然的に明示的な和解・共存も難しかった――前2シリーズはラスボスとも何らかの和解・救済で決着している――ようで、ラストバトルでも「絶望を乗り越える」というような形容が用いられていました。
なにせ「絶望」は、一般に、いわゆるパンドラの箱からいろんな厄災が飛び出してしまった際も、こいつだけは出てくるまえにギリギリなんとか再び蓋をできて、やれやれ不幸中の幸いだったというくらいの、そういう出てきてしまったら非常に厄介なシロモノです。
そんなわけで皇帝ピエーロにも最後はプリキュアのパワーによってお引き取り願うこととなるのですが、それでも圧倒的な力で殲滅するというふうではなしに、絵的には、最上級の浄化技の光の中で、抱きしめられることによって消えていく…、という描写だったのは、さすがケアとキュア】の物語プリキュアです。

一方、敵が「絶望」を煽ってくるとすると、プリキュア側に求められる作劇上の使命といえば「希望」を示すことでしょう。
「ハッピー」につながる「希望」、そして「ハッピー」そのものでもある「希望」…。

最終決戦編の中では、それが次のような主人公の台詞に集約されて再確認されます。
「希望、それは友だち」

……ぃや、ここだけ聞くと、じゃぁ友だちのいない子はどーすんだよといったツッコミもできてしまいますし、そういうミスリードを防ぐ意味でも、私もまた、もう少し慎重に表現を工夫して欲しかったなぁと思うポイントではあります。

しかし、メイン視聴者層として想定されている子どもの生活実感に則したわかりやすい表現を選んだ結果だと、ここはその点を許容するならば、言っている内容はまさにそのとおりです。

人はどうなったら絶望してしまうのか――。

端的に言って、それは、誰からも受け入れられない、誰からも必要とされない、そうして社会に「居場所」がない…。
思えば、あの秋葉原の凶行も、きっかけはネットの掲示板でさえ相手にされなかったことだとも言われています。
そうやって誰ともつながれない、あまつさえ否定的な扱いをされる、マイナス評価をされる、徹底的に拒絶される。
キモいとか、死ねとか、ホモとかオカマとか、化け物とか、あんたなんて生むんじゃなかったとまで言われて排除される。
そうやって、自分の存在のすべてを叩きのめされる……。

ここに社会的生き物だとされる人の絶望の核心があります。

私自身、十数年前は男性としての生活が行き詰まり、そういう状況に陥りかけていました。
(そういう意味では、私の場合、性別を変えるという方策は、そんな絶望の淵からなんとか這い上がるための手段として機能していたと言えます。たとえ、その手段そのものに絶望的なほどの困難が付随していたとしても…)

では、希望とは?
すなわち、その逆をやればいいということです。

誰かに必要とされる。
「あなたはありのまま、ここにいていいんだよ」と受け入れてもらえる。

しこうして、自分の「居場所」がある。

そして、そうである限りは、人は絶望しないでいられるのではないでしょうか。

これらが、社会の中で、お互いに実践しあえるなら、「みんな笑顔で、ウルトラハッピー」は夢物語ではない…。

そのことを、1年間かけて、じっくりと視聴者に提示したのが、他ならぬ『スマイルプリキュア』だったわけです。

同時に、主人公たちが挫けて絶望的になりかけたとき仲間の存在が助けとなって立ち直れたエピソード群を受けて、主人公たちにこんなふうにも語らせました。

自分が受けたこの優しさを、愛を、温もりを、次は自分が誰かに伝えていく――。

それは、そのまま視聴者の言葉ともなります。

特定のマイノリティを包摂しようともせず、差別し、ディスパワーし、society の外部へと排除しようとするのは、結局は絶望と怨念が渦巻く生きづらい世界を構築するだけです。

多少は面倒でも「誰も犠牲にしない」社会のしくみをつくっていく。
そこから「あなたはそのままでいい」「あなたはここにいていい」が伝え合える世界が始まるはずです。

それを今この場所からはじめることこそ、希望の花を咲かせることに連なっていると信じたいです。


   


……というわけで、「希望、それは友だち」を、若干オトナ向けに意訳したなら、【希望、それは「居場所」】となったのですが、さて、「居場所」なんていう、そこはかとなく社会学っぽいワードが出たところで、そのあたりを、この『スマイルプリキュア』最終決戦編に即して、もう少し掘り下げてみましょう。

「居場所」は、どうやったら創出できるのか?

花咲くいろは』のラスト付近でも孝一クンが緒花に「自分の居場所ははじめからどこかに用意されているのではなく自分で見つけて作っていくもの」という趣旨を語る場面がありましたが、自分の居場所が見え難いとき、それを見つけるコツなんてものは、はたして存在するのでしょうか?

そのヒントが『スマイルプリキュア』第45話「終わりの始まり!プリキュア対三幹部!!」にありました。

サブタイトルにあるようにこの回は最終決戦編の初回であり、また物語進行上のノルマとしては、敵陣営の前線指揮官とも言える三大幹部との決着が設定されていました。

『スマイルプリキュア』における敵幹部は、登場順にウルフルン、アカオーニ、マジョリーナの3名で、童話・お伽話でしばしば悪役として表象される狼、鬼、魔女が、それぞれモデルとなっています。

そして彼らは、そのことから多くの視聴者がかなり早い段階で推測したとおり、その元々の正体は、童話・お伽話モチーフとした異世界であるメルヘンランドの妖精の仲間だったのです。

ただこの3名は、童話・お伽話の中での悪役としての扱い――まさしく上述したような自己の存在を否定される体験――に不満をつのらせ、そこへ現れたジョーカーの甘言によって闇堕ちしてしまった――ということもまた、この第45話で明かされます。

そうして三幹部は最後の戦いにあたり、そうした事情も明かしながら、これまでの怨嗟のすべてをプリキュアたちにぶつけようとします。

しかし、そんな三幹部たちの身の上に、自らの学校生活などでの体験を重ねあわせて共感を抱いてしまったプリキュアたちは、もはや戦うことができなくなってしまいます。

このあたりは、やはり【ケアとキュア】の論理で戦うプリキュアならではです。
決して敵を絶対悪と措定して殲滅するような一方的な正義には則りません。

そしてメイン主人公の星空みゆきが変身するキュアハッピーが選んだ言葉は、絵本好きな少女という設定が生かされた、次のようなものでした。

「わたしは絵本の中のみんなが大好き
「絵本がたくさんの夢や希望を与えてくれるのは、みんながいてくれるおかげ…」

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これを含むやり取りを経て、三幹部たちの心は救済され、闇のオーラが抜けることで元のメルヘンランドの妖精の姿に戻るのですが、このキュアハッピー星空みゆきのロジックは非常に重要です。

そう。
絵本などに描かれる童話・お伽話をはじめ、あらゆる物語の悪役は、たしかにその物語世界の中では悪役かもしれませんが、それを読み解く読者の立場からすれば、そんな悪役もまた、ストーリーの進行に欠かせない存在です。
えてして愛すべきキャラクターだったりすることもしばしばでしょう。

さらに、絵本好きの少女が主人公の『スマイルプリキュア』というテレビアニメのなかで展開されるそのロジックを、さらに一歩外の視点に移せば、そんなアニメ作品を見ている私たち視聴者自身がいます。

スマイルプリキュアを1年間視聴した私たちにとって、ウルフルン、アカオーニ、マジョリーナの3幹部は、相当に魅力的な悪役でした。
ウルフルンに至っては、発売されたキャラクターグッズが大きな反響を呼んだりさえしています。

あまつさえ、ストーリー進行上の役どころは大変重要で、もしも彼らが攻めて来なかったら、主人公らは悩みを克服するヒントが掴めず、そのままバッドエンドになってしまっていたような回(9話や10話が顕著)も、じつはたくさんありました。

彼らの存在なしには『スマイルプリキュア』は成り立たなかったのです。

つまるところ、評価の枠組みを変える、世界設定の視点を移す、そうすることで、誰かの存在の意味付けも変わるということになります。

一見すると、いないほうがよいような害悪、必要とされないような無価値……。
しかし、見方さえ変えれば、それらが物語に必要な、なくてはならない存在であり、欠くことのできない重大な役割を担っていることも見えてくるというわけです。

思えば『スマイルプリキュア』では、「メルヘンランド」設定による絵本や童話・お伽話との親和性以上に、しばしば「劇中劇」の存在が取り上げられていました。

特にキュアピースに変身する黄瀬やよいが憧れる(作中での)テレビのスーパーヒーロー『太陽マン』や『鉄人戦士ロボッター』、公式名称不明ながらやよいの目覚まし時計や夏祭りの屋台の景品になっていたヒーロー、そして彼女自身が構想し作品化し漫画雑誌に投稿(なんと佳作に入選)する『ミラクル☆ピース』……。
そこに出てくるヒーローは、泣き虫で自分に自身が持てないやよいに、どんな困難にも立ち向かう勇気を与えてくれる存在なんだと、作中でのやよい自身によって語られています。

ところが、番組を見ている子どもたちにとっては、そもそもその黄瀬やよいがスマイルプリキュアのキュアピースなのであって、困難に立ち向かう勇気をくれるヒーローその人に他なりません。

殊に、仲間とのプリキュアとしての体験を通じて、一歩一歩夢に向かって、プリキュアとして、戦士として、そしてひとりの人間として成長していく様子は、メイン5人の中でもキュアピース黄瀬やよいにおいて、もっとも顕著に現れていたとも言えましょう。

やよいはオタク属性やキャラクターデザイン上の(「あざとい」とまで言われる)可愛らしさにおいて「大きいお友達」的にも食いつきやすい要素が多大なキャラクターでしたが、そんな彼女がカッコイイ伝説の戦士になり、さらに番組の進行につれていっそう凛々しく変わっていく様は、本来の視聴者層とされる未就学児が見ても、非常にプリキュア的というか、ヒーローとして典型的にドラマチックだったと言えます。

その黄瀬やよいが、作中では他のヒーローに憧れているという、物語世界のなんという重層構造!

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『スマイルプリキュア』では、他にも映画村で時代劇の撮影に参加することになった33話、シンデレラの世界に入り込む39話(劇場版でも同様にいろいろな絵本の世界に入り込むらしいですが……未見です)など、劇中劇の存在がクローズアップされることがよくありましたし、修学旅行で京都へ出かける13話が放映された4月29日は、放送枠が同じチャンネルのプリキュアのひとつ前の時間帯である『仮面ライダー フォーゼ』も同様に京都への修学旅行編で、一行がJR京都駅前の広場に整列しているシーンなどは実写かアニメかのちがいを除くとまさに「これ30分前に見たワ」という具合にシンクロし、(まぁこれは偶然の結果なのでしょうが)「別の物語枠の存在」がそこはかとなくほのめかされたりもしていました。

これらはやはり、世界の枠組みの次元を変更して物事を捉えることの重要性が示唆されていると解するべきではないでしょうか。

そうすることで、ひとりひとりの存在への意味付けも変わり、以て、誰もが「居場所」を獲得できる社会につながることになる――。

例えばセクシュアルマイノリティの生きづらさというのも、本人自身や周囲の人々が、男女二元的な性別観異性愛中心主義に囚われてるほど厳しいものになります。
しかし、そうした世界設定を相対化してみる、物語の枠組みの次元を変えてみる。
すなわち「男女」や「異性愛」にこだわらないといけない規範という「物語」の外側に身を置いてみる。

――それによって解決の糸口が掴め、本人の「居場所」が安定的に創出できる可能性は大きく向上するでしょう。

このように、世界の枠組みを重層化して捉えることは、「居場所」論としても、そして社会学そのものとしても、非常に重要な、心がけていくべきことなのではないでしょうか。


  
 ※そしてそもそも『居場所の社会学』といえばもちろん阿部真大さん


◎この「劇中劇が持つ意味」に着目すると、『スマイルプリキュア』では、上述のロボット回(35話)やシンデレラ回(39話)、映画村回(33話)など、一見するとギャグ回・ネタ回・「公式が病気」回ほど、じつは重要な伏線回だったと言えるのかも。
また、劇中劇回ではなかったものの、38話「コドモニナ~ル」も「公式が病気」なネタ回度が高かったです。
しかしコレは、前述のキュアハッピーがウルフルンたちを救済すべく言葉をかけた際、その結びとして「友だちになろう、いっしょに遊ぼう」というふうに言う――その2週後のみゆきのセリフに「希望、それは友だち」が来ることを考慮すると、これは『スマイルプリキュア』における最上級の救済の言葉――のですが、38話では実際にみんな入り乱れて(子どもになった状態で)いっしょに遊んでいたことをふまえると、じつはやはりクライマックスへ向けての壮大な仕込みだったのではと思えます。


◎「マジョリーナの発明品」によるトラブルを織り込んだ回は「コドモニナ~ル」以外にもしばしばありましたが、その内容が、身体と中身が入れ替わる(8話)とか、透明人間になってしまう(20話)とか、伊豆下田に住む女子中学生4人組が主人公の深夜アニメ『夏色キセキ』において神社にある謎の大きな石「御石様」が起こす超常現象と微妙にカブっているのは、さすがに「別の物語枠の存在」をアピールしているのではなくて単なる偶然だったことでしょう。
……と思ってたら、最終回の終盤、上述したやよいちゃんの描いたマンガ『ミラクル☆ピース』が佳作に入選したというカットで、いっしょに佳作としてとなりに挙げられているのが【凛音『すてきなキセキ』】なのって………!?
真相は凛音の「音」の字がシリーズ前作『スイートプリキュア』、さらにそのとなりの『シーラカンス』を描いた岡部大樹の「大樹」が前々作『ハートキャッチプリキュア』へのオマージュなんでしょうが…(^o^;)

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◎敵陣営が怨念に基づく絶望の権化だというのは、じつのところ絶望は「自分が」するものであり、絶望との戦いは自分との戦いであると考えると、皇帝ピエーロ等々もあくまでもその象徴にすぎないと言えます。
(『スマイルプリキュア』シリーズ全体を俯瞰すれば、主人公たち5人の自分との戦いは、40~44話で1人ずつ決着がついているので、その意味では、最終決戦編にビミョーに消化試合感があったのはある種の必然なのかもしれません)
YUIが『My Generation』(作詞:YUI)で自分を支配するものは唯一「描いた夢を信じきれない弱さ」で「描いた夢を強く信じきれたときから変」われると歌い、尾崎豊が男性であるがゆえに陥ったとおぼしき「これからは何が俺をしばりつけるだろう」云々と歌われる『卒業』(作詞:尾崎豊)に代表されるホモソーシャルの掟の隘路を、女性という立場ならではの軽やかさで跳躍してみせたように、今の時代、「自分との戦い」は女の子を主人公にしてこそ、爽快に描けるのかもしれませんね。
そして、やはり最終回の終盤で、主人公みゆきが1年を振り返って述懐する中にある「幸せは探すものじゃなくて、感じるものだったんだね」という言葉。
これは奥華子の『足跡』(作詞:奥華子)の歌詞、「幸せはなるものじゃなくて、きっと心で気づいていくものだから」にもつながります。
女の子たちが【ケアとキュアの論理】で戦って守る「日常」。
その中に
ある「幸せ」。
そうしたものの価値がホモソーシャルの男性特権領域の規準で周縁化されてきた歴史を、覆していく力が、プリキュアシリーズにはあると言えば、さて、かいかぶりすぎなのでしょうか?

   


◎マイノリティの自己肯定と「居場所」の獲得、周囲による受容というテーマが織り込まれるアニメといえば、超能力者の苦悩をモチーフにしたものが今までにもありました。
テレパシー少女 蘭』や『絶対可憐チルドレン』については、オンエアされた当時にこのプログでも取り上げています。
 ※PC版のサイドバーで記事絞り込みできます
そして今般、新たにラインナップに加わったのが、2013年1月から放映されている『琴浦さん』です。
他人の心が読める超能力ゆえに苦難の半生を歩んできた少女・琴浦春香が、ありのままの自分を受け入れてくれる仲間と出会い、閉ざしていた心を少しずつ開いていく様子が、学園ラブコメのフォーマットに仮託して描かれています。
(ちなみにそういう難しい役柄を好演する声優は、なんとキュアピース黄瀬やよいと同じく金元寿子さん。……日本のアニメ界への侵略計画は順調に進んでいるじゃなイカw)

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現在1~3話が済んでいますが、非常に丁寧で上質な物語作りとなっています。
私も「超能力者の苦悩が描かれる作品はマイノリティとして外せない」と思ってチェックしていたものの、当初は「ラブコメ」というふれこみゆえに大して期待はしていなかったのですが、第1話を見て、その衝撃の構成に、視聴レベルは最高の[レベル7]にすぐさま格上げ、視聴を遂行するためのあらゆる措置には、予算の聖域化を含めて、制限なしとなっています。
まさに THE UNLIMITED !
ご都合が許す方はゼヒ、視聴してみてはいかがでしょうか?

   
 ※毎回「いい最終回だった!」なアニメ、
  エンディングテーマ「希望の花」もネ申曲

……と思ったら、じつはコレ『絶対可憐チルドレン』の新作スピンオフ作品『THE UNLIMITED 兵部京介』と、関西ではオンエア曜日・時刻がまるカブりなんですよねー(T_T)
ぐぬぬー。
エスパーどうしで(視聴率の)消耗戦をさせられるなんて、ノーマルどもの思うツボぢゃないか…。
あっ、そうかコレは「反エスパー団体・普通の人々」の陰謀かっ!w
 ↑
録画やネット配信を駆使して両方視聴すると、裏番組で起きている出来事とのシンクロニシティを楽しめて、なかなか奥が深いです。
例えば『THE UNLIMITED 兵部京介』の2話のはじめのほう、カタストロフィ号の船内で真木さんが「パンドラは超能力のせいで親に捨てられた子どもを保護している」とヒノミヤに説明しているまさにそのころ、裏番組『琴浦さん』第1話では琴浦春香が超能力のせいで親に捨てられるところだったとか……。
おい兵部京介、のんきに裏番組に出演してないで春香ちゃんを助けに来いよ!w

   

とはいえ、こういうアニメ等の中で超能力者を一般人が罵倒する文言としては「化け物」も共通しちゃうわけですねぇ…。
むろんリアルの世界ではLGBTをはじめいろんなマイノリティがそのように呼ばれがちなわけですが。


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コメント 2

コメントの受付は締め切りました
ボブテール

初めまして、いつも楽しく読んでおります。

スマプリ最終決戦編の考察、読ませていただきました。
私自身いじめられた経験があり、居場所を得られなかった経験が
あったので、今回の記事を読んで心が救われた思いです。

実は「希望、それは友だち」の件では、
やっぱり「友達がいないと救われないんか…」と軽くへこみ
ましたが、佐倉さんの言う通り「友達=居場所」という解釈なら
誰にでも該当して、かつとても重要な真実だと受け入れる事が
できました。

それから45話も私は大好きだったので、言及してくださって
嬉しかったです。
おとぎ話の中で悪者扱いされていた三幹部がまるで自分の事
のように感じられたから。
三幹部も「大好きだよ」と言い、受け入れたみゆきにすごく
救われました。

皆が互いを尊重して、「ありのままでいい」と言い合える世界、
本当にそうなったらすごく素敵だなと思ってしまいます。
それを示してくれたスマプリはまさに神作品ですね。
by ボブテール (2013-02-05 13:20) 

tomorine3908-

ボブテールさんのコメント
(ありがとうございます~。今後ともよろしくです)
「希望、それは友だち」の件、
記事をまとめる前にツイッターでのやり取りをした中では、44話で描かれたようにかつては友だちのいない子だったみゆきが、今ソレを言うことに意味があったのでは……というのもありました。
人と人が出会ってお互いが変わることでそこがみんなの場所になる……というテーマは『琴浦さん』でも取り組まれていますね。


by tomorine3908- (2013-02-06 03:16) 

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